山里の記憶95


鉄砲堰の話:幸島 久(さしまひさし)さん



2012. 1. 26



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 一月二十六日、秩父の中津川まで鉄砲堰の取材に出かけた。取材先は中津川の幸嶋 久
(さしまひさし)さん(八十歳)だった。鉄砲堰とは昔の材木運搬方法の一つで、川をダ
ムのようにせき止め、そこに浮かせた丸太を溜まった水の力で下流に運ぶの堰のこと。 
 昭和三十年くらいまで実際に使われていたが、その後は索道(架線)やトロッコでの木
材搬出に変わり、今は技術伝承用に造られた鉄砲堰が残るだけとなっている。     
 久さんは実際に鉄砲堰を造れる誇り高き「鉄砲木屋」だった。昔、鳶口を自在に操り、
木材を運搬する山仕事の花形だった「きやんぼう」。中でも鉄砲堰を造れる木屋は「鉄砲
木屋」として尊敬とあこがれの的だった。                     

炬燵で鉄砲堰や昔の山仕事の話をいろいろ話してくれた久(ひさし)さん。 鉄砲堰を放水した瞬間。轟音とともに水と丸太が噴き出す。

 昔、奥山の木材運搬は困難を極めた。林道やトロッコが出来るずっと以前の話だ。中津
川奧の原生林は、急な斜面と深い渓谷がその障害となった。伐採は斧や鋸を使って秋から
冬に行われる。倒した材木を三メートルから四メートルに玉切りして搬出をする。   
 搬出の最初は谷筋に「修羅(しゅら)」という丸太の樋を谷底まで作り、その樋を一本
ずつ滑らせて落とす。冬は修羅に水を撒いて凍らせて、そこに丸太を滑らせる。こうして
谷底の土場に集められた丸太は「木馬(きんま)」という木のソリで木馬道を滑らせなが
ら下流に運ぶ。木馬道はごくわずかな傾斜で下流へと渓谷をつなぐ桟橋のようなもの。勢
いを殺しながら、加速がつかないように重い丸太を運ぶ。危険を伴う作業は、山の男達に
とって腕の見せ所だった。                            

 修羅と木馬で下流に運ばれた丸太を更に一気に下流へと運ぶのが「鉄砲堰」だ。両岸が
狭い峡谷に丸太でダムのような堰を作り、水を溜める。溜まった水に上流から運んだ丸太
を流し込む。秋、冬に伐採され、修羅と木馬で運ばれた丸太は梅雨時の増水を利用してこ
の鉄砲堰で一気に下流へと丸太を運ばれた。                    
 溜まった大量の水が丸太とともに放水口から飛び出すときに「ドーン!!」という鉄砲
のような音がすることから「鉄砲堰」と名付けられたと聞く。渓谷の途中に引っ掛かった
丸太は「きやんぼう」が鳶口を使って巧みに水流に戻して流した。山師、木屋十人くらい
で木を送った。丸太はゴトゴトと木の葉のように流れたという。           

放水の終わった鉄砲堰。昔はこの時に魚を拾ったものだった。 ベラ棒とベラ板はワイヤーで結ばれていて、こうして再利用する。

 渓谷を水の力で運ばれた丸太は、ふれあいの森のところにあった土場に水揚げされ、そ
こからは馬で落合まで引いた。いわゆる馬搬(ばはん)だ。落合からは管(くだ)流しと
いう一本ずつ流す方法で三峰口まで送り、三峰口から下流は筏(いかだ)で流した。  
 秩父の大野原(おおのはら)に貯木場があり、すべての丸太はそこに集められた。丸太
にはすべて刻印が打ってあり、誰のものかは一目で解るようになっていた。台風などで堰
が壊れ、丸太が流された場合でも、刻印で誰のものかはすぐにわかった。大きな台風のあ
とで、中津川から東京湾まで流れた丸太もあったそうだ。              

 久さんが子供の頃、鉄砲堰を放つと「ゴトン、ゴトン、ゴトン」と下の川を丸太が流れ
る音が聞こえた。昔は普通に行われていた方法で、久さんは子供時分にスカンポでその模
型を作っては堰の構造を覚えたという。                      
 鉄砲堰を解放したあとの楽しみがあった。それは魚拾い。鉄砲堰を解放すると大量の水
が噴出する。その水の中にはたくさんの魚がいた。水が流れたあと、川の周囲には大量の
魚がピチピチ跳ねていた。大ヤマメや大岩魚、大カジカもいた。中には二十五センチもあ
るカジカがいたという。子供でも簡単に捕れて楽しかった。食べ物のない時代にまたとな
いご馳走の贈り物だった。                            

 久さんに鉄砲堰の作り方について聞いた。鉄砲堰に合う場所を探すのが最初の仕事で、
両岸が岩で狭まった場所が選ばれる。「まず最初にやることで大変なんが、柱を立てるこ
とだいね・・」ネダという三本の横木を支える支柱のことだ。何もない川に位置を決めて
柱を立て、直角に支え柱を組む。T字を斜めにしたような形で柱を組む。これがきちんと
組めないと、後をいくら頑丈に作っても水圧で壊れてしまう。            
「六本立てるんだけど、これが何ともだったいね・・」六本の柱が立つと、その上流側に
まず「上ネダ」という両岸を通して渡す丸太を掛ける。崩壊を防ぐ意味で、岩を削って固
定したこともあるという。                            
 次に同じように「中ネダ」という中央の丸太を横に渡す。これも両岸の岩に固定する。
この中ネダを入れるとき、支柱に更に一本つっかい棒を入れる。この骨組み段階で、支柱
に縦横に柱を掛け渡し、ワイヤーで縛り、更に四十センチくらいの「矢」を打ち込んで固
定する。ワイヤーを固定する矢は二百本くらいを使用する。             
 最後に「底ネダ」を上流側最下部に渡して骨組みが出来上がる。とにかく、支柱とネダ
を固定しなければ堰の基礎は出来ない。久さんは基礎工事の指揮を取っているときに一番
気をつけたのが作業員のケガだった。「使ってる人が怪我をするんが一番心配だった」と
いう。水を流す時よりも基礎を組む時の方が危険で、神経を使う作業だった。     

 基礎の次は「流し」という放出口の出口を作る。なるべく真っ直ぐな丸太でスムーズに
水や丸太が流れるように、放出口から下流に向けて樋状に丸太で枠を作る。上流側の水を
溜める堰面は最後に作る。とにかく基礎が大事なのはどんな構築物でも変わりない。  
 基礎が完成すると、堰面に放水口となる「マド」の部分を残してイレキと呼ばれる横木
を打ちつける。普通は付近にある広葉樹を使うので、どうしてもすき間が空く。そこを埋
める為に石や泥、苔などを大量に必要とした。この泥や苔集めが大変な仕事で、子供時代
に手伝った久さんは「あれは大変だった・・」と昔を振りかえる。他人の山から運ぶ場合
は「シバクサ代」を払ったものだという。                     

 最後に肝心要の「マド」を作る。マドの中央にベラ棒を入れて中ザオで持たせ、ベラ板
でマドをふさぐ。中ザオの先端から川岸に針金を出しておく。この針金を引くと中ザオが
倒れ、押さえていたベラ棒が外れてマドが開き、一気に溜まった水と丸太が放出される。
この放出の時の音が鉄砲のようだということで鉄砲堰と呼ばれた。ちなみに、ベラ棒、ベ
ラ板は細いワイヤーで本体と結ばれていて、下流に流されることなく再利用される。  
 マドの開き方は、下が外れるのが秋田式、上が外れるのが越中式と言われている。久さ
んが作る鉄砲堰は越中式で、上が外れる方式だ。中津川の鉄砲堰技術は大井川から来た山
師が伝えたと言われている。                           

 水が満水になると、危険を知らせる連絡員が「テッポウ払うぞーー!」と叫びながら下
流に走る。四キロくらい走った。そして、「オー!」という大声を上げて中ザオの先の針
金を引く。ベラ棒が外れ「ドーン!!」という轟音とともに、大量の水と丸太がマドから
噴出する。一度に流される距離は七キロくらいだったという。            
 昔は何基も鉄砲堰が構築されていて、合わせデッポウという上流の水を下の堰が利用し
て、連動して放水することも行われた。水量が少ない時に行われたそうだ。      

鉄砲堰の全体像。常設で、何度もくり返し使用できた。 一トンの丸太を動かすツルの使い方を実演して見せてくれた久さん。

 きやんぼうにとって仕事に欠かせない道具がある。鳶口だ。小鳶、大鳶、ツルという三
種類の鳶口を久さんは持っている。それを見せてもらった。             
 大鳶、小鳶は使い方もわかるが、ツルの使い方がわからない。久さんが「こうやって木
を動かすんだいね・・」と使い方を実演してくれた。「一トンくらいある丸太でもこうや
ると動かせるんだいね・・」柄はミネバリという堅い木で作ってある。テコの要領で軽く
動かすと重い木も自由に動かせた。人力だけが頼りの時代、人々はこういう道具で奥山か
ら材木を運び出した。すごいものだ。                       

 久さんは「きやんぼうってなあ、下(しも)の人が呼ぶ名前で、あまりいい気はしなか
ったなあ・・」と振り返るが、私は違う印象を持っている。きやんぼうという呼び名は、
例えば江戸の火消しや鳶の男達に通じるものがあると思っている。          
 鳶口一本で材木を操った男達や、鉄砲を持って山を駆け抜けた猟師達は子供時代の憧れ
だった。畏敬と畏怖の念でその後ろ姿を追ったものだった。男の中の男、そんな言い方が
似合う男達だった。時代の流れからその姿は消えたが、きやんぼう達がやってきた事は消
えることはない。秩父の、中津川の歴史に燦然と輝いている。            
 時代の流れから残るものもあり、消えるものもある。久さんから鉄砲堰の話を聞きなが
ら、消えてゆくものの輝かしさを思った。