山里の記憶81


ふとんを作る:高岸キミさん



2010. 11. 13



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 秩父市上吉田(かみよしだ)宮戸(みやど)にある高岸ふとん店は六十年以上もこの地
でふとん店を営業し、地元の人々に愛されている。今日は、八十二歳にして現役のふとん
作り職人、高岸キミさんを訪ね、ふとん作りについていろいろ話を聞かせてもらうことに
なっていた。家の庭先にはこの地方の民家らしく、しゃくし菜や小豆が干してあった。 
 挨拶をして家に上がらせてもらい、四方山話に花を咲かせる。お茶と一緒に珍しい「え
びし」が出された。この地区では多くの人がえびしを作るが、キミさんは名人として名高
い。平成五年の日本農業新聞に「えびし作りの名人」として紹介されたこともある。  
 ひとくち頬ばったえびしを噛んでいくと、口の中にミカンの皮の爽やかな香りが広がっ
た。聞くと、ミカンの皮の他にすりゴマ、落花生、胡桃、細かく切った焼き海苔などが入
っているという。「みんなにキミちゃんのえびしは美味しいって言われるんだいね・・」
とキミさんが笑う。確かに柔らかくてじつに美味しいえびしだ。           

収穫の時期、この時期の庭先には様々な収穫物が干してある。 炬燵でキミさんに山里の記憶ファイルを見てもらう。

 えびしに夢中になって、うっかり今日の取材を忘れていた。あわてて居住まいを正して
今日の目的であるふとん作りについて話を振った。キミさんは笑いながら「それじゃあ作
業場に行きましょうかね、実際に見てもらった方がいいでしょ」と言いながら、とても八
十二歳とは思えない軽い足取りで隣の作業場に向かった。              
 作業場の入り口にひと組みのふとんが積んであった。そのふとんを指さしてキミさんが
「これが【どんす】っていうふとんなんだいね。お嫁さんが嫁入りの時に持って行くふと
んで、敷き布団と掛け布団が二組ずつになってるんだいね。きれいな柄でしょ。今はこう
いうふとんを作る人も少なくなったいねえ・・・」赤い鶴と合歓(ねむ)の花の柄が、じ
つにきれいなふとんだった。しきたりや習慣が薄くなることは、なにか寂しい気がする。

 作業場には娘のあき子さんがいた。昔はキミさんひとりでやっていたが、今は二人でふ
とんを作っている。作業場には所狭しと三つ折りにされた綿(わた)が束になって積み上
げられていた。綿打ちの機械で打たれた綿はこうして三つ折りになって出てくる。昔は綿
の打ち返しを仕事にしていたのだが、いつの間にか自然にふとんを作るようになった。 
 持ち込まれた古いふとんの側が折りたたまれ、大量に積まれている。打ち返した綿は新
しいふとん側を使って新しいふとんを作るので、古いふとん側は処分することになる。産
業廃棄物扱いで、グリーンセンターに持ち込んで処分してもらう。          
 大量の綿があるが、昔よりはずいぶん少なくなったという。敷き布団を作るのに六キロ
、掛け布団でも三キロの綿を使う。六キロの綿といえばものすごく大量の綿になる。打ち
返してふかふかになった綿は、思い切りふくらんでいるので扱うのも大変だ。綿にもいろ
いろ種類があって、良い綿はよくふくらむ。キミさんの先導で敷き布団作りが始まった。

 作業場の中央に敷き布団の側だけを裏返しに置く。その上にキミさんが一枚一枚綿を広
げて置く。ふとん側より三十センチほど大きく綿を置き、さらに厚さが均一になるように
互い違いになるように重ねていく。全体が均一になるように次々重ねていく。サイズが大
きい綿は半分にちぎり、同じ厚さになるように重ねる。キミさんの動きに淀みがない。 
 綿の厚さが十センチくらいになったところでキミさんが四隅の綿をちぎり取った。綿ぼ
こりが飛び散るが、かまわず作業は続く。四隅をちぎったのは端を折り返す為だった。あ
き子さんと二人で息を合わせて綿の端を内側に折りたたみ、ふとん側と同じサイズに綿の
形を作り上げる。こうして、きれいな綿でふとんの原型が出来た。          

ひとつの布団に使う綿。敷き布団で6キロ、掛け布団で3キロも。 敷き布団の綿は厚いところで30センチにもなる。

 キミさんは中心の凹んだ部分に次々と綿を積みかさねていく。「まん中は綿をいっぱい
入れなくちゃいけないんだいね・・」「どこをどう厚くするかは見当(経験と勘)だいね
え・・」と言いながら手はずんずんと動き、重ねられた綿は三十センチ以上の厚さになっ
た。こうして見ると六キロの綿というのはじつに大量だ。              
「こんなもんかね・・」キミさんの声であき子さんが綿の塊の上にビニールシートを二枚
かけた。何をするのかと見ていたら、キミさんが「返すんが大変なんだいね」と言いなが
ら二人で声を掛け合って力を合わせ、ビニールシートを内側に綿の塊を二つ折りにした。
 大きく膨らんだ綿の塊。下に敷かれたふとん側をひっくり返すように表地を出して、ぐ
いぐい引き上げる。これは大変な力わざだ。「二人ですりゃあ楽だいね、前はあたしひと
りでやってたんさあ・・」とキミさん。確かにこれを一人でやるのは大変だ。     

 みるみる表地が広がって丸い塊になる。それを今度は二人でグイッと広げて四方に引っ
張る。表地が広がって、見事にふとんになっている。あき子さんがすぐに四隅に綿の角を
合わせて押し込んで角を作り、中のビニールシートを引っ張り出す。ビニールシートは綿
を二つ折りにしたときに、綿同志がくっつかないようにかぶせてあったのだ。     
 キミさんがパンパンに膨らんだふとん側を手でなでるようにしながら「とじ糸でこの穴
をくけて、角をとじて中を十箇所とじれば出来上がりだいね・・」という。      
 三本合わせのきれいなとじ糸が出てきた。キミさんがそれを使ってふとんの角をとじて
見せてくれた。綿を角に詰めるようにしながら針を通し、きれいな房が出来た。細いが力
強い指の動きがあざやかだ。                           
 一連の動きを見ていて驚いたのがキミさんの確かな動きだ。とても八十二歳とは思えな
い機敏な動きだった。その細腕は六十年間ふとんを作り続けた職人の腕であり、二人の娘
を育て上げた細腕でもあった。                          

「今日はここまでで終わりだいね。後は明日にすべえ・・」目の前で展開されたスペクタ
クルは静かに幕を閉じた。初めて見たふとん作りの現場は、打ち返された綿が新しいふと
んに再生される感動的な場所でもあった。昔から人々はこうして綿を打ち返して、新しい
ふとんに再生していたのだ。羽毛布団や化繊の綿では出来ないことで、今で言う「エコ」
の最先端だったということだ。                          

四隅を詰めて引っ張れば、綿の詰まった敷き布団になってくる。 今日の作業は終了。「こんな顔じゃ、やだよぉ」と笑うキミさん。

 作業場を片づけて綿ぼこりを払い、家の居間に戻った。ちょうどご主人の亀治さん(八
十六歳)も戻ったので、二人に昔の話をいろいろ聞いた。              
 二人が結婚したのは昭和二十五年の二月一日だった。親戚同士の関係で、親同士の話し
合いで決められたようなものだった。一月十五日にお見合いして、何と二月一日にはもう
式をあげた。超スピード婚だったが、籍を入れたのは娘のあき子さんが生まれた時だった
そうな。「まあ、昔はみんなそんなもんだったいなあ・・」と笑う亀治さん。     
 キミさんが続ける。「秩父の大野原から嫁入り道具をリヤカーで運んだんだいね」  
「あらじんしょ(新婚の新しい家)だったんで、何にも道具がなくて大変だったんさあ」

 亀治さんは勤め人より商売が好きで、結婚してすぐに「高岸製綿所」を開業し、当初は
綿の打ち返しだけを仕事にしていた。亀治さん曰く「ちょっと習っただけで始めちゃった
んだいね。当時は綿の打ち返しをする所がなかったんで、重宝がられたいねえ・・」  
 亀治さんに六十年続いた理由を聞いてみた「ふとんというもんが生活にとって大事なも
んだっていう事なんじゃないかねえ・・」という答えが返ってきた。主に倉尾地区と吉田
地区の人がが顧客となっているとのこと。六十年間、地域の人々に愛されてきたことは素
晴らしいことだ。二人の真摯な姿勢がもたらした賜物といえる。           

 あき子さんが作業場から額に入った写真を持ってきて見せてくれた。それは開業当時の
写真で、オート三輪に乗った亀治さんが得意満面の笑顔で写っている写真だった。そのオ
ート三輪はドアもなく、前面が幌で出来ている本当に古いタイプのもので、当時としては
本当に珍しいものだった。                            
 当時、運転免許を取るには、大宮の試験場で一発試験を受ける方法しかなかった。亀治
さんは見事一発で合格し、おおいに鼻を高くしたものだった。自転車も珍しかった時代に
、オート三輪で綿を配達する亀治さん。写真を見ながら娘の美知子さんに「今じゃあこう
だけど、昔はけっこうカッコ良かったんだよ・・」と自慢する気持ちもよく分かる。  
 オート三輪の荷台に書かれた「高岸製綿所」の文字が誇らしい。          

 キミさんがしみじみと言う「六十年この仕事を続けてきて、今じゃあ娘夫婦が続けてく
れて、本当にありがたいことだいねえ・・」                    
 六十年間同じ仕事だけで生きられ、二人して八十代を健康に生きていられる人生。なん
と素晴らしいことだろうか。二人の温かい人柄と誠実さが込められたふとんだったからこ
そ、地域の人々にこんなに長く愛されたのだと思う。