山里の記憶93


石垣の里で暮らす:新井邦一さん



2011. 10. 18



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 十月十八日、吉田の龍勢会館で櫻井さんと待ち合わせ、石間(いさま)に向かう。今日
は念願だった石垣の里、石間の取材だった。取材する人は新井邦一(くにいち)さん(八
十八歳)。石間で生まれて八十八年間を過ごして来た人だ。             
 邦一さんはにこやかに我々を招き入れてくれ、炬燵で昔話をしてくれた。ここは天空の
村と呼ばれるほど、山の急斜面に多くの石垣が築かれ、家が建てられている。なぜこのよ
うな場所にこれほどの家が建てられているのか不思議で仕方なかった。邦一さんにそんな
話から聞いてみた。                               

 「ここは日当りがいいし、霜が降りないんだいね・・」集落の中心に光明寺というお寺
があって、そこを開いた家が中心になっている。そこから分家、分家で今の集落が出来上
がったのだそうだ。元の家は、今の代で二十三代目に当るという。          
「だから、ここはみんな新井なんだいね。違う名字の人は他から来た人なんだいね・・」
と、分かりやすく説明してくれた。新井さんばかりだという謎も解けた。       

急斜面に建つ邦一さんの家。道路も狭くて急な道が多い。 家の裏、昨年12月に自分で補修した石垣を見せてくれた。

 それにしても石垣で構成された急斜面での暮らし。昔はさぞかし大変だっただろうと思
う。邦一さんに昔の話を聞いた。                         
 ここに車が通れる道が出来たのが昭和三十年ころだった。それ以前は石段の急斜面を自
分の足で登り下りするしか方法はなかった。荷物は全部自分で背負って運んだ。邦一さん
は百二十キロの重い荷物を、下の道から家まで担ぎ上げたことがある。        
 急斜面で暮らす人々はみな足が達者だった。                   

 水道が引けたのは昭和三十五年だった。それまでは常に水が不足した生活だった。井戸
もあったのだが、春に涸れる事が多く、春先にはほとんどの家が天秤棒で川から水を運ん
でいた。井戸が涸れると、水は川まで下って、天秤棒でバケツか桶に汲んで運ぶしかなか
った。                                     
 川の水はどこで汲んでもよかった。ほとんどの家では女衆(おんなし)の仕事で、赤ち
ゃんを背中におぶって天秤棒で水を運んでいる人も多かった。            
 水が貴重なため、風呂に毎日は入れなかった。風呂のない家もあり、風呂を借りに行く
のも日常的な光景だった。台所に水瓶があり、そこに汲んだ水を使って料理などもした。
 水道が通ると、便利になったので、わき水の水源だけではまかなえないほど水を使うよ
うになってしまった、と邦一さんは嘆く。                     
「貴重なものを大切に使うっていうことを忘れちゃったいね・・」          

 この家には多いときで十二人が暮らしていた。大勢の人が食べるものを確保することが
一家の最重要課題だった。急斜面の山肌に石垣を積んで畑を作る。日当りの良い畑では、
野菜や麦などの食べ物を作る。日当りの悪い畑は桑を植えて養蚕に使う。       
 作物は、大麦、小麦、サツマイモ、ジャガイモ、カボチャ、トウモロコシなどの主食に
なるものを作り、他に季節の野菜を作った。大根や白菜を作って、漬け物に加工するのも
大切な食料になった。                              

 急斜面の畑は土が下に落ちないように「さかさ掘り」をした。急斜面を下に向かって土
を上に上げるように耕す方法で、逆さっぽりとか逆さうないなどとも言われる。これが重
労働だったが、大切な土が下に落ちる事は何としても防がなければならなかった。一緒に
話を聞いていた娘の伴子(ともこ)さんが笑いながら言った。            
「畑で遊ぶと、すごい勢いで怒られたもんだいね。土を落とすんじゃねえ!ってさ・・」
 畑の面積が小さいので、石垣を栽培に使うこともあった。石垣のすき間に土を押し込ん
で、そこにエンドウの種を蒔く。生えてきたエンドウは日当りが良いので、石垣に沿って
上に伸び、石垣上で収穫出来るというもの。石垣の里ならではの栽培方法だ。この方法は
邦一さんの母親が実家の群馬でやっていた方法をみんなに教えたものだった。     

 現金収入を得るために養蚕は欠かせなかった。昭和五十年くらいまで、おばあちゃんが
中心になって養蚕をしていた。多いときは五十グラムのケゴ(毛蚕:卵から生まれてばか
りの蚕の幼虫)を育てたというから、五百キロくらいの繭を生産していたことになる。 
 伴子さんも「寝るところがないようだったいね・・」と昔を懐かしむ。当時はどの家も
同じだった。お蚕様(おこさま)のご機嫌取りが一番の仕事だった。         
 奥山に桑畑があり、そこから桑を運んで来るのが子供らの仕事だった。学校に行く前に
一回、帰って来てから一回運ばされた。家族みんなで養蚕にいそしんだ。       

 邦一さんの家では椎茸つくりもやった。原木を山から伐り出し、植菌したものを川の水
に浸けてから山に運ぶ。水に浸けないと椎茸が出て来ない。水に浸けた原木は重かった。
それを担いで山に運ぶのが重労働だった。三百メートルくらいの山道を背負い上げた。 

 麦作りが終わる頃から吊るし柿作りが始まる。大きな柿の木があり、たくさんの柿が取
れた。長い竹竿の先にカギをつけたもので枝をゆすって実を落とした。急斜面をコロコロ
と柿が落ちた。割れていないものだけを吊るし柿に加工した。            
 皮をむき、家の軒先に吊るして干し柿にする。正月前に干し柿を買いにくる人があって
、わずかながら現金収入になった。この時期はどの家も、家の前が真っ赤になるくらい吊
るし柿を作ったものだった。むいて干した柿の皮は甘味として、子供のおやつや漬け物の
味付けに使われた。                               

 家では牛を一頭飼っていた。牛の草刈りは子供の仕事だった。これも学校に行く前の仕
事だった。子供らもよく働いた。山に入って枯れ枝を集めるのも大事な仕事だった。ボヤ
まるきと呼ばれたこの仕事。どの山でも枯れ木だったら集めてよかった。焚き付けや燃料
として生活を支えた。足の達者な子供が多かったのもうなづける。          

 むかしの話が一段落したので、邦一さんに昨年修復したという石垣を見せてもらった。
昨年の十二月に補修したのは、家のすぐ裏の石垣だった。石垣は垂直に積まれたもので、
素晴らしい石組みになっている。石は川から運んだものだという。          
「途中で腰を痛くしちゃってさあ、最後は弟にもすけて(手伝って)もらったんだい」 
八十八歳がこの石垣を積んだんだと思うと唖然としてしまう。            

道路上の石垣はすべて邦一さんが自分で積んだ。 この納屋の一階は半分が石垣。石垣を利用して作った。

 その後、車道を切り開いた時に積んだという石垣を見せてもらった。家の下に延びる百
メートルもの長さの石垣がそれだった。「役所は道の下はやってくれたんだけど、上は自
分でやれってことでさあ、仕事の合間で五年くらいかかったんかさあ・・」      
 一人で、五年かけてこれだけの石垣を積んだ。                  
 さらりと言われたが、すごいことだ。人の背丈以上の石垣、長さは百メートル以上ある
だろう。この里で暮らすには必須の技術なのかもしれないが、その石積みの見事さに言葉
が出ない。普通の人が普通に、これだけの仕事ができる。なんと素晴らしいことか。  

 石垣の石は全部川から運んだ。「むかしはセイタで背負ったもんだが、今じゃあみんな
軽トラだいね・・」「補修は崩れたらやるんさあ、まあ、よっぽどじゃないと崩れないけ
どねえ・・」むかし、大きな石は十二人もで担いだという。荷棒(こぼう)を差し渡して
みんなで声を合わせて持ち上げて運ぶ。そんな共同作業もこの里ならではのものだった。

納屋と自宅を下の道から見上げる邦一さん。 石垣の里での昔話に花を咲かせる。貴重な話がいっぱい。

 道下の畑を見せてもらった。畑に入ると、立っているのが難しいくらいの急斜面で、バ
ランスが上手く取れない。この急斜面にまるで階段のように白菜、大根、赤かぶ、ナスが
植えてあった。斜度で三十度以上はある急斜面だ。土を落とさないように耕す事がどれだ
け難しい事かよくわかる。ここで野菜を育て、収穫し、子供を養ったのだ・・と思うと、
何だか人間の力の凄さを素直に感じた。                      

 道に戻って、邦一さんにここで暮らした事で良かった事を聞いてみた。       
「ここは暖かいんだいね、霜は降りないし。それで夏は涼しいんさあ。風がよく通るんだ
いね・・」「台風が来ないんだいね、何でかさあ・・」「そうそう、そうなんですよ」と
伴子さんも口を挟む。                              
「みんな足腰が丈夫にならいね、かけっこはみんな速かったよ・・」「何より、近所がみ
んな親戚だから、まとまりがいいやねえ・・」住めば都と言うが、外から見ているだけで
は分からなかった。この里の本質が見えたような気がした。