山里の記憶40


鉄砲撃ちの話:新井英一さん



2009. 1. 28



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 子供の頃、鉄砲撃ちはあこがれの的だった。子供らは自分で作った罠や、パチンコで
鳥を獲ろうとやっきになったが、なかなか獲れるものではなかった。運良く鳥が獲れた
りしたら、仲間に一目置かれたものだった。そんな子供らにとって、山奥からヤマドリ
やウサギ、まれにイノシシなどを担いで帰ってくる鉄砲撃ちは尊敬と畏怖のまなざしで
見られた。背中の網ザックからはみ出たヤマドリの羽根のきれいだったこと。今でもあ
りありと思い出すことができる。                        

 そんなあこがれの的だった鉄砲撃ちの話を聞きたくて、1月28日小鹿野町八谷(や
がい)の新井英一さん(84歳)の家を訪ねた。英一さんは今年限りで狩猟免許を返納
することに決めている。最後の年に昔の話を聞くのも何かの縁かもしれないが、私にと
っては未知の世界の話なので、取材前はちょっと緊張していた。          
 家に伺って挨拶をすると、英一さんが炬燵に招き入れてくれた。暖かい炬燵に入って
色々な話を聞いた。ちょうど昼時だったので奥さんのいくさん(81歳)からうどんを
勧められて頂いた。ごちそうがいっぱい出されて恐縮してしまった。この家は築四百年
くらい経っていて、この地区では一番古い家なのだそうだ。            

英一さんの家は地区で一番古い。築四百年も経っている。 暖かい炬燵に入って話を聞きながらうどんをご馳走になった。

 英一さんが狩猟免許を取ったのは昭和26年、27歳の時だった。免許は乙種で、鉄
砲を使う猟の免許だった。ワナ猟はこの免許では出来ない。それから55年の猟師生活
を過ごしてきたことになる。                          
 狩猟免許を取ると地元の猟友会に参加することになる。英一さんは西秩父猟友会の倉
尾支部に所属していて、当時の会員は50人くらいだった。英一さんは昭和63年から
平成6年まで支部長をしていた。その当時は30人くらいの猟師が会員になっていた。
 また、平成7年からは副会長を3年、安全指導員と射撃指導員を6年間務めた。倉尾
支部の会員は現在13人で、年々少なくなってきている。             

 今使っている銃はニッサンミロクの上下二連銃だ。重さ三キロで、射程は散弾で22
0メートル、一粒弾で280メートルあるが、確実に仕留めるには50メートル以内の
距離で撃つ。猟には散弾と一粒弾の両方を持っていく。保管は家のロッカーにカギを3
個をつけて厳重に保管してある。先台(さきだい)という部分は銃から取り外して別の
場所に保管している。先台がなければ銃は使えない。               
 ロッカーを見せてもらったが、写真は安全管理上の都合で撮らなかった。銃の管理に
ついては、昔と違ってとても厳しくなっている。登録された猟銃での事件が多く発生し
ているので、それも仕方ないことだと思う。                   
「昔は、その辺に置いといても何も問題なかったんだけど、今じゃあ大変だいね・・」
毎年1月には警察の検査を受ける。検査の対象は銃と弾の管理と使用状況だ。    

 英一さんと家の外に出て、山に入って話を聞くことにした。英一さんが肩に担いだ猟
銃には覆いがかけられている。聞くと、いつも現場に着くまでは袋に入れておくとのこ
と。また、県道と市道を歩くときは、覆いを付けなければいけない事になっているとの
こと。猟銃は持ち運びにも厳しい決まりがある。                 

猟銃を担いで山に出かける。猟銃は袋に入っている。 県道や市道を歩くときは猟銃に覆いを付けなければならない。

 猟はヤマドリやウサギが中心で、熊は一度も撃っていない。昭和26年から36年く
らいが一番獲物が多かった。多いときは1日に3羽も4羽も野ウサギが獲れたという。
ヤマドリなどは昔はどこにでもいた。今は、ヤマドリ、キジなどは1日2羽に限り、し
かも雄のみ獲ることが許されており、自由には獲れない決まりになっている。    
 英一さんは一緒に免許を取ったお父さんと二人で猟に行くことが多かった。このお父
さんが、自他ともに認めるウサギ撃ちの名人で、1日に3羽も4羽もウサギを獲る人だ
った。『ネドウサギ』と言って、夜動き回って昼間寝ているウサギを探すのが上手だっ
た。自分で追い出すのも上手で、目も耳も良く、本当に名人だった。        
「あそこにほら、耳が動いてるじゃんけえ・・」                 
言われて見ても、何も見えず困ったものだった。お父さんは74歳まで猟師を続けた。

 山に入ったので、英一さんに狙い方や撃ち方を聞いた。袋から銃を出して、構える。
型が見事にピタリと決まって動かない。銃を借りて構えてみた。銃の先が思った以上に
重く、左手に負担がかかる。この、先が重い銃を一瞬で動かす腕力というのも凄いもの
だ。弾込めの手順も見せてもらった。青い薬莢がポケットに並んでいる。一つずつ取り
だして銃に込める。弾を装填すると猟銃には別の力が宿る。これはさすがに素人が手に
するのは恐れ多くて、横で見ているだけだった。                 

 今は11月15日から2月15日までが猟期だが、昔は10月15日から4月15日
までが猟期だった。今と比べて3ヶ月も期間が長かったことになる。        
 猟期以外では害獣駆除がある。これは4月1日から11月15日までの間行われる。
畑に大きな被害が出ると、猟友会に連絡があり、英一さん達が出かけることになり、ワ
ナや銃での駆除を行う。倉尾支部では今年、イノシシ5頭、シカ4頭、ハクビシン6頭
を駆除した。年々猟友会の会員が高齢化して減ってきているので、害獣駆除も大変だ。

 害獣駆除の為にライフルの免許を取ったことがある。ライフルは二連銃と違って破壊
力が強く、ワナにかかったイノシシを仕留めるのが簡単だったからだ。仲間から   
「ライフル持ってるんだから撃ってくれいな・・・」               
などと頼まれて、仕方なく7年間で40何頭のイノシシを撃った。その時は支部で一人
しかライフルを持っていなかったので仕方なかったが、本当は嫌だった。      
「あんまり撃たねえ方がいいで・・・」                     
お父さんからこう言われたのをきっかけにして、ライフルは止めて廃銃にした。それ以
来ライフルは持っていない。                          
 猟は生活の一部だったが、『ブク』という時期には銃を持つことは出来なかった。『
ブク』とはお葬式を出したり、子供が産まれたりした時だった。          
「三週間ぐれえ担ぐじゃねえだ・・・」と『ブク』の決まりにお父さんは厳しかった。

猟銃を構える英一さん。獲物を狙う猟師の顔になっている。 猟銃から先台という部分を外した。ここを外すと銃は使えない。

 山にいて話を聞いていたら、すっかり体が冷えてしまったので家に戻ることにした。
 家に戻り、炬燵に入り、お茶を入れてくれたいくさんも交えて昔の話を聞いた。いく
さんは昭和25年、23歳で森戸から嫁に来た。いくさんが嫁に来た翌年、英一さんが
狩猟の免許を取ったから、結婚生活は常に猟のある生活だったことになる。     
 貴重な蛋白源である獲物は、自分たちで食べる以外に主に親戚に配った。ヤマドリな
が獲れた時は「獲れたぞ〜」と声をかけると親戚がみんな集まって来たものだった。 
 獲物は鍋料理などにしてみんなで食べた。中でも『しょうゆ飯(めし)』と『うさぎ
鍋』は人気の料理であり、ご馳走だった。                    

『しょうゆ飯』の作り方                            
ゴボウをササガキにして軽く炒める。刻んだニンジンと油揚げを加え、酒とみりんで味
付けする。ヤマドリやコジュケイの肉を刻んで醤油に漬けたものと合わせ、大きな鍋で
お米と一緒に炊きあげる。肉の脂と醤油の味がしみ込んだ炊き込みご飯の出来上がり。
『うさぎ鍋』の作り方                             
解体して二日間置いて、刻んだウサギ肉は丼で醤油に浸して一晩置く。ウサギの骨で鍋
のダシを取る。ゴボウのササガキをたっぷり加えて、丼の肉も加えて囲炉裏にかけた大
鍋でじっくり煮る。大量のゴボウが臭みを取り、野趣あふれる絶品鍋の出来上がり。 

 もう、話を聞いているだけで味が伝わってくるような料理。お米が貴重な時代に、こ
んなご馳走が食べられたなんて・・・親戚中が集まってくる訳だ。出来ることならその
輪に加わりたいと本気で思った。まさに猟師の食卓。               

 肉は動物の体である。昔から撃って解体する人だけが肉を食べることが出来た。  
「いただきます」の本当の意味を、我々は忘れてしまっている。