山里の記憶27


ぼた餅作り:櫻井種子さん



2008. 6. 29



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 6月29日、児玉町の櫻井種子さん(91歳)のお宅にぼた餅作りの取材で伺った。本
当は3月のお彼岸にぼた餅を作るということで取材させていただくはずだったのだが、事
情があって延期になっていた。お宅に伺うと、昔懐かしい土間のたたきだった。天井の梁
にはツバメが巣をたくさん作っている。60年ほど前からツバメが来るようになったそう
で、亡くなった種子さんのご主人が、職人さんにツバメのために玄関障子の上部一枚を開
閉できるようにさせたとのこと。歴史を感じさせる家の土間だった。         

緑に囲まれた櫻井さんの家。 歴史を感じさせる土間。天井にはツバメの巣がたくさん。

 昔からぼた餅とおはぎの違いについて論じられることが多いが、この二つは同じもの。
春のお彼岸に食べるのが「ぼた餅」で、秋のお彼岸に食べるのが「おはぎ」だ。ぼた餅は
餡でくるんだお餅を牡丹の花に例えたもので、おはぎは萩の花に例えたもの。本来仏様や
ご先祖様に食べて頂くための料理で、お彼岸やお盆に作られた。昔は今のようにいつでも
食べられる料理ではなかった。                          
 ハレの料理ということもあり、様々な作り方が各家庭で伝承されている。漉し餡にする
か粒餡にするか、餅米だけで炊くかうるち米を加えるか、ご飯はそのまま使うか半練りに
するか、手で仕上げるか布巾やラップを使って仕上げるか、等々様々なぼた餅の作り方が
ある。それぞれに意見とこだわりがあると思うが、ここでは種子さんのぼた餅の作り方に
ついて書く。台所ではすでに鍋で小豆がゆらゆらと煮られていた。          

 餡を作る材料は小豆。できれば地元産天日乾燥の小豆が良い。小豆1キロを洗って倍量
の水に浸け、一晩置く。湯に浸ける人もいるが、種子さんは水に浸ける。小豆の種類によ
って水の吸い方が大きく違う。小豆の種類によっての違いは、出来上がった餡の味にも大
きく影響するようだ。小豆1キロで約50個のぼた餅の餡になる。          
 翌朝、浸け水を捨て、新しい水と小豆を大きな鍋に入れ、一時間煮て柔らかくする。小
豆が柔らかくなると竹で編んだ「あんこ漉し」が登場する。ハット型に竹で編んだザルで
、昔は篠竹で編んだ目の細かいものを使っていたが、傷んできたので新しく注文して竹屋
さんに作ってもらったもの。「昔はシノだったんで目がこまっこかったけど、竹になった
ら目が粗いんで小豆の皮が少し混じっちゃうんだいねぇ・・」と種子さん。      

鍋で小豆が煮られていた。 竹で編まれた「あんこ漉し」。昔のものは篠で出来ていた。

 バケツに乗せた「あんこ漉し」に鍋半分の煮えた小豆を入れる。煮汁は下のバケツに落
ちる形になる。湯気でモウモウとする小豆を「あんこ漉し」の中ですりこぎを使ってすり
つぶす。皮だけを残して小豆の中身を下のバケツにすり落とすのだ。少しずつ鍋の煮汁を
加えながらすり落とす。種子さんの両手がリズミカルに回転し、小豆がすられていく。 
 私も交代して小豆をすってみた。すりこぎの使い方が難しい。まんべんなく手早く回転
させて小豆をすろうと思うのだが、小豆が外に飛び出したりして汗をかく。      

 「そのくらいでいいだんべぇ」種子さんの言葉に我に返ると、額が汗でびっしょりだっ
た。やっと半分終わった。残り半分の小豆すり落としがすぐに始まった。とにかく、熱い
うちに全部終わらせなければならない。再びリズミカルな種子さんのあんこすりが始まっ
た。小豆をすりながら種子さんがポツリポツリと昔の話をしてくれた。亡くなったおじい
さんが甘いものが好きでよくぼた餅を作った。多いときは小豆2升くらい作ったそうだ。
おじいさんはお酒が飲めず、甘いものが大好きで種子さんが作ったぼた餅を喜んでくれた
。あんこが残るとおじいさんが「あんこ玉」を美味そうに食べるのが常だった。    

 すり終わった小豆は漉し器の中に皮が残り、中身は下のバケツに落ちた。このバケツの
中身を木綿の袋に入れて水分を絞ったものが餡の材料になる。二人がかりで袋にバケツの
小豆汁を入れ、その袋をシンクのまな板の上で絞る。まだ暑い煮汁があふれ出すが種子さ
んは構わず両手で力一杯絞り出す。とても91歳とは思えない力強さだ。絞った汁はその
まま捨てる。「今は買ってきたあんこでぼた餅を作る人が多いけど、昔はみんなこの方法
で作ったんだいね」と種子さん。私は漉し餡を作るのは初めてで、興味深い作業だった。

 袋の中に残った漉し小豆が餡の材料になる。これを鍋に入れていよいよ味付けとなる。
種子さんは小豆1キロに対してザラメカップ1(200g)上白糖カップ2杯半(500
g)塩小さじ2を加えた。最初は強火で煮立たせ、その後は中火にして餡を煮詰める。し
っかり絞ってもまだ水分がたくさん残っており、煮立つとゆるゆるになる。これを水分が
なくなるまで煮詰めるのだから時間がかかる。焦げないように木べらでかき回しながら煮
詰めるのだが、煮立った餡がボツッボツッっと飛んでくるので油断は出来ない。当たり所
が悪いとやけどする。                              

 時折はねるあんこから逃げながら煮詰めること30分。やっと水分が少なくなって固く
なってきた。種子さんに味を見てもらうと「うん、いい感じだねぇ」と笑顔が返ってきた
。鍋の火を止め、そのまま置いて冷ます。冷めると餡は固くなり甘くなる。きれいな漉し
餡が出来そうだ。すでに餅米1キロが炊飯器にかけられていた。種子さんは餅米だけで炊
くが、うるち米を2割くらい加えるのが一般的らしい。また炊きあがったご飯をすりこぎ
で半練りにする人も多いが、種子さんは餅米をそのまま握る。炊きあがるまでの時間、種
子さんに昔の話を聞くことが出来た。                       

 種子さんは昭和7年から12年まで東京の慶応大学前の薬局で働いていた。縁があって
結婚することになった相手は館林の航空隊の指導教官だった。ここはおじさんの家で、い
ずれ館林に家を持つ予定だった。嫁に来て18日目のことだった。新婚の夫は訓練飛行の
事故で箱根に墜落して亡くなってしまった。結婚式で会っただけで終わってしまった結婚
生活。18日で未亡人になってしまった不運。「東京にいれば良かったいねえ・・何もか
も運だったいねえ・・」種子さんは何かを思い出すようにつぶやいた。        

 当時は戦争で少し年上の男の人はほとんど死んでいて、男の人が少なかった。何年か後
に紹介があっておじいさんと一緒になった。昭和22年、種子さんは27歳だった。それ
から56年の生活を共にする最初の一歩だった。おじいさんは根っからのスポーツマンだ
った。結婚の条件も「スキーだけは好きにやらせてくれ」だった。じっさい正月はいつも
スキーで留守にしていた。スキーは高齢になってもテレビ観戦するくらい好きだった。 
 利根川で 兵隊さんに水泳を教えたこともあった。学校の先生で、最後は校長を勤め上
げた。不器用な人で、学校に勤めている間は家庭で何があっても種子さんに任せ、教員一
筋のひとだった。おじいさんが学校に行っていた間は種子さんと両親が畑仕事をやってい
た。種子さんは家を守りながら3人の娘を育て上げた。手先が器用だったので、物資の無
いなかで、生地を見つけては3人の娘に手作りで着物を作ってやっていた。      

30分くらい餡を煮詰める。煮立った餡がはねると熱い。 次々に綺麗なぼた餅が出来上がる。種子さんの鮮やかな手さばき。

 炊きあがった餅米が冷めた。種子さんが鮮やかな手つきで俵型に握る。くっつかないよ
うに離してお皿に並べていく。つやつやした餅米がきれいだ。固さを見るために一口ほお
ばってみた。思ったより柔らかく炊いてあった。そして餡の入った鍋が運ばれてきた。い
よいよぼた餅作りの最後の作業に入る。このとき種子さんが持ち出したのは固く絞った濡
れ布巾。この濡れ布巾を使って餡で餅米を包み込む。                
 左手に広げた布巾の上にしゃもじで餡を塗る。餡を平らに広げて、その真ん中に餅米の
俵を置く。布巾でくるりと包むように俵を包むと、餡が餅米の周りにきれいに付いた。
 何だか手品を見ているような気分だった。昔、我が家で作っていたぼた餅は粒あんで、
餡を手で餅米に付けていたので両手が餡だらけになったことを覚えている。ぼた餅を作る
のは、そんな餡との格闘だと思っていたのだが、種子さんのぼた餅作りはじつにスマート
だった。見ているうちにやってみたくなり、濡れ布巾を借りてやってみた。      
 左手に布巾を広げ、餡をしゃもじで取って右手で広げる。餅米を乗せ、布巾で包むよう
にくるむと、餡が自然に餅米をくるむ。あとは布巾で形を整えるだけ。じつにきれいな俵
型のぼた餅が簡単に出来上がる。全部で47個のぼた餅が出来上がった。       

 自分で作ったまだ温かいぼた餅を食べてみた。餡と餅米が口中で混じり合う感じが快感
だ。餡の塩加減も素晴らしい。そういえば種子さんは餡の肝心な部分は塩加減だと言って
いた。その日の天気や体調で変わるものらしい、じつに微妙な塩加減。こうして食べてみ
ると、甘すぎない餡の奥に隠れた塩味が絶妙のバランスを作って、食べ飽きない味になっ
ている。ペロリと3個も平らげてしまった。