山里の記憶42


木を育てる:新井 武さん



2009. 2. 17



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 2月17日、埼玉県吉田町太田部楢尾地区の新井武さん(80歳)を訪ねた。山仕事
の取材をしたいと対象の人を探していたら、知り合いから紹介されたのだ。武さんは楢
尾地区のまとめ役的な存在で、同じ耕地の小林ムツさんを紹介したNHKのテレビ番組『
秩父山中花のあとさき・ムツばあさんの秋』にも長い時間出演している。      
 約束の時間に教えられた道を登って行くと、カーブでひょいと姿を現したのが武さん
だった。すぐに車を降りて挨拶をする。助手席に乗ってもらい、武さんの道案内で自宅
まで走る。自宅は楢尾地区の最高所に建っていて、眺望と日当たりは抜群の場所だ。 

太田部の一番高い場所に建っている武さんの家。眺望は抜群。 新井家の山の神の旗を見せてもらった。個人の山の神は珍しい。

 家に上がり、炬燵に入って話を聞いた。座敷の正面に3枚の表彰状が掛かっている。
武さんはコンニャク栽培で何と三度も農林水産大臣賞を受賞していた。昭和63年、平
成6年、平成13年の三度だ。山仕事よりもコンニャク作りの方が取材対象になるので
はなかろうか・・などと思ったのだが、今日は予定通り山仕事の話を聞く。     

 林業家としての武さんの話は本当に興味深かった。終戦後の昭和26年に杉を植えた
のが最初で、今は57年かけて育てた杉を間伐しているところだ。主伐は百年を考えて
いる。しかし、ここまでの道のりは決して平坦だった訳ではない。         
 奥さんの喜代美さん(80歳)は石間(いさま)から嫁に来た。二人が25歳の時の
ことだった。結婚してからは二人で杉を植えた。多いときは一年間で8000本もの杉
を植えた。植えた杉はその後6年から7年間、下刈りをしなければならない。大鎌で真
夏の下刈りは本当に大変だった。喜代美さんはこの他に一人で一町歩の枯れ草刈りをや
らなければならなかった。                           
「あれは辛かったいねえ、本当にやだったよぉ・・」と昔を思い出すように言う。  
 幸いにも二人とも健康で病気などしたことがなかったからこそ出来たことだと思う。
 武さんが盛んに杉を植えた昭和30年頃、一人1日働いて700円くらいの時、木材
価格は石2000円という高値だった。『杉を植えないのはバカだ。木さえ植えれば将
来は安泰だ』などと言われ、誰もが先を争って杉を植えた時代だった。戦後の食料が無
い時期に食べるのを我慢して、苦しみながら、三人の子供を育てながら杉を植えた。 
 苦労して植えた杉林が、手入れ不足で荒れていく様は武さんには耐え難い事だった。
「あんなに苦労して植えた杉なんだ。大事にしなくちゃいけない」         

 昭和30年代に段階的に木材の輸入が自由化され、ついには国内で使用される木材の
80%が外材になってしまった。国内の木材価格は暴落し、林業で食べられなくなった
人々は山に入らなくなり、必然的に山は荒れてしまった。武さんは言う       
「あれだって考えようで、日本は外国の山を荒らして外材を輸入したからこそ、日本の
木が残った訳だ。まあ、木が売れないから残ったちゅうのもあるけどねえ・・」   
日本の山に残った木がきちんと育てば、自由化の嵐も良い面を持つことになる。だから
こそ、武さんは山の手入れをしなければいけないと言う。             
「林伐計画さえきちんと出来れば、百年の森作りが出来るんだいねえ・・」     

 今の作業は600本植えた6年生の杉の枝打ちだ。道具を見せてもらった。両刃で鎌
のような形をした『新勝流』の万能ナタ。土佐打ち刃物の枝打ちナタと枝打ち斧。そし
て『六甲山印』の枝打ち鋏(はさみ)。この枝打ち鋏の使い方を見せてくれるというの
で、二人で裏山の杉林まで登った。武さんはとても80歳とは思えない軽い足取りで先
に登って行き、私は後をついていくだけで息をきらした。鋏で枝をはさみ、柄を下に引
くだけで「パチン」と音がして枝が切れる。切り口もきれいで、枝打ち道具としては優
れものだ。難しい技術もいらず、安全に簡単に枝打ちが出来る。          

枝打ちハサミで枝打ちを実演してもらった。簡単に枝が切れる。 天然出紋(しぼ)杉の説明を聞く。七種千本の天然出紋杉がある。

 武さんは天然出絞(てんねんしぼ)の杉を沢山育てている。35年前に奈良から送っ
てもらった貴重な天然出紋の杉苗木を育て、挿し木にして増やし、今では千本もの天然
出紋杉が育っている。立派な床柱になる貴重な杉だ。品種は広河原、雲外、黒、芳兵衛
、三五、吉野、中源2号の7品種だ。どれにも思い入れがあり、大事に育てている。 
 畑の横に植えてある天然出紋の杉を見せてもらった。どれも立派な木に成長していて
「もう出荷出来るんじゃないですか?」と聞いたところ              
「う〜〜ん、出せるんだけどねえ・・まだ伐りたくないんだいねえ・・」      
と答える。木を育てることが大好きで、大きく育った木を見るのが喜びなのだと言う。

 山から家に帰りながら色々な話を聞き、武さんは本当に木が大好きなんだと思った。
「木が好きなんだいねぇ、木はじっと年輪を重ねるだけで、嘘は言わないからねぇ」 
「立派な木は残さなきゃいけないやね、良い木には人も神様も集まるかんねぇ」   
「木はすごい神様なんだと思うんだいね。人間なんてちっぽけなもんさねぇ・・」  
「自分で植えた木を伐るようじゃダメだいね。手入れするんが楽しみなんだいね」  
どの言葉にも純粋さと重さがある。60年近く木の手入れを続けて来た人の言葉だ。 

 武さんには大きな転機があった。45歳の頃、東京の丸宇木材の山崎常作社長と巡り
会ったことだ。家の座敷には『 木を植えて人は育てて夢は百年・常山 』という書が
掲げられていた。常山とは山崎社長の号だ。全国に薫陶を受けた林家が4百人以上いる
と言われている。武さんの隣の山が丸宇木材の所有となり、武さんの仕事ぶりや人柄を
見て、山の維持管理を依頼されたのだ。以来35年間、武さんは立派な森作りを続けて
きた。もう一つ別の書があるというので見せてもらった。             
『 健康抜群 気力充満 希望如山 是三慶也・常山 』             
山崎社長が贈ってくれたこれらの言葉を励みに、武さんは生涯現役と決めている。  

 取材が長引いて、昼になってしまい、奥さんの心づくしの昼食を頂いた。芯かき菜の
お浸しとこんにゃくの煮物が美味しかった。                   
 食事の後、二人で杉林を見に行く事になり、車で移動した。5分ほど走ったところに
車を停め、林道へ歩いて入った。この林道は35年前から武さんが自分の手で造ったも
のだ。測量もせず目測で、地所に応じてブルドーザーで山肌を削って道にしたものだ。
 当時から武さんは林道の重要性に気づいていた。杉を植えても、出すには道が絶対に
必要になる。だから少しずつでも道を造っておかなければならない。道造りの途中で出
る間伐材を売って、ブルドーザーの修理代や油代に当て、道を開墾した。沢には直径1
メートルのヒューム管を通し、その上を土で平らにして道を通した。大きな沢では3本
ものヒューム管を使うこともあった。台風などで水が出てヒューム管が流されたことも
あったが、すぐに修理して道を通した。その距離は総延長5000メートルにもなる。
 自分の山だけでなく、他人の山でも訳を話して説得し、道を通した。今では武さんの
道を使って保安林の堰堤工事なども行われている。                

57年生の杉を間伐している。百年の森を作るための強間伐。 35年前から武さんが造った林道が、森の中を延々と続いている。

 今、この林道沿いの杉林は57年生の杉で、5本のうち2本を間伐するという作業の
真っ最中だった。かなりの強間伐になり、空が明るく見えるのだが、逆に隙間が多すぎ
て風などで倒れる心配がないか聞いたところ、武さんからは            
「一年持てば雪が降っても大丈夫だいねえ、百年育てるにはこのくらい開けないとね」
という返事が返ってきた。作業は森林組合が進めているのだが、武さんの目はその後の
姿を見つめている。                              
「道は国民の財産なんだよね。道がなければ木は売れないんだいね」        
「道を造れば木材も生きるし、山も生きる。道がなければ木は捨てるだけだいね」  
「林業は林道を造ることでしか残すことは出来ないだろうって思うんだいね・・」  
北向きの斜面に広がる立派な杉林を縫うように、武さんの林道が伸びている。    

 立派な杉林の中にひときわ大きな杉が立っていた。武さんが『横綱』と名付けた杉だ
った。他の木と一緒に植えた57年生の杉だが、ふた抱えもあるその太さに驚く。そし
て、その木に嬉しそうに抱きつく武さんにも驚かされた。その無邪気な顔が明るく笑っ
ている。本当に木が好きなんだなあ・・と思いながら私も『横綱』に抱きついてみた。
何という太さ、何という安心感。武さんの気持ちが分かる気がした。木は神様なんだ。
「この木は伐らないで残すんだ・・」静かな山に武さんの声がしみ込む。