山里の記憶93


あんぽ柿:加藤好治(よしじ)さん



2011. 11. 15



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 十一月十五日、今日は二年越しのあんぽ柿取材の日。取材させてもらうのは両神の薄、
大塩野の加藤好治(よしじ)さん(八十一歳)。昨年ここに取材に来た朝に、好治さんの
具合が悪くなってしまい、急遽取材キャンセルになった。そのまま取材出来ず、二年越し
の取材になってしまった。                            
 加工場で皮むきの作業をしていた好治さんに挨拶をするとすぐに「去年は悪かったいな
あ、あん時やあ急に具合が悪くなっちゃってなあ・・」と詫びられて恐縮してしまった。

 好治さんは、ここでもう十五年ほどあんぽ柿を作っている。七年ほど福島の本場に視察
に行ったほどの勉強家だ。好治さんのあんぽ柿は品質がいいと評判が高い。      
 柿はすべて自分の家の柿だ。一年間こまめに手入れした蜂屋が赤く色づき、収穫されて
いる。加工場の中にはおよそ六百もの収穫箱が山積みになっている。一つの箱に約五十か
ら六十の蜂屋が入っていいる。今年は成りがいいということで、丸々とした柿が放つ芳香
が加工場に充満している。大きなものは五百グラム以上の柿もある。         

これで五百グラムくらいかな、と大きな柿を見せてくれる好治さん。 加工場の中で十時休み。みんな集まったところで写真をパチリ。

 柿の皮むきを見せてもらう。妹のキヌ子さんが「へた回し」という機械でへたを取る。
軸のT字型を残してへたを一瞬で削る機械だ。肩の部分をたいらに削ってくれるのは、次
の行程で皮をむく時に必要になるからだ。皮をむく機械は空気を吸い込む力で柿を機械に
固定する。その吸い付きを確実なものにするために肩の部分をたいらにしておくことが必
要なのだ。へたをむかれた柿は好治さんのところに回ってくる。           
 好治さんは柿の中心線を見極めて皮むき機に柿をセットする。スイッチを押すと柿が回
転する。好治さんがピーラーを当てると。スルスルっと皮があっという間にむけて下に落
ちる。機械の下にはむかれた柿の皮が山のようになっている。この皮が放つ芳香が加工場
に満ちている。                                 
 加工場の中には男性一人、女性三人の助っ人が来ていた。みんな兄弟なのだという。毎
年秋になると手伝いに来る。東京の町田や秩父から実家の手伝いに来てくれるのだ。好治
さんも「毎年、秋の兄弟会のようだいねえ、みんなよく手伝ってくれるんで助かるよ」と
頭を下げる。兄弟の手を借りて大量の柿を採り、選別し、皮をむき、干して、あんぽ柿を
作る。みんなの力が、好治さんのあんぽ柿になる。                 

 加工場で皮をむかれた柿は母屋の二階に運ばれる。ここで専用の台に干されてあんぽ柿
になる。まず、サイズごとに並べて縄につける。LとMは八個、SとSSは十個が一本の縄
につけられ、これが連と呼ばれる。そして硫黄燻蒸機にかけられる。         
 箱形になっている燻蒸機の中に、柿が付いた縄の両端を左右に引っ掛ける。柿がぶら下
がった下に鉄鍋を置き、全体をビニールで覆って、硫黄を燃やす。四十キロ(約二百個)
の柿は七グラムの硫黄を燃す。六十キロで十グラム、百キロで十三グラム、二百キロで二
十グラムと硫黄の量は厳しく決められている。                   
 燃やす時間はいずれも一時間と決められている。柿に二酸化硫黄が残留しないようにす
るためだ。この硫黄燻蒸は大正時代から行われている方法で、あんぽ柿の殺菌、防カビ、
ビタミン保持などの目的で行われるもの。                     

家は二階が干し場になっていて、柿を運ぶリフトがついている。 二階には柿がビッシリと乾燥のために並べられている。

 燻蒸が終わった柿の連は日付を書いて干場に干す。部屋は真っ暗で扇風機がいっぱい回
っていて寒い。光が当たると柿の色が濃くなってしまうので、部屋全体を遮蔽してある。
この場所だけで三万から四万の柿が干せるという。                 
 扇風機は業務用の大きなものが七台、天井にも三台あって、ずっと回っている。その他
に外に空気を出す換気扇が棟の左右に二台ずつ、これもフル回転している。その他に大型
の除湿器が六台あって、これも一日中稼働している。一日に一台からバケツ三分の一くら
いの水が取れるが、これは全部柿の水分だ。                    
 そう、これらの装置は柿を乾燥させるためのもの。この部屋では気温が上がる事が大敵
で、暖かくなって少しでもカビが発生すると商品価値がなくなってしまう。温度は七から
八度が適温だが、最近は温暖化の影響か十一月でも暖かい日が多いので気を抜けない。 
 ゴミやホコリも商品化の大敵なので、きれいに掃除してある。古いチョウナ跡の残る太
い梁もツルツルに磨かれている。「掃除するんが大変なんだい・・」と好治さん。   

 十日前に吊った柿が乾燥して半分くらいの大きさになっていた。「まだこれくらいじゃ
ダメなんだい・・」「出荷はいつごろからになるんですか?」「半生のは十一月末から、
乾いたものは十二月末のお歳暮用だいね・・」「半生のは二個入りのトレイパックで、乾
いたのは一個づつ真空パックにするんだいね・・」                 
 好治さんのあんぽ柿は、遠く北海道や沖縄からも注文が来る。           

 柿の木の手入れについて聞いてみた。柿の木は、この家から川の方に下ったところに植
えてある。柿を採ったあと、十二月から剪定に入る。これが三月まで続く。実を採りやす
いように背を低く仕立ててあるので剪定は重要な作業だ。              
 二月から三月にかけて肥料をやる。窒素リン酸カリをバランス良く配合した化成肥料や
、石灰硫黄配合剤、堆肥などを施肥する。                     
 五月から九月までの間に消毒を五回する。落葉病やカメムシ防除が主な目的だ。消毒を
しないと虫食いで商品にならない。                        

 この家は、好治さんで十五代目になるという古い家だ。昔は商人宿をやっていたとも言
う。好治さんが子供の頃、お風呂は男湯と女湯に分けられていたという。宿の名残だ。 
 この家のお風呂はれっきとした鉱泉で、今も大きな温泉施設がお湯を買いにくる。すぐ
裏にある源泉から引いた鉱泉を湧かして、毎日入っていた。             
「あれは体の疲れが取れたよねぇ・・」「よく風呂場で遊んで怒られたもんだいね・・」
などと妹さん達の話にもよく出てくる。ここの鉱泉が両神温泉の最初の湯だった。   

こたつでいろいろ昔の話を聞いた。 新聞にも載った「だるま柿」、好治さんの畑で採れた珍しい柿。

 父親を十八歳でなくした好治さん。三男でありながら家を継いだ好治さんは近所付き合
いなどで大変な苦労をした。                           
 好治さんは小学の五年くらいから馬を引いて田んぼの代掻きをやらされた。おじいさん
が山で焼いた炭を背負って運ぶのも好治さんの仕事だった。朝のうちに二往復運んだ。二
回目には学校が始まっていて、遅刻はしょっちゅうだった。             
 みんなと同じように学校に行きたかった好治さんが、手伝いに行きたくないなんて言う
と、縄で引っぱたかれたものだった。「なから厳しい親父だったんだい・・」と笑う。 

 そんな好治さんが二十五歳の時だった。二十二歳だった智恵子さんを秩父の太田から嫁
に迎えることになった。                             
 当時、皆野と小鹿野にあったタクシー五台を総動員して嫁御を迎えた好治さん。「こう
いう時ぐらいって、奮発したいなあ・・」と笑う。確かに大奮発だ。         
 家には五十膳くらいの食器があり、披露宴は自宅でやった。飲めや歌えの大宴会だった
が、本人達は忙しかった思い出だけだという。                   
 当時、嫁入りした翌日にお嫁さんが「里帰り」するという風習があった。寝るか寝ない
かくらいの時間に髪結いの人が来る。智恵子さんはカツラでなく自分髪の毛で髷を結って
いたので、その髪を結い直しに来たのだった。せき立てられるように里帰りする智恵子さ
ん。確かに、それは忙しい。                           
 智恵子さんが嫁に来たとき、この家には十人ぐらいが住んでいた。三反の田んぼと養蚕
、コンニャク作り、八頭の牛飼いなど、目が回るような忙しさだった。        
 子供が出来て、おんぶして牛の乳搾りをやる。背中におぶった子供を牛の尻尾が勢いよ
く叩く。牛にしてみれば尻尾でハエを追うだけなのだが、背中の子供はそれを嫌がった。
「今から考えると懐かしいようだいね・・」と智恵子さんが笑う。          

 今は田んぼで作る米も親戚に配るだけで終わるくらいしか作っていない。その代わり、
近くの小学校の五年生に稲作指導をして、田植えから稲刈りまでを体験指導し、餅つきな
どをして喜ばれている。毎年来る子供達からの感謝の手紙を大切に保管している。   
「今はこれが一番楽しいやね・・」と笑う。家の鴨居には子供らと撮った写真が額に入れ
て飾ってある。写真の中、好治さんの笑顔がまぶしい。