山里の記憶87


炭焼き:柴崎善治さん



2011. 4. 12



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 四月十二日、小鹿野町般若(はんにゃ)の長若山荘に行った。今日は、ここ長若山荘の
ご主人、柴崎善治さん(八十八歳)に、炭焼きの取材をさせてもらうことになっていた。
 盛んに白い煙を上げている炭焼き小屋は、山荘の五十メートルほど上流にあった。  
 善治さんは、煙の出ている煙突の様子を見ているところで、挨拶をして話を聞く。この
小屋には二基の炭焼き窯がある。一つは先日火入れをして、今、盛んに白い煙を出してい
る窯。もう一つは火を止めて温度を下げている途中の窯。炭出しや立て込みとタイミング
が合わず、地味な取材になってしまったが、その分、たっぷり話が聞けた。      

火入れの写真を撮っておいてくれた。5時間燃やす。 もくもくと白煙を上げる窯。そろそろ窯止めの予定。

 盛んに煙を出している窯の煙突には四メートルほど横に長く煙突がつけられて、木酢液
が採られている。ポタリポタリと落ちる木酢液はタンク一杯に溜まっていた。     
「一晩でこの樽一つくらい採れらいね・・」酢酸を含んだ煙が冷えることで、木酢液が採
れるので、寒い日の方が良く採れる。夏に炭を焼くと暑くて木酢液はそれほど採れない。
 群馬のリンゴ農家で木を消毒するために使いたいと言っているのを聞いて「そんなもな
あ、いくらでもやるよ・・」と言って四タンクほど持って行ったこともあり、ずいぶん喜
ばれた。他に、野菜畑で消毒に使う人もいる。                   

 窯の横には、次の立て込み用の薪が積み上げられていた。「これで半分くらいかさあ」
次回の立て込みには、この倍の薪を準備しなくてはならない。薪はクヌギやコナラ、エゴ
の木、樫の木などが三尺長に切られて、積み上げられている。            
「樫はいい炭にならいね。エゴの木の炭もいいんだよ・・」「一番いいんなあクヌギだい
ね、ナラもいいけどね・・」薪は、近くの自分の山から伐ってくる。木を伐って、炭に焼
くまで一ヶ月くらい乾燥させる。昔は「伐り子」という専門の人がいて、そういう人たち
は十月から十二月くらいに木を伐り出したものだった。               

 小屋の隅に使い込まれた斧、ハンマー、ヤが置かれている。太い丸太はこの斧とヤを使
って割る。「昔はワリとマルは分けて焼いたんだけど、今は一緒に混ぜて焼いちゃうんだ
いね・・」ヤを使うと枝のこぶのような部分もしっかり割れる。           
 善治さんは八十八歳にして剣道七段の腕前。薪を割るのなどお手のものだ。しかし、名
人でも手元が狂うこともある。ハンマーで打ち込んだヤが跳ね返って左足を直撃したこと
がある。ズボンをめくって、その痕を見せてくれた。「先が太いだけのヤは跳ねるんだい
ね。ヤの先が尖っていて、食い込みやすいのがいいやね・・」            

 窯は平成十八年の六月に作った。「孫と倅が手伝ってくれたんだい」「埼玉二号ってい
う窯なんだけど、いい炭が焼けるんだいね・・」ダンプ三台の粘土をここに運んで山積み
にして何年も置き、それを掘って窯を作った。「今はユンボで、わきゃあねえけど・・」
 窯は水はけの良いところに作らなければならない。下から水が湧くと一寸勾配で低くな
っている煙道口が水浸しになって炭が焼けなくなることもある。           
 窯の天井部分は古い焼いた土と木灰、石灰とセメント(分量で四分の一)を混ぜたもの
を打ちつけて作る。粘土だけだと焼いたときに乾燥してひびが入ってしまう。     
 昔の人は「一回炭を焼いてから屋根をつけろ」と言っていた。屋根をつけて火入れをす
ると、窯の天井が焼け落ちたりしたとき、屋根まで全部燃えてしまうからだ。善治さんも
麦わらで葺いた屋根を燃してしまったことがある。冬の作業で、特に山での作業が多かっ
たので、炭焼きの火から山火事を出すことが多かった。窯から出して、置いといた炭が発
火して火事になったこともある。                         
 炭焼き小屋には「火の用心」の看板が置いてあり、今でも火の始末には気を使う。  

 善治さんが焼き上がった炭をカットして見せてくれた。かなり古いバンドソーを使って
炭を十センチくらいに切る。「もう戦前から使ってる機械なんだいね。よく動くよね」と
言いながら刃で次々と炭を切る。切った炭は小麦粉や米が入っていた紙袋に詰められる。
 この炭は山荘でも使われるし、併設している弓道場や剣道場でも使われる。弓道場では
はねる火の粉で袴に穴が空くこともあって、合宿の学生達も戦々恐々らしい。小屋の隅に
袋が何個も積み上げられていた。                         

「火気に注意」山火事防止看板が、小屋に掛けられている。 頃合いと見て、木酢液用の煙突を外す善治さん。

 炭焼き小屋の作業が一段落した。山荘に戻り、ロビーで善治さんに昔の話を聞いた。 
 善治さんは、小学を出て秩父農林学校に通っていた。農林学校は今の西武秩父駅のとこ
ろにあった。門番が小銃を持っているような時代で、軍から派遣された少尉や中尉による
軍隊教育を受けていた。昭和十六年十二月に繰り上げ卒業となり、同月八日、太平洋戦争
が始まった。当時、父親が村長で、海軍の兵事係を兼ねていた。よそ様の子供を志願させ
るには、お前が海軍に行かなきゃならん、と善治さんを海軍に志願させた。      
 甲種合格の善治さん、横須賀に配属される。当初は元気だった海軍も、船が次々沈むと
元気がなくなり、陸を移動させられるようになる。昭和十七年には乗る船がなくなってし
まった。当時、日記に「日本敗れたり!」と書いたのを同僚に見つかって「銃殺になるか
ら消してくれ」と言われた。戦局は悪くなる一方で、横須賀から館山、果ては千島列島へ
と転戦する。千島で結核に冒され、隔離されたこともある。終戦は横須賀で迎えた。  

 昭和二十年、終戦と同時に故郷に帰った善治さん。村内の長留(ながる)耕地からお嫁
さんをもらうことになった。当時、青年連盟の発会に向けて忙しかった善治さんが、知ら
ない間に話が進んでいて、他の人から自分の結婚の話を聞いたという。        
 お相手は置子(おきこ)さん十九歳。善治さん二十二歳の時だった。一月七日に口堅め
があり、二十八日に祝言という慌ただしさだった。                 
 三キロ余の道を歩いて迎えに行った。雪の道だった。もらい方とくれ方と二人の仲人が
いて、祝言もくれる家ともらう家の両方でやった。当時はまだ配給のお酒で上げた祝言だ
った。祝言の三日後には、もう炭出しをやっていた置子さんだった。         
 結婚した年の農休みに、電車を乗り継いで日光まで行った。その翌年には湯河原まで旅
行したのがいい思い出になっている。今で言う新婚旅行だ。当時は占領下で、ホテルには
アメリカ人が泊まっているような時代。二人で行った旅行が、善治さんは忘れられない。

 「おきちゃんには苦労かけたいね・・」「おきちゃんは大変だったんさあ・・」善治さ
んが声を大きくして何度も言う。おきちゃんは一昨年、八十三歳で他界していた。温厚な
、口数の少ない、我慢強いお嫁さんだった。                    
 当時、柴崎家は大家族で、多いときは十八人もの人が一つ屋根の下で暮らしていた。自
分の子、姉さんの子、預かった子・・・一年生から五年生まで六人もの子供がいた。食べ
るものの準備がおきちゃんの大仕事だった。サツマイモなどはひと袋をひと晩で食べてし
まう胃袋が相手だ。苦労は絶えなかった。それでも三人の子供を育て上げ、他の子供達も
わけへだてなく接し、みんなを送り出したおきちゃんだった。            

高温になる煙突が割れないように、竹で補強してある。 いろいろな話をしてくれた善治さん。八十八歳には見えない。

 昭和四十年、民宿を開業した善治さん。四十五歳から剣道を始めた。当時、町会議員だ
った善治さん、議員も剣道をという議長会の決議を受けて、昭和四十四年に第一回の議員
剣道大会を開催した。同じ頃、小鹿野町に「剣友会」が出来て、そこにも加入する。同じ
年の七月、民宿に剣道場を作った。                        
 「遅く始めたんで、努力したいね・・」努力と素質の両方が花開き、めきめきと実力が
ついていく。二段を取る。翌年に三段。更に四段、五段、六段と一年ごとに上がる。これ
がどれだけ凄いことか、昇段試験を受けた人なら分かるはずだ。六段まで一発合格。凄い
としか言いようがない。さすがに七段は一発では無理だった。三度目の正直で、七段に合
格したのは京都での試験だった。かかり稽古に明け暮れた日々だった。        
 炭焼きの話をしていても、時折引き締まる表情に「武道家」の面影を見る。とても八十
八歳には見えないのは、この「武道家」のまなざし故なのだろう。          

 善治さんは他にも多くの事蹟を残している。天体観測所の建設や釜の沢五峰ハイキング
コースの開設など。自分で案内板を設置してコースを開削し、その後の管理もやっている。
 戦争の話をしていた時だった。ふと「戦争で死んでいった仲間の分も、世のため人のた
めって働いてるんだい・・」とつぶやいた言葉が、その力の源なのかもしれない。