山里の記憶63


もちつき:強矢(すねや)正男さん



2009. 12. 29



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 最近は自宅で臼と杵を使って正月用の餅をつく人が少なくなった。昔は年の暮れにはど
この家でも必ず餅をついたものだった。昔ながらの餅つきを取材したいとあちこち探した
のだが、なかなか見つからなかった。そんな時、知人の実家で昔ながらの餅つきをやると
聞いて取材を申し込んだ。知人の実家は小鹿野町三山の久月(ひさつき)耕地にある。 
 29日の朝、約束の時間に伺ったのは、久月耕地の強矢(すねや)正男さん(86歳)
のお宅だった。炬燵に入って、奥さんのジンさん(82歳)が入れてくれたお茶を飲みな
がらいろいろ餅つきの話を聞いた。                        
 正男さんは毎年二回餅つきをしている。一回は暮れに正月用の餅をつく。もう一回はお
節句に餅をつく。どちらも三臼、白い餅二臼と草餅一臼をつく。暮れの餅つきは娘たちと
も相談してつく日を決める。三人の娘がご主人や子供を連れて手伝いに来てくれる。  
 手伝う娘たちにとっても、暮れの餅つきは年中行事になっているようだ。娘たちが手伝
ってくれるので出来るが、そうでなければ出来ないだろうと正男さんは言う。     
「自分でついた餅が旨いけど、この辺りでも餅つく人は少なくなっちゃったいねえ・・」
多くの人が餅を買うようになってしまった。                    

 三人の娘たちがやってきた。それぞれ、影森、松坂、長瀞に嫁いでいる。影森からはご
主人と息子が助っ人にやってきた。正男さんもジンさんも、孫の助っ人にはうれしそう。
 台所ではすでに一斗缶を改良した大きな蒸し器に餅米が蒸されている。土間には古く大
きな臼が据えられ、上には使い込まれた杵が置かれている。臼はケヤキで百年以上使って
いるだろうという。杵はサルスベリの幹を使って出来ている。            
 みんなが揃ったので餅つきを始める。ジンさんが蒸し器から湯気のたつ餅米を臼に運ぶ
。正男さんが杵で臼の中の餅米をこね始める。土間に湯気がもうもうと立つ。白い湯気の
中で黙々と正男さんがこね続ける。体力を使う作業だ。86歳でこの作業をやるのは大変
だと思うが、最初の一臼は正男さんがつくのでみな見守っている。          
 こね上がった餅米をジンさんが手水をつけて裏返し、餅つきが始まった。最初は軽く、
徐々に大きく振りかぶっての餅つき。正男さんとジンさんの呼吸が合っているので、見て
いても気持ちいい。手水をつけて餅を返すジンさんも慣れたものだ。         

前に山がそびえ、午後2時には日が陰ってしまう正男さんの家。 慣れた手つきでもちつきをする八十過ぎの夫婦。素晴らしい。

 餅がつき上がった。ジンさんが臼から餅を剥がし、切り板の上に運ぶ。切り板には片栗
粉をたっぷり敷いてある。片栗粉で板に直接餅がつかないようにしてある。つきたての餅
は片栗粉でまぶさないと板にくっついてしまう。餅の上にも片栗粉を振りかける。   
 ジンさんが伸ばし棒を器用に使って餅を四角に伸ばしていく。膝が痛くて曲げられない
ジンさんは、何だか大変そうだ。でも、誰の力も借りず餅を伸ばし終わり「このまんま冷
ませばいいや」と腰を伸ばした。一回目の餅つき終了。               

 炬燵に入って正男さんとジンさんに結婚当時の話を聞いた。横では娘たちがにぎやかに
話している。昭和26年、24歳の時に隣村の倉尾(くらお)の富田(とみだ)耕地から
ジンさんは嫁に来た。山越えの峠道をここまで歩いて来た。昔はお祭りを見に来るのも、
医者に薬をもらいに来るのも山を越えて歩いて来たものだった。           
 正男さんは兵隊から帰って林業に精を出していた。架線技師の免許も持っていて、あち
こちひっぱりだこだった。仕事のあとには鉄砲撃ちや魚穫りも好きでやっていた。特に魚
捕りは自他ともに認める名人で、ずいぶん生活の足しになったという。        
「何でもなく長生きできて何よりだいね」「娘三人がよく家に帰ってきてくれるんでね、
助からいねえ」「近所の人もよく来てくれるしねぇ」ジンさんの言葉が胸にしみる。  

 二つ目の餅米が蒸し上がった。今度も白い餅で、お供えも作るので丁寧につく。正男さ
んには休んでもらって、3人の助っ人男衆(おとこし)が交代でつく。手返しはジンさん
が引き続きやってくれた。まずはこね。寒い場所だったがこねをやっていると体が熱くな
って汗をかくほどになる。こねた餅米を私がひっくり返そうとしたが、餅が熱くて臼から
剥がせない。手水をつけながら、何とかひっくり返したのだが、ジンさんはこれを事もな
くやっていた訳だ。餅つきも交代でやる。男衆が気合いを入れてやるので、すぐに餅はつ
き上がる。つき上がった餅を切り台の上に運び、女衆(おんなし)がお供え餅を作る。 
 ジンさんがお供え餅作りの手本を見せてくれた。一塊の餅を下に切り口をまとめるよう
にして上を丸くする。そのまま台の上に軽く叩き付けるようにすると、あら不思議、お供
え餅が出来上がった。「こうやってつぼめた所を下にして投げるといいんだいね」長年の
経験と力加減がお供えのゆったり丸い形を作る。娘たちが真似をしてお供え餅を作る。 

 ジンさんは一休みして、次の草餅に使うもち草(ヨモギ)を解凍する。朝からボールに
入れておいたもち草はすっかり解凍されていて、ジンさんが絞ると緑色の汁がしたたる。
「水気をよく切って蒸した方が味がいいんだいね・・」といいながら蒸し器に大量のもち
草のボールを並べて蒸し始めた。                         
 このもち草は春に下の河原に出たものを採取し、茹でてそのまま冷凍しておいたもの。
毎年、春には草餅用のもち草を採って、冷凍している。そうしておかなければ、草餅もヨ
モギまんじゅうも出来ないからだ。自然の恵みは、それを活用する人にだけその味を与え
てくれる。そして、この味はスーパーではけして手に入ることはない。        

孫の陽介君が餅米をこねる。若さが力強く、たのもしい。 正男さんがしめ縄を作り始めた。毎年こうして自分で作る。

 次の餅米が蒸し上がるまで、正男さんはしめ縄作りを始めた。近くの山から松の枝を取
って来て松飾りに使う。湿らせておいたワラでしめ縄をなう。シメ飾りのシメは飯田の八
幡様から配られる。正男さんのごつい手のひらが器用に回転し、縄が出来上がっていく。
「この時期は八幡様も大忙しだいなあ」「縄はよりが強ええとシメが入んねえんで、ゆる
くなうんだいね」「しめ縄を作る時ゃあ手つばきをしちゃあいけねぇんだいね」    
縄をないながら正男さんの話が続く。出来上がったしめ縄と松飾りは玄関や氏神様、水神
様に供えられる。氏神様は八幡様だが、飯田の八幡様とは違う屋敷神だそうな。    

 そうこうしているうちに三臼目の餅米が蒸し上がった。蒸し器のもち草も蒸し上がった
。ジンさんが臼に餅米ともち草を運んで入れる。若い孫がこねる。今回は餅米が三升なの
でこねるのが大仕事だ。私も参加して、交代でよくこねる。もち草の濃い緑が徐々に全体
染まるようになじんで、草餅色になってくる。三人で二交代くらいこねたところで、つき
始める。ジンさんが手水を入れてくれる。男三人が交代で草餅をつく。つく方も慣れてき
て、リズム良く杵を振り下ろす。手水が飛んで顔にあたるが、かまわずつく。     
 男三人が交代でつくのだから三升の餅米とはいえ、すぐにつき上がり、周辺には草餅の
いい香りが漂っている。もうもうとした湯気が、そのまま草餅の香りなのだから嬉しい。

 つき上がった草餅を切り台に運び、片栗粉をまぶす。まずはお供え用の丸餅を作る。こ
こからは女衆の仕事だ。三人の娘達がテキパキとお供えを作り、のし餅用に草餅を伸ばす
。私は炬燵に上がり、正男さんと話し込む。正男さんに聞かせてもらう昔の魚捕りの話が
面白くて、つい夢中になってしまった。                      
 昔はこの下の川にもたくさんウナギがいて、夜中に火振りで腰籠(こしご)いっぱい捕
れたそうな。ヤマメもホンザコもギンタもたくさんいた。地炉(じろ:囲炉裏)では3重
にも串に刺した魚を焼いていた。娘さんも言う「そうだいねえ、魚には不自由しなかった
いねえ」 正男さんがさみしそうに言う「ダムが出来て魚が捕れなくなったいね・・・」
 この下流にダムが出来たのはもう40年以上前の話だ。今はそのダムも砂で埋まって砂
防ダムのようになっている。魚は相変わらずいない。                

強矢(すねや)家のお供えは二段、上が草餅で作られる。 のし餅を切って、正月用の切り餅を作る。女衆の動きが小気味よい。

 午後3時、すっかり日が落ちて寒くなった。餅が冷めたので切り分ける。のし棒を定規
がわりにして正男さんが草餅を切る。まだ少し柔らかそうで、切るのが大変そうだ。切っ
た切り口にはすぐ片栗粉をまぶす。こうしないとすぐにくっついてしまうからだ。板状に
切った餅を女衆が大きさを揃えて四角に切って片栗粉をまぶす。           
 どんどん作業が進み、正月用の切り餅が出来上がった。娘さんが言う「こうやって餅が
出来ると一年終わったなあって感じるんですよ・・」それを聞きながら、これは一年の終
わりではなくて、一年の始まりなのではないかと思った。こんな素晴らしい一年の始まり
はない・・・と何十年ぶりに餅をついた嬉しさがまたこみあげてきた。