山里の記憶95


間伐材の杭作り:野口不三夫さん



2012. 1. 25



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 一月二十五日、前日の雪は関東南部にだけ積もった。ここ矢納では日陰だけ雪が残って
いて、道路は普通に走れたが、とにかく寒い朝だった。伺ったのは野口不三夫さん(八十
歳)のお宅で、今日は、昨年五月に伺って取材した「間伐材の杭つくり」についての後追
い取材だった。そして、昔話も聞かせてもらう予定になっていた。          

 昨年の五月、高齢だが林業の現場で活躍している人がいると聞き、取材を申し込んだ。
放置された間伐材を再利用して杭を作っているという人が不三夫さんだった。自宅の納屋
や道路脇の土場に並べられたり、積み上げられた大量の杭を見せてもらった。     
 間伐材を集め、皮をむき、長さや太さを揃える。出来上がった杭を見れば「こういう利
用法があったんだ」と思わせてくれるが、ひとりでこれをやるのは大変だ。      
 この時はゆっくり話を聞く時間がなく、あらためて再訪問することを約束して別れた。

自宅に立てかけてある杭の材料。これを切り揃えて製品にする。 この石垣は、石を川から背負って運び上げて、自分で組んだもの。

 外にいた不三夫さんに挨拶をして、家に招かれる。日当りのよい暖かい居間で炬燵に入
り、いろいろ話を聞いた。不三夫さんは林業の世界では有名人だ。全国植樹祭に招待され
たり、平成十四年の林野庁と文部科学省が主催した第一回「森の聞き書き甲子園」の対象
者にもなった。埼玉県では三人だけ選ばれている。                 
 また、林業雑誌などでは「木取り」の名人として紹介されたこともある。山仕事ひとす
じで七十七歳まで現役で働いたという元気な人だ。                 

 そんな不三夫さんが、三十年前から間伐材の杭作りを始めた。そのきっかけを聞いた。
「もとは誰も作っていなかったんだい。組合でも吾野(あがの)の方から杭を買って使っ
てたんだいね。山に木がいくらでもあるのに、間伐材だって利用出来るのに、もったいな
い・・って事で始めたんだいね・・」                       
 勤めていた製材屋さんでも建築材を挽くだけで、杭作りはしていなかった。不三夫さん
は森林組合で間伐した山の地主に話を通し、捨てられていた間伐材の中から使えるものを
運び出して杭に加工することを始めた。                      

 軽トラには三十本くらい積むのがやっとだったし、担いで急斜面を運ぶのも大変な作業
だった。こうして自宅に集めた丸太の枝をチェーンソーで削り、鉈で皮をむき、杭に加工
する。基本の長さは百五十センチのものと百八十センチのもの。太さの基準は末口で六セ
ンチというもの。年に何回か出せるように、暇があれば杭作りをしていた。      
 仕事の合間の作業だったし、ひとりでやる作業だったので大量の注文には応じられなか
った。一回で二百本とか四百本などの注文が出ると大変だった。           
 大量の注文が出て、納期がない時などは、人を頼んで手伝ってもらうのだが、日当を払
うと赤字になった。ひとりで細々やっているからやっと採算が合うくらいの値段だった。

 太さや長さを揃えるのが大変だった。用途に応じて杭に加工するので、注文時にどんな
用途で使うかを詳しく聞かなければならなかった。土留めなのか、検査が必要な工事なの
か、柵なのか、フェンスなのか・・それによって揃える種類が変わった。強度検査が必要
な場合は太さを厳密に揃えなければならなかった。フェンスの杭は姿形がはっきり見える
ので、同じような杭を選ばなければならず、曲がっていてもダメなので大変だった。  
 樹種はスギとヒノキ。どちらも特に区別なく使った。ヒノキの方が重くて作業は大変だ
った。注文主からも特に樹種の指定はなかった。ヒノキは伐って一年野積みにすると皮が
きれいに剥けるので皮むきが楽だった。                      
「木の元を下にするんが普通だったいね。先の細い方を下にするんを逆さっ杭って言うん
だいね。土建屋さんは地盤が緩まないっていう事で逆さっ杭が多かったいね・・」   
 杭の先端はチェーンソーで削って作る。三面落しと四面落としがあるが、四面落しの方
が角度をきちんと決められるので作りやすかった。                 

暖かい部屋で炬燵に入っていろいろな話を聞いた。 長年使った道具が納められた道具小屋を見せてくれた。

 不三夫さんはここ矢納で生まれた。ちょうど新制中学の一期生に当る年代で、教育制度
が混乱していた時代に中学校を卒業した。同級生は二十人くらいだった。       
 もともと学校時代から仕事をして家族を食べさせていた不三夫さん、学校を出てすぐに
県造林の山仕事や家の仕事で大忙しだった。家では大量の養蚕、炭焼き、こんにゃく作り
、牛飼いなどをやっていて毎日が戦争のような有様だった。             

 山仕事が主な仕事だったが、今のように道がなかったので何でも自分で背負って運ばな
ければならなかった。五十キロから六十キロの苗を背負って山に入り、何日も植林したも
のだった。家の前の道を直したとき、日当に加えて石を運ぶ事でお金をもらった。石垣用
の石を川から運び上げる仕事だった。一つ八十キロくらいある石を背負って山の上まで運
ぶ。多いときは百二十キロくらいの石を運んで驚かれたものだった。足は達者だった。 
 自宅下の石垣も自分で運んで組み上げたものだ。大きな石が並んでいて、これを自分で
運んだのだという不三夫さんの顔は明るく笑っていた。               

 四十五歳から六十五歳まで製材会社に勤務していた。不三夫さんの仕事は山から木を伐
って出す仕事だった。後には製材や配送もやったが、あくまで山での仕事が主な仕事だっ
た。この時に「木取り」の技術を磨き、のちに名人と言われるまでになった。     
 木取りとは伐採した木をどう切れば最も有効に使えるかを決める仕事。木の曲がり具合
や育ち方、くせなどを熟知し、製材の知識もなくては出来ない仕事だ。        
 自分で木を植え、間伐や枝打ちをして木を育てた人だからこそ出来る仕事だから、長年
の経験がものをいう。若い人にその技術を伝える事も不三夫さんの仕事だった。    

 製材会社を定年になった後は森林組合で七年間働いた。その後城峯公園の整備を三年や
った。七十七際まで現役だったことが自慢だ。健康だったから出来たことだと話す不三夫
さん。内蔵系の病気はなかったが、怪我はしょっちゅうだった。死にそうになった大怪我
も三回ほどあった。その都度奥さんに心配をかけてきた。              
 結婚して五十二年、奥さんのトミさんにかける言葉を聞いてみた。         
「よく動いてくれらいね。感謝してるんさあ・・」寡黙な人の妻への感謝の言葉だった。

このごろ調子悪くてさあ・・と話す横顔は何だか寂しげだ。 料理上手の奥さんがお昼にいろいろ出してくれた。

 杭作りの話を中断して、作業に使う道具類を見せてもらうことにした。       
 道具小屋からチェーンソーを持ち出して話してくれた。不三夫さんは五台のチェーンソ
ーを持っている。「これが一番古い奴なんだい。重たいよ・・」何だかどっしりとしたチ
ェーンソーだ。聞くとスエーデン製との事。昔はこんな重いものを使っていた。仕事先の
木の太さで使うチェーンソーを決めていた。                    
 「今のは軽くなったんで使いやすいよね・・」と出してくれたのが、今使っているとい
うチェーンソー。何だか見た事あるような形だと思ったら、私のと同じシンダイワのチェ
ーンソーだった。「これ使いやすいですよね・・」思わぬところで話が弾んだ。    

 別の道具小屋では使っている鉈(なた)を見せてもらった。手にしたのは新勝流の鉈と
ヨキ。長柄の鉈は鎌のように先が曲がっている。枝打ちはこれがいいんだとのこと。ヨキ
も枝打ちに使う。「ヒノキの枝を打つと鉈は刃がこぼれるんだいね、これなら大丈夫だか
んねえ・・」もうひとつ見せてくれたのが先にカギのような出っ張りが付いた鉈。これは
私が子供の頃見た記憶がある鉈だった。先のカギで枝を引っ掛けて手元に寄せるのに便利
な鉈だ。これもなぜか柄が長い。我々素人ではとても危険で使えない長柄の鉈。プロの仕
事ぶりを道具からも想像することができた。                    

 不三夫さんは「1Q会(いっきゅうかい)」という会の会長をやっていた。山里の高齢
者事業団のような組織で、ミニ炭俵や、わらじ、藁草履、木のボールペンなどを作り、い
ろいろなイベントで販売したり、施設に寄付したりしている。その活動で県から表彰され
たこともある。                                 
 納屋にはミニ炭俵がたくさん出来上がって並べられていた。ミニとはいえ、きちんと茅
で俵を編み、炭を詰めた本格的なもの。民芸品として飾ってもよいし、玄関などに置けば
吸湿や脱臭に効果があるというもの。地区の高齢者が集まって、みんなで作るのは、色々
な意味で奨励されている。そんな活動を何年も続けてきた。しかし、昨年体調を崩し、家
にじっとしていることが多くなった。杭作りも「後をやる人がいねえんだい・・」と寂し
そうだった。