山里の記憶77


昔の魚捕り:柴崎精助さん



2010. 9. 8



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 9月8日、小鹿野町三山(さんやま)耕地の柴崎精助(せいすけ)さん(88歳)を訪
ねた。昔の魚捕りの話を聞くためだった。精助さんは26歳くらいから魚捕りを始め、地
区でも指折りの名人として知られている人だ。56歳のころから一人暮らしをしていて、
一昨年までは鮎の友釣りやヤマメ釣りを楽しんでいたという。今は足腰に不安があって川
には行かなくなってしまったが、昔から魚捕りに関してはこだわりを持っている。   

 開口一番精助さんが言った。「今じゃあ、ハア、底が二メートル上がっちゃったかんね
え、魚がいなくなっちゃったいねえ・・・」25年ほど前にはまだ川に大きな岩があって
大きな石もゴロゴロしていた。水も綺麗だったし魚もたくさんいた。         
「ギンパもウナギもカジカも一杯いたんだいねえ・・」ダムが出来て河床が上がり、家庭
排水が川に流れ込んで魚が消えた。精助さんは、川がダメになったという表現を使う。家
のすぐ下が川で、川に降りる道が出来ている。川とともに生きてきた。        

納屋から魚捕りの道具をいろいろ出してくれた精助さん。 一昨年まで使っていた鮎のおとり缶や曳き船など。

 その昔のまだ魚がたくさんいたころの話を聞いた。少々耳が遠くなった精助さんだが、
昔の魚捕りの事になると目が輝く。「カジカはさあ、箱にガラスを張った箱メガネに懐中
電灯をくっつけて、夜突きに行くんだいね」「夜に突くんで夜ぶりって言ってたいねぇ」
「かみのミナモトって所から川に降りて、ひと晩で腰籠(こしご)八分目くらい獲れたっ
たいねぇ」「カジカはヤスで突くんだけど、3匹突いてカゴに入れるんだいね。一匹ずつ
入れるんじゃあ面倒なんでね・・」「カジカはいくらでもいたかんねぇ」「ヤスは5本刃
のヤスだったいね。学校の教材で欲しいって言われて、やっちゃったけどね・・」   
 たくさん獲ったカジカは串に刺して囲炉裏で焼いて味噌をつけて食べた。囲炉裏で焼き
枯らしたものを保存しておいて正月の吸い物の出汁に使う人もいた。カジカの唐揚げはご
ちそうだった。                                 

 カジカは2月頃に産卵する。川底に平らな石があり、近くに吐き出した砂の痕跡があれ
ばカジカの卵が産み付けられており、オスが卵を守っている。卵は薄い黄色で塊になって
平らな石の裏側(天井部分)に産み付けられる。                  
 このカジカの卵に塩を振って乾燥させ、細かくハサミで切ったものがヤマメ釣りの良い
餌になった。そのまま使うと水に溶けてしまうので、真綿でくるむように釣り鉤に止める
のが餌を長持ちさせる秘訣だった。カジカの卵では大物のヤマメが良く釣れた。    
 カジカの卵を煮て食べる人もいた。精助さんは塩を振って乾かし、和紙(昔はどこの家
でも楮で和紙を漉いていた)に包んで囲炉裏の灰に埋めてじっくり焼いた。こうするとふ
っくら焼けて、まるでカズノコのような味がしたという。普通はそれほど大きな卵は無い
が、中には十センチもある大きな卵もあった。それだけ大きなカジカがいたという事だ。
 「今はカジカはいないやね。この奧の堰堤上にはいるかもしんねけど、分かんないね」
すっかり少なくなってしまった清流にしか棲まないカジカ。埼玉全県で準絶滅危惧種に指
定されている。昔は誰でもやっていた箱メガネを使ったカジカ突きが出来なくなってしま
った場所もある。現在、赤平川上流及び支流では秩父漁協の規定により『釣り以外の漁具
・漁法を使用して遊漁をしてはならない』と決められている。            

 精助さんは投網もやっていた。昔、投網は自分で作るものだった。絹糸を4本使い、穴
あきの文久銭を使って撚りあげ、竹串で上から編む。下に編むごとに一つずつ目を増やし
、最終的に円錐型に広がるように編み上げた。出来上がるまで一ヶ月以上もかかり、出来
上がった投網はとても貴重なものだった。                     
 裾に使う錘(おもり:イワともいう)も自分で作った。型枠に溶かした鉛を流し込んで
自分用の錘を作った。精助さんの投網は普通より重い。1貫5百匁(約6キロ)の重さが
あり、素早いヤマメや鮎も逃がさないように工夫されていた。            
 川に入って下流から上流に向かって網を打つ。大きな淵は下流の岸から網を打つ。淵の
水が少し濁っているような時が良かった。良いときには一回打って、腰籠(こしご)に入
りきらないほど捕れたこともある。入りきらない魚は風呂敷に包んで持ち帰った。   

カジカの話、マヤ漁の話、鮎釣りの話、昔の川は豊かだった。 「ヨアミにヘビが入ると大変なんだい」と身振り手振りで。

 夜に投網を打つのを『ヨアミ』といい、精助さんもよくやっていた。暗い淵に網を打ち
、引いてくると重くて上がらないようなこともあった。大きなヤマメが入ると逃げようと
して網にぶつかるので、手に響いてすぐに大きさまで分かったという。        
 ヨアミで困るのは蛇が入った時だった。蛇はくねくねと裾に潜り込み、なかなか取り出
せなかった。「暗いし、まったく出やあしねえし、困ったもんだったいねえ・・」ヨアミ
に入るのは多くはヤマカガシだった。ヤマカガシは魚や蛙など体温の低いものを食べるの
で川に多かった。昔は無害と言われていたヤマカガシだが、今では猛毒を持つ蛇として恐
れられている。これが夜の投網に入ったら、それは大変なことになると思う。     

 その投網を使う漁に『マヤ漁』がある。5月はじめ、産卵期のウグイ(ハヤ)を人工的
に産卵場を作り、狙う漁だ。「ここらで『マヤ漁』をやったのは俺だけだったいねえ、誰
にも教えなかったからやる人もいなくなっちゃったいねえ・・・」          
 5月上旬、流れのきれいな浅瀬に五十センチくらいの穴を掘る。濁りがすぐに消える場
所は下から水が湧いているところなのでダメ。濁りが残るような場所がマヤ漁には向いて
いる。こぶし大の丸く白い石を敷き詰め、その上にきれいな砂利を敷いて踏み固める。 
 場の上流に扁平な石を枕のように並べて、自然な波を立てるようにすれば完成する。こ
の作業は水の中で3時間ほどかかる重労働だった。「石を運ぶんが大変なんだいね・・」
「魚が下がっている時(産卵に集まる時)は、やってる時から足にぶつかってくらいね」

 良い場所でマヤ場が出来た時は、すぐに魚が集まってくるのですぐに網を打つ。その後
は魚を怯えさせないように夕方に網を打つ。アカハラと呼ばれるこの時期のウグイは山里
の貴重な蛋白源で、様々な需要があった。結婚式のお吸い物に二尾の尾頭付きで出される
おめでたい魚でもあった。多いときは一回の網で腰籠いっぱい捕れた。(このマヤ漁、現
在は特別な鑑札が必要で、稚魚増殖の義務も課せられている)            

 精助さんは一昨年までヤマメ釣りや投網、鮎釣りを楽しんでいた。特に鮎釣りは知人と
連れだって十メートルの竿を操り、技を競った。家には山から清水を引いた池があり、友
釣りのおとりになる鮎を自分で飼っていた。多いときは20から30尾の鮎を飼っていた
という。精助さんが使っていた鮎釣りの道具を見せてもらった。おとり缶、曳き船など、
今でもすぐ使えるようになっていた。                       

「ずいぶんやってねえけど」と投網を投げて見せてくれた。 一から指導してもらったのだが、投網を投げるのは難しい。

 精助さんが納屋から投網を出してきて、実際に投げて見せてくれた。細い腕から放たれ
た網は広く、丸く広がった。見事な技だった。簡単そうに見えたので私もやらせてもらっ
た。精助さんに一から教わり、投げてみたのだが・・何回も投げてみたのだが、全然広が
らなかった。どうやっても開かずに一直線になってしまう。             
 名人は笑いながら、何度も指示をしてくれた。「三分の二を左腕にかけて、右手で広が
るように投げるんだよ」と、教えてはくれるのだが・・まったく広がらない。小雨の中で
奮闘すること数十分、ついとう投網が丸く広がることはなかった。こんな難しいものだと
は思わなかった。自分でやってみて初めて分かることが多い。            

 部屋に戻り、精助さんに魚捕り以外の話を聞いた。精助さんは19歳の時に志願して陸
軍に入隊した。20歳の時、釜山から満州鉄道で北支戦線に向かう。その列車を敵に攻撃
されること三度、厳しい戦場に身を投じていった。                 
 その後、空気の悪い中国で胸を患い、病院船で福岡に帰り着く。そして、広島の陸軍病
院から所沢の陸軍病院へと移り、療養後は佐倉の重機関銃部隊に配属された。階級は兵長
になっていた。家の壁には総理大臣からの感謝状が掛けられている。         
 テーブルには精助さんが煮てくれたカボチャと厚揚げが出されていた。「58ん時から
一人暮らしだいね」「料理も掃除も何もかも一人でやってるんさあ、もう30年にならい
ね」カボチャを食べてみた。すごく旨かった。「これは、酒と砂糖だけで煮たんだいね」
「水を使っちゃあダメなんだいね」いやはや、とても88歳のおじいさんが作った料理に
は思えない。すごい人がいたもんだ。                       
 家の前は川。川とともに生きてきた人生。「川がきれいだったし最高だったよ・・・」
川がもう一度きれいになって欲しい。そんな想いが言葉に込められているように思った。