山里の記憶31


魚篭(びく)を作る:新井武夫さん



2008. 9. 20



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 新井武夫さん(72歳)は秩父で唯一人、一級竹工芸技能士の資格を持つ竹細工職人
だ。秩父市久那に新井竹細工店を構え、様々な竹道具の制作を行っている。今回は武夫
さんに魚篭(びく)を作ってもらい、その作り方と過程を取材させてもらった。   

 作業場に一本の青竹が持ち込まれた。ナタで節の山を削り落とす。こうしないと節が
強くなり、編んでいるときに折れてしまうことがある。「カゴ屋は何だって目見当なん
だいね・・」と言いながらその竹を割る。日本刀から造り出した割りナタを使って、二
つに割り、必要な巾を決めて細かく割る。これをコマ割りと言う。コマ割りした竹を半
分の厚さにはぐ。割りナタではいだ片方を右足で押さえ、左手の指をテコにして手加減
しながらはぐ。これは素人には出来ない技だ。終わると、そのヒゴをさらに半分の厚さ
にはぐ。これで厚さは0.8mmくらいの厚さになった。               

青竹を切る。ここから魚篭(びく)作りが始まった。 日本刀から造り出した「割りナタ」。

 この時はいだヒゴの表面はササクレだっているので、ナタの刃でこそいでササクレを
取っておく。次は「巾決め」というカンナの刃を2枚並べた道具を使ってヒゴの巾を揃
える。この時、つい細い方から入れて揃えたくなるのだが、ひと手間かけて、元側の広
い方から削る。こうした方がササクレがきれいに取れてあとの作業がやりやすい。この
カンナの刃も特注品だが、最近は作ってくれる鍛冶屋さんが少なくなってきた。   
 出来上がったヒゴは両端を切り出しナイフで細く削る。扇子などのように大量に削る
場合は揃えて並べてカンナで削って形を整えるのだが、今回のように少ない場合は一本
ずつナイフで削る。                              

 そして最後のはぎ。さらに半分の厚さにはぐと厚さは0.4mmほどにも薄くなる。ここ
までのヒゴ作りが大変で、武夫さんも「材料が出来れば半分以上終わったようなもんだ
いねえ」と言う。体全体を使っての材料作り。五体全部が道具になって竹を割り、刻み
、はぎ、削る。とにかく編む前段階のヒゴ作りが大変で神経を使う。このヒゴは立(た
て)竹となり、魚篭の骨になる。編み込む細く長いヒゴは丸めて水に浸けて柔らかくし
てある。武夫さんは魚篭の底に使うコマ作りをしている。短い4本の幅広いヒゴだ。こ
れをイカダ編みにして魚篭の底を作る。                     

 ここまでやって昼になった。奥さんが用意してくれたご馳走を頂きながら、色々な話
を聞かせてもらった。                             
 「黒沢さん、どうして秩父にカゴ屋が残っているか分かるかい?」武夫さんが言う。
秩父は盆地だから、山を越えなければ外に出られなかった。外にカゴを売りに行かない
し、外から売りに来ないから中のカゴ屋が残ったのだ。              
 そうして残っていたカゴ屋さんだが、昭和40年に竹が一斉に枯れた時、ずいぶん転
業してしまった。ちょうどプラスチックが出始めの頃で、実用品は竹の製品から型を取
ったプラスチックに変わっていった。材料の竹がなければカゴ編みは出来ない。竹屋か
ら買う竹の値段が倍くらいに上がった。カゴ屋受難時代の始まりだった。      

 今、竹カゴは中国産の製品がホームセンターなどで安く売られている。値段にして約
十分の一くらいだ。中国に竹問屋が行って作らせているもので、中にはベトナム産やフ
ィリピン産の製品も混じっている。材料はハチクで、日本のものより弱く、特に継ぎ目
部分が弱い。肝心な部分が弱い安かろう悪かろうの製品だが、中にはそれを修理に持ち
込む人がいて困るという。二千円で買った中国産の魚篭(びく)を、修理してくれと言
って来た人は修理代を告げると目を丸くしたという。本来の竹製魚篭とは値段が一桁違
うのだ。中国産の安物がはびこると、本来の値段が忘れられていく。しかし、こういう
時代だからこそ本物を求める人がいて、ずいぶん遠くからも注文があるという。   

 竹割り三年と言われる修業から始まり、武夫さんは、五十年以上この仕事を続けてい
る。父親の跡を継いでこの世界に入ったのだが、父親が亡くなってからは様々な職人仲
間が師匠となって仕事を教えてくれたし、自分でも勉強した。竹細工の本場大分県に行
って、あちこち見たり聞いたりしたが、20代の余所の人間に教えてくれる人はなく、
手の内は見せてくれなかった。今考えれば当たり前の話で、のちに問屋を介してお願い
したところ、快く指導してくれたものだった。                  

 27歳で22歳の正子さんと結婚した。相生町の店は大忙しで猫の手も借りたいよう
な状況だった。商売は順調だったが、徐々に需要が少なくなってきた。30代で一度や
めようと思ったことがあったが、その時は母親が周囲の人に根回ししてやめることを許
してくれなかった。竹枯れ、プラスチック製品の台頭、最近の外国産竹製品の増大など
竹細工店にとって前途が不安になる問題が起きるたびに将来を考えるが、今武夫さんは
この道を一筋に歩こうと決めている。                      
 51歳の時に国家試験の「一級竹工芸技能士」の試験に合格した。秩父市役所の市長
室で授与式に臨んだ。その時の師匠(全日本竹製品振興協同組合の理事長)から「竹仙
」の号をもらった。もう一人の師匠からもらった色紙が店の壁にかけてある。そこには
『ひとすじに ひとすじの道 我の竹  華雲斎』と記されている。どちらも武夫さん
の心の支えとなっている。                           

魚篭の底にあたる部分を「いかだ編み」で編み始める。 くびれた部分から広げるために竹を指で「ころす」ところ。

 午後の作業が始まった。                           
 縦7本、横5本の立竹ヒゴの間に短く幅広い4本のコマヒゴを入れ、イカダ編みにし
て魚篭の底を作る。細い編みヒゴは四隅に節が当たらないように事前にチェックしてか
ら編み始める。立竹を指でころし(曲げてくせをつけること)徐々に膨らむように編み
上げていく。この時、底に2本の尻ん棒を刺して、底が丸くならないようにしておく。
 底から広がるように編み上げ、魚篭の膨らみを出す。ヒゴを繋ぐのは重ねて繋ぐ。四
隅の角や力竹の部分で繋いではいけない。ある程度編み進んだら「腰絞め」をする。立
竹を強く引っ張りながら編んだヒゴを左手で絞め込む。こうすることで全体が堅く締ま
る。武夫さんは正座して作業する。正座して編むのが一番力が上手く案配される。  

 ここから編み込み作業はつぼめる方向に向かう。魚篭の膨らみを決定する大事な工程
に進む。武夫さんの左手が激しく忙しく動く。微妙に力を加えながら、出来上がりの形
を指で確かめるかのように編み進む。全体がつぼまり、徐々に栗の実のような形になっ
ていく。両手の感覚だけで形が作られていくの見ていると、何だか不思議な気持ちにな
る。図面がある訳ではなく、元になる型がある訳でもない。手の中で出来上がっていく
曲面は何故か思う形になっていく。熟練の技と言ってしまえば簡単だが、実際に目の前
で見ていると手品を見ているような気分になる。                 

 栗の形になった魚篭はこれからが難しい部分に入る。一端くびれて細くなった首が今
度は開いて大きくなる。首の部分の立竹を丁寧にころし、尚かつ水に浸けて柔らかくす
る。ある方法で型を決め、広くなるように編み上げていく。きっちり編まないとこの部
分は緩みやすいので大変だ。神経を使う編み込み作業が続く。           
 魚篭は水に強くなければいけないので竹の皮部分だけを使って編む。強度は強いが作
業は滑るので大変だ。しかし、皮だけの製品は値段も持ちも倍になる。魚篭は水に浸か
るので身のヒゴを使うとすぐに腐ってしまい使い物にならなくなる。        

 首が出来上がりの長さに編み上がった。立竹を7センチほど残して切り、割りナタで
二つに割る。縁に沿って折り曲げ、組み込んで最後を止め、余った部分を切り落とす。
こうして編み上がった魚篭は最後の仕上げの当て縁作りに入る。竹製品の縁には「当て
縁」と「巻き縁」がある。魚篭は、口が狭く強度と耐久性が求められるので、しっかり
した「当て縁」で仕上げられる。飾り竹を添えて当て縁が銅線で止められて、魚篭が出
来上がった。                                 
  とうとう一本の青竹が名人の手で魚篭へと生まれ変わった。素晴らしい出来映えに
、ただただ見とれていた。触ると堅牢な作りが弾くように手に伝わってくる。柔らかい
フォルムが熟練の技とぬくもりを感じさせる。                  
 この魚篭を腰につけて釣りに行こう。名人が作った本物の魚篭で釣りに行こう。  

出来上がった魚篭(びく)柔らかなフォルムが素晴らしい。 最後に並んでもらって写真を撮った。お似合いの二人。