山里の記憶262


とおかんや:黒沢和義



2021. 8. 17


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 旧暦の十月十日の夜、わかりやすく言うと十一月十日の夜を「とおかんや」と言って、
小学生以下の男の子がワラ鉄砲を耕地の家々の庭で打ち鳴らす行事があった。一説には畑
のモグラ退治が形式化したものだと言われたり、豊作を祝う行事と言われたり、養蚕の豊
蚕を願う行事と言われたりしていた。                       
 子供達がとおかんやの歌を歌いながらワラ鉄砲を打ち鳴らし、家々では駄賃にとお菓子
を用意して配った。地区によってはお金をもらえたようだが、私の耕地ではお菓子をもら
った記憶しかない。岩殿沢耕地は上(かみ)・中・下(しも)の三つに分かれていて、私
の家は中の組だった。十三軒の家があり、夕方から全部の家を回った。        

 とおかんやの日は朝から忙しい。自分で使うワラ鉄砲を自分で作らなければならなかっ
た。ワラの束、芯に入れる里芋の茎、ワラ縄を揃えてワラ鉄砲作りが始まる。芯に入れる
里芋の茎は叩いた時に良い音が出るのだと言われていた。芯材は他に秋ミョウガの茎がい
いとも言われていた。我が家では秋ミョウガを栽培していなかったので里芋の茎しか使っ
た事がなかった。                                
 芯の周りにワラを束ね、仮止めする。庭の梅の木に長いワラ縄を縛り、ピンと引っ張り
ながら藁束を固く巻いて行く。これが大変な作業で、縄が切れない程度に強く引っ張りな
がら藁束を巻くという大人でも難しい作業だった。力が抜けると縄が緩み、そこだけフニ
ャっとしたワラ鉄砲になってしまい、使っている途中で壊れてしまう。全体に同じ力で固
く巻くのがコツだったが、子供にはとても難しかった。               

クズツルはなかなか手に入らなかった。 ワラ鉄砲でモグラがいなくなるなんて信じられなかったが。

 ワラ縄では硬さの限界があるからと、クズツルで巻く人もいた。これは固く強く巻ける
ので良い音がしたものだが、肝心のクズツルが手に入らないので、羨ましかったが真似は
できなかった。クズツルを使っていた子はワラ鉄砲を親に作ってもらっていたようだ。 
 小さい子がいる家ではその子のワラ鉄砲は兄が作るものだった。私も弟のワラ鉄砲を作
ってやった記憶がある。小さい子のワラ鉄砲は体に合わせて少し小さいものにした。  

 夕方になると家々から子供達がワラ鉄砲を手に往来に出てくる。全員が揃うと六年生の
掛け声で集まり、下(しも)の萩原さんの家に向かう。中の組は一番下(しも)が萩原さ
んの家で、一番上(かみ)が姫宮の新舟さんの家だった。その間十三軒を全部回って庭で
ワラ鉄砲を打ち鳴らすのだ。大変だけど、駄賃にお菓子がもらえて最後に山分けにするの
で、ワクワクしながら萩原さんの家の坂道を登って行った事を覚えている。大きな懸崖の
松が我々を出迎えてくれた。                           

 とおかんやの歌がある。この歌に合わせてみんなでワラ鉄砲を打つのだが、耕地によっ
て微妙に歌詞が違っているようだ。自分たちの耕地の歌しか知らなかったので、微妙な違
いは後になって知った事だが、ここに書いておきたい。               
 私の岩殿沢耕地でのとおかんやの歌                       
 ●      ●     ●    ●     ●        ●       
 とおかんや とおかんや 十日の晩はいい晩だ よおめし食ったら うっぱたけ   
歌の●の部分でワラ鉄砲を鳴らすことになっている。リズミカルに繰り返し打ち続ける。

 大滝地区で歌われていたとおかんやの歌                     
 とおかんや とおかんや 朝そば切りに昼だんご よおめし食ったら ひっぱたけ  

 山向こうの倉尾・長沢耕地でのとおかんやの歌                  
 とおかんや とおかんや 十日の晩はいい晩だ よおめし食って ひとでっぽう   
 ここじゃあ 蚕が大当たり                           

 私の耕地では小学生以下の男の子だけが参加していたが、女の子が参加していた耕地も
あったようだ。両神では男の子と女の子が別々の組で回った地区もあったという。吉田で
は、学校からお金をもらう事を禁じられた地区もあった。昭和六十一年頃の両神地区では
長又地区と出原地区だけしかとおかんやをやっていなかったと記録にある。      
 大滝ではとおかんやは一年の農作業が終わり、「鍬洗い」をしてお祝いする日で、昔は
そばやぼた餅を作ったという。岩殿沢は大滝よりも暖かいし、麦作りが最盛期に当たる時
期なのでまだまだ農作業は残っていた。地域によって区切りの名目は違っていたが、畑の
モグラ退治を目的にした子供の行事というのは共通だった。             

岩殿沢耕地では女の子は参加していなかった。 13軒回ると丈夫に作ったワラ鉄砲もボロボロになった。

 とおかんやの歌を歌いながら歌に合わせて揃ってワラ鉄砲を打つのは楽しかった。声を
揃えるので気分も高揚するし、ワラ鉄砲で思い切り地面を叩くのも最高に気分良かった。
 ワラ鉄砲を打つのに合わせて玄関から家の人が出てきて「ご苦労様、ちっとんべえだけ
ど、これ・・」と言いながらお菓子の袋を渡してくれた。袋に入っていたり、新聞紙で包
んであったりと色々だったが、六年生がそれを「ありがとうございます」と受け取ってい
た。全部の家を回り終わったところで山分けにされるお菓子の袋を見ながら、「とおかん
や とおかんや 十日の晩はいい晩だ」と声を張り上げ、ワラ鉄砲を打ち鳴らしていた。
 当時のテレビで有名になっていた「あたり前田のクラッカー」などが駄賃に入っていた
りすると大喜びで取り合いになったものだった。テレビで人気のお菓子は子供達にも大人
気だった。                                   

 十三軒を回り終える頃にはワラ鉄砲はボロボロになっていた。しっかり作ってあるもの
は壊れずに形を保っていて、作り方の良し悪しが最後になるとはっきりわかった。来年は
もう少し固く巻こうとか、ワラじゃなくてクズにしようとか色々反省する最後だった。 
 最後の新舟さんの家が終わると、いよいよお菓子の分配だ。六年生が中心になって山分
けにするのだが、自分が中心になったことはないので、与えられた分を受け取るだけだっ
た。それでも大量のお菓子は嬉しくて、家に帰って妹達の目から隠すように持ち帰った。

駄賃はお菓子だけだった。 テレビで大人気の「あたり前田のクラッカー」旨かった。

 当時の十一月は今よりも随分寒かった。まして夕方からの行事なので随分寒かったのだ
と思うが不思議にとおかんやでの寒さの記憶はない。ワラ鉄砲を打つという全身運動が体
を暖めていたのだと思うし、何よりみんなで大騒ぎしていたという興奮状態が寒さなど忘
れさせてくれたのだと思う。駄賃のお菓子も夢中になった要因だった。        

 とおかんやはいつ頃までやっていたのだろうか。小学生までの行事だったから、中学生
になった段階で参加できない。さて、では耕地でいつ頃までやっていたのかと言われると
記憶にない。先の両神の記録では昭和六十一年までやっていたと残っているので、そこま
では行かないにしても近年までやっていたのかもしれないが、わからない。      
 アメリカのハロウィンみたいな行事だし、残っていてもいいのではないかと思うのだが
今現在やっているという話は聞かない。                      

 子供が企画し、子供が主役で、駄賃も子供が自主的に分け合う。そんな行事が昔は多か
ったような気がする。大日堂でのおひまちなどもそうだし、正月に書き初めをしてからお
ひまちをするような地区もあった。家から米と野菜を持ち寄り、自分たちで料理して食べ
、夜を遊んで明かす。全部子供だけでやるのだからすごかった。大人達もよくやらせたも
のだったし、学校の先生方も何も言わなかった。今だったらどうだろうか、多分、大人か
らダメ出しが出てやらせてもらえないだろう。「危険だ」「危ない」と言われて終わりだ
ろう。子供を信じていない大人が多い。子供を信じきれない大人が多くなった。    

 子供達はしっかりしている。やらせれば大人並みのことがスラスラ出来る。「危険だ」
「危ない」なら、危険にならない法、危なくならない法を教えれば良い。大事なことはや
らせる事だ。昔の人はそこが分かっていたのではないだろうか。子供達も自分たちが立派
な仕事の戦力だという事を分かっていたし、一人前の自覚もしていた。        
 子供の能力を伸ばすことに関しては昔の方がずっとずっと優れていたように思う。ここ
でいう能力は学力ではなく生きる力だ。