山里の記憶54


焼畑の話:千島兼一(かねいち)さん



2009. 7. 19



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 焼畑というと、海外の環境破壊の元凶のようなイメージがつきまとい、あまり良い印象
がなかった。しかし、ひょんな事から少し前まで秩父に限らず山地で普通に行われていた
農業だということを知った。いつか詳しい話を聞いてみたいと思っていたところへ、焼畑
に詳しい人がいると聞いて、取材を申し込んだ。昔は身近だったという焼畑の話を聞かせ
てくれたのは、秩父市大滝栃本の民宿「甲武信(こぶし)」のご主人、千島兼一(ちしま
かねいち)さん(79歳)だった。兼一さんは民宿の座敷で昔の写真などを見ながら、焼
畑の話をいろいろ聞かせてくれた。                        

 そもそも、昭和20年から30年くらいまで、山地ではどこでも焼畑をやっていた。様
々な場所で山を焼いて畑にし、蕎麦や野菜を栽培していた。山の焼畑で作る作物を総称し
て山作と呼んだ。山作の目的は食料の増産だった。耕地面積の少ない山間部では、田や畑
だけでの作物では食べて行けず、山作にその不足分を求めた。特に蕎麦は山作の方が良い
収穫になるので、山を焼いたところには、まず蕎麦の種を蒔いた。          

秩父市大滝栃本の民宿「甲武信」。秩父で最初に開業した民宿。 民宿の座敷でいろいろ話を聞かせてくれた兼一さん。

 焼畑はまず山の木を伐る。夏に伐るのでこれを夏刈りといった。太い木は材木として利
用し、残ったボサや草を一面にならして燃す。時期は7月の終わりから8月のお盆前。な
ぜこの時期なのかというと、秋蕎麦を栽培するにはこの時期に種を蒔かなければならない
からだ。秋蕎麦は霜が降りる前に収穫しなければならないから、霜の時期に合わせて夏刈
りをして焼畑にしなければならない。だから、標高の高いところほど早く夏刈りをした。
 暑い時期なので10日から15日も置けばボサはカラカラになり、よく燃える。斜面の
上から火を付け、下に燃す。他の場所に燃え移らないように注意深く火を回す。まんべん
なく燃やすことが良い収穫につながるので、燃す技術が要求された。岩がゴロゴロしてい
る急斜面でも焼畑にする技術をみんなが持っていた。                

 もともと山の腐葉土は畑として最高の土だ。そこに木を焼いた灰が肥料となって加わり
さらに良い土が出来上がる。畑での連作を嫌う蕎麦などには最高の環境だといえる。焼畑
で作った蕎麦は実が大きく、ハザに掛ける一束で五合も成ったそうだ。        
 山を焼いたあと、夕立が一度あると灰が落ち着いて、種を蒔くのに具合が良かった。種
を蒔くのは決められた人が一人でやった。何人もでやると種を蒔く場所が重なったり、無
駄が多くなるからだ。腰籠(こしご)の中に入れた木綿袋に蕎麦の種を入れ、斜面の下向
きで種を蒔き、後ずさりしながら上に登っていく。山の人はバランスを取るのが上手で、
そんな姿勢でもきちんと登れるものだった。                    
 10人くらいの勢子がトンガ(唐鍬)を持って軽く土をかき混ぜながら種まきの人に続
く。力を使う作業ではないので、女衆(おんなし)や子供も手伝った。        

 種まきが終わるとそのまま蕎麦が育つのを待った。途中で草取りをすることもあったが
、しないで放置することも多かった。そして10月、蕎麦の収穫に向かう。刈り取った蕎
麦を10センチくらいの束にして、トズラ(葛の根)を裂いた紐で振り分けにして、ハザ
に掛けて乾燥させる。山の中に置いたままでも、当時は獣害はなかった。今だったら一晩
でイノシシやシカに食い尽くされてしまうところだが、当時は鉄砲撃ちが大勢いて、常に
追いかけ回されていたし、広葉樹林の奥山には餌も豊富だったから、人間の匂いがする場
所などに出てくる獣はいなかった。                        
 乾燥が終わった蕎麦は山で脱穀した。平らな場所にムシロやゴザを敷いて、その上で棒
や木の枝、叩き棒などで実を落とし、ゴミを拾い出して南京袋に詰め、家まで背板で運ん
だ。家でトウミや箕(み)を使ってさらにゴミを取り除き、石などを注意深く選別してよ
く乾燥させ、穀倉に保管した。虫がつかないようブリキ缶やお茶箱で保管する家もあった
。蕎麦は「おごっつぉ」だったから、食べる分だけ出して石臼で挽いて粉にした。   

清水武甲に師事したという写真がたくさん詰まっている棚。 納屋には昔ながら道具類がズラリと並んでいた。

 焼畑は山作の代名詞でもあるが、いくつか別の目的を持っていた。大きく分けて3種類
の目的が取材の中で出てきた。一つは植林のための焼畑であり、一つは畑を作る開墾のた
めの焼畑、そして5年くらいで循環する通常の焼畑だ。小規模なものとしては、山の中を
移動する炭焼きが小屋周辺で行う焼畑もあった。                  

 兼一さんの話では、今杉林になっている場所の7割くらいで焼畑が行われていたという
。通常、杉やヒノキを植林する場合は最初に地ごしらえを行う。この時に斜面を焼いて焼
畑にするのだ。蕎麦を蒔き、収穫した翌年の春に杉やヒノキの苗を植える。      
 焼畑の二年目、植えた苗の間にヒエやアワを蒔いて育てる。作物を育てるための草取り
が下草刈りと同じ効果を上げ、一石二鳥の収穫が出来る。三年目は小豆や大豆を植えるこ
とが多かった。ここでも草取りは下草刈りと同じ効果を上げることになる。地力に応じて
様々な作物を植えることが出来たが、最後はエゴマを植えることが多かった。     
 特筆すべきは、山を持たない人が作業に助っ人として加わることが出来たこと。収穫を
分配する代わりに草取りや下草刈りを行った。山を持たない人も共同作業に参加すること
で山作の恩恵に預かることが出来た。貧しい人々にはどれだけ生活の支えになったことだ
ろう。こうして山々に杉やヒノキが植えられていった。               
 終戦後、拡大造林が国の政策で、植林すれば補助金が出た。苗木はタダで、どんどん植
林が奨励された時代だった。焼畑はそんな植林とセットになった生活のための山作という
一面があったのだ。                               

 山に傾斜のゆるい土地を持っている人が畑を開墾する場合も焼畑を行った。夏刈りをし
て蕎麦を植え、収穫した翌年から畑作りに入る。平らにする為に掘った山側の石を谷側に
石垣として積み上げ、段々畑にする。枯れた木の根を掘り、整地する。地力に応じて様々
な作物を作り、山の畑として利用された。                     
 両神の薄(すすき)では蕎麦の収穫後に菜種を蒔き、翌年収穫して菜種油を絞った。4
年くらいは小豆、ジャガイモ、大根、カブ、カボチャ、インゲンなど何でも作った。大滝
の大輪では漬け物用の菜や大根やカブを植えていたそうだ。             
 焼け残った太い木の根でも3年くらいたつと自然に腐って、簡単に掘り出すことができ
た。山の畑の多くは麦畑、お茶畑、桑畑などになっていった。            

 山に多くの土地を持っている人は循環型の焼畑を行っていた。一年目は蕎麦を作り、二
年目に植えるものはヒエやアワが多く、三年目は大豆や小豆を植えることが多かった。ア
ワ(ヒエ)→大豆(小豆)→アワ(ヒエ)→大豆(小豆)と交互に植えることもあった。
最後はキビやエゴマを作って、4年から6年で焼畑を終え、山に還した。10年ほど放置
すれば元の山になり、地力も回復し、再び焼畑をすることが出来た。焼畑は急斜面の山地
を利用した循環型の農業だったのだ。                       
 山の中で小屋掛けをして、炭焼きをしていた人たちも小屋の周辺で焼畑をした。これは
山の生活を支えるための作物作りが目的だった。穀類よりも野菜や豆類が中心の山作だっ
た。ジャガイモやカボチャ、花豆、インゲン、白菜、大根、カブなどが植えられた。  

鴨居の刺股(さすまた)や袖搦(そでがら)みは実際に使ったもの。 民宿「甲武信」の夕食は山の幸満載で豪華な料理でした。

 昭和30年代まで続けられた焼畑がなぜ行われなくなったのか。兼一さんの答えは明確
だった。「消防の規制がうるさくなったんさあ・・」昔は杉やヒノキを伐った跡も山焼き
した。地表もきれいになったし、植えた苗の育ちも良かったのだが、山焼きの許可が下り
なくなったのだ。                                
 山焼きをする場合は「火入れ許可証」が必要になる。この許可証があれば現在でも焼畑
は出来る。今、秩父市長が発行する許可証の火入れ項目には、1地ごしらえ、2開墾、3
害虫駆除、4焼畑、5採草地改良 の5項目がある。                
 兼一さんの話では、申請をしても、消防が来て何人出てついていなければいけないとか
規制が厳しくなり、許可を取るのが難しくなって焼畑をする人がなくなったのだという。
 確かに類焼も多々あっただろうし、消防法の改正なども重なり、山で火を使うことは難
しくなった。現在では焼畑を必要とする背景も無くなっている。焼畑が無くなったのは時
代の流れそのものだった。しかし、秩父山中で行われていた焼畑は、環境破壊などとは無
縁の循環型山地農業であり、相互扶助の農業だったことは記憶しておきたい。     

 この文章は千島兼一さんを中心に、山中龍太郎さん(両神・薄)、廣瀬利之さん(大滝
・栃本)からの取材でまとめた。