山里の記憶252


秘密基地:黒沢和義



2021. 2. 24


絵をクリックすると大きく表示されます。ブラウザの【戻る】で戻ってください。

 子供の頃、本当に憧れた言葉があった。「秘密基地」だ。この言葉の甘美な響きはいま
だに色褪せることはない。自分だけの秘密基地を持つことは、憧れと同時に強い願望だっ
た。二つ違いの弟と一緒に遊ぶ事が多かったが、二人とも思いは同じだった。親にも他人
にも、いじめっ子にも干渉されない秘密基地が欲しかった。             
 秘密基地では王様のように自分だけの時間を楽しめて、飽きるまで好きな事ができるは
ずだった。当然ながら、子供ながらに行動を起こす事になる。            

 他人の家だが、山の斜面に洞窟を掘って芋穴にしている家があった。芋が入っていない
時期ならいいだろうと、その穴に入り込んで遊んでいた。六十センチほどの入り口を入る
と、真っ暗でなんだか変な匂いが充満していた。中に入ると埃っぽい匂いに代わり、しば
らくすると慣れた。中から見る入り口の明るさが素晴らしかった。          
 目が慣れて来ると硬い土を掘ったスコップ跡がわかった。そうか、少しずつ掘ってここ
まで大きな穴にしたんだと気付いた。芋穴に出たり入ったりしてしていれば、誰かの目に
つくし誰かに通報されたのだろう。持ち主に見つかって、えらい勢いで怒られて、ほうほ
うの体で逃げ出した。後で親からげんこつをもらった。               

 当時子供がたくさんいて、男の子は誰もが秘密基地に憧れていた。大きな山を持ってい
る家の子供が木の上に秘密基地を作ったというのを見に行った事があった。大きなモミの
木の枝に丸太を渡し、そこに何本か丸太を組んで上に屋根をつけたようなものだった。今
でいうツリーハウスの出来損ないのようなものだったが、上に上がるときに合言葉を言わ
なければならなかった。「山」と「川」だったか・・合言葉を言う時のそいつのドヤ顔が
なんだか癪に触った。上に上がって「何だ、大したねえなぁ・・」などと思いはしたもの
の強烈にうらやましかった。                           

ライフル銃を作るために厚い板をノコギリで切る。子供には大変。 ナタやナイフで削って銃身や台座を丸く削る。ラッカーで色を塗る。

 テレビの影響だったのか、インデアンやカウボーイに憧れた。厚い板をノコギリで切っ
て、削り、ライフル銃に似たものを作った。五つ上の兄が作ったライフル銃は本物のよう
に見えてすごかった。みんなに見せて自慢したかったのだが、兄は貸してくれなかった。
 ならば自分で作ろうと頑張ったのだが、出来上がったのは似ても似つかないしょぼくれ
たライフルもどきだった。道具も絵の具も段違いのものだったし、兄の腕も良かった。工
作の腕は兄の足元にも及ばなかった。ライフル銃の他に拳銃も板を削って作った。こちら
は結構自信作で、仲間に自慢したものだった。                   

 インデアンに憧れて弓矢でもよく遊んだ。弓は枯れた竹を削って作った。生の竹は簡単
に加工できたのだが、糸を張って矢を放つとすぐにヘタレた。枯れて強い竹を探すのが大
変で、加工するのも大変だった。                         
 弦は太いタコ糸や細いシュロ縄を使って作った。弓を曲げて弦を張るのが大変な作業で
、失敗すると弦が切れたり、弓が折れたりした。綺麗な弓が出来上がると使いもせずに自
慢するような有様だった。                            

竹を割って削って弓を作るのだが、ツルをセットするのが難しかった。 せっかく作った弓が壊れたり、矢を無くすのが嫌で騒いでいるだけだった。

 矢は細い篠竹を使った。一年生の篠竹は真っ直ぐで、これを乾燥させたものが矢には一
番だった。鶏の羽を飾りで付ける矢もあったが、これは見せる為のもので実際に使うこと
は少なかった。下手に使うと、打った後すぐ他の子供に盗られた。          
 弓矢を携えて山の中で襲撃ごっこをする。本気で打つのだが、弓は弱いし、矢は重いし
十メートルも飛ばないヘタレものだった。強く弓を引くと壊れるのがわかっているから、
誰もそんなことはしない。まあ、かっこだけの襲撃ごっこだった。思い切り引いても壊れ
ない弓が欲しかった。                              

 鳥の羽は男の子の宝物だった。落ちている羽は限りがあり、貴重な拾い物になった。羽
にはランクがあった。スズメの羽→ニワトリの羽→カラスの羽→チャボの羽→トンビの羽
→キジの尾羽→ヤマドリの尾羽の順だ。風切り羽根は強そうで尾羽は貴重だった。   
 タカの羽やワシの羽は手に入らなかった。カワセミやカケスの青い羽も手に入らなかっ
た。猟師が獲物のヤマドリを背負って山から降りてくるのを指をくわえて見ていた。あの
素晴らしい羽がこの手にあれば、仲間に自慢できるのに・・・なんて考えながら。   

 ターザンごっこもよくやった。飯田の八幡様の裏山に太いシイノキが群生する場所があ
り、その木にはたくさんの蔦が絡んでいた。その蔦の長いのを切り、ぶら下がってブラン
コのように遊んだ。長く遊んでいると蔦が切れて落ちることもあった。山の斜面にはシャ
ガが群生していたので落ちて怪我をすることはなかった。落ち様が悪いとみんなに笑われ
た。八幡様の裏山には子供達のターザン声が響き渡っていた。            

ターザンごっこはロープでもやったが、ツタを使うのが本物っぽかった。 ツタは使っていれば弱るし、枯れるし、いつか切れて運の悪いのが落ちた。

 その後、あの芋穴の中から見た景色が忘れられず、自分だけの洞窟の秘密基地が欲しく
なった。弟も同じだったようで、山の中に穴を掘れば誰にも見つからないんじゃないかと
いう話になった。シャベルを持ち出し、小さいバケツや移植ゴテなどをカゴに入れて担ぎ
、裏山に向かった。人目につかない場所で、大きな木が生えている斜面を見つけた。木の
下を掘れば洞窟が掘れるだろうと目算を立てていた。                
 早速シャベルで掘り始めた。土は地元でゴンベ石と言われている柔らかい砂岩だ。粘土
質の石というか土のようなもので子供でも掘れる柔らかさだった。掘った土を弟が掻き出
して外に捨てる。大汗をかいて横穴を掘る。ひたすら横穴を掘る。          

 何時間くらい掘っただろうか、かなり深く掘ることができた。中に座って入り口を見る
と、何と理想の洞窟秘密基地に近いイメージだ。一人でニヤリとほくそ笑む。     
 さらに奥を掘ろうと中に入った時だった。突然横穴の天井が崩れた。目の前が真っ白に
なって頭に石と土が落ちてきた。慌ててもがき、土まみれになりながら必死に飛び出した
。弟も土まみれになっている。二人で呆然と穴のあった場所を見ると、一日掘った苦労の
賜物が跡形もなく消えていた。                          
 子供が掘れるくらい柔らかい土だったのだから当然といえば当然だが、もろく崩れやす
い土質だった。坑口や天井を補強するという知恵も技術もなかった。当然といえば当然の
結果だった。こうして私と弟の洞窟による秘密基地作りの夢は儚く消えた。      

 その後も秘密基地への憧れは消えず、色々な場所に自分だけの居場所を求めた。納屋の
二階に専用のはしごを作って自分の居場所を作った。狭い場所だったが、横になって漫画
本を読むのが好きだった。暗くなると電気がないので下りて母屋に戻った。      
 学校の石炭小屋の屋根裏に居場所を作ったこともあった。ここは鬼ごっこの時にも使っ
たが、見つかったことはなかった。見つからないので、いつまでもいて、後で先生に怒ら
れた。授業に出ずに「鬼ごっただった」と言っても、分かってくれるはずもなかった。 

 大人になっても秘密基地への憧れは消えていなかった。一時期キャンプに夢中になった
ことがあった。車で山奥の河原に降りてテントを張ってキャンプする。何といっても焚き
火が良かった。昔は今ほど規制がなく、奥山なら普通にキャンプができた。釣りを覚えた
のも同じ頃だったので、山で過ごす休日が多かったし、楽しかった。         
 森林ボランティア団体「瀬音の森」を作ったのは四十代の時だったが、ひょんな事から
秘密基地作りが始まった。小菅の山奥のヒノキ林を間伐していた時のことだった。この間
伐したヒノキを使ってログハウスを作れないだろうかと思いついた。この計画は俄然昔の
秘密基地作り願望に火をつけた。仲間も大勢いた。                 
 電気のない山の中でログハウスを作るにはどうしたらいいか。設計図を書き、工法を研
究した。色々考えぬいた結果、チェーンソーがあればログハウスは出来るという結論だっ
た。麓から登山道を三十分登ったヒノキ林にログハウスを作る。仲間みんなが使える秘密
基地だ。設計図は六畳の二階建て、同じ大きさのデッキ付きというもの。       

 こうして平成十三年五月から翌年三月にかけて総ヒノキ造りの山小屋を作り上げた。そ
の後十八年間、会員の秘密基地としてさまざまに利用された。焚き火をして、山仕事をし
て、料理を作って宴会をする。本当に楽しい十八年間だった。思えば、子供時代に秘密基
地を作ってやりたかった事を、大人になって全部実現させたような山小屋だった。山小屋
に行く時のワクワク感はまさに秘密基地に向かう子供と同じだった。         
 一昨年、まだまだ使える山小屋だったが解体した。会員の高齢化が進み、参加者が元気
なうちに解体しなければという製造者責任のためだった。まだ使えるのにという声は多か
ったが、自分達が動けなくなったら誰が解体するのかと考えると当然の判断だった。壊す
時は辛かったが、たくさんの夢を叶えてくれた感謝しかなかった。ありがとう山小屋。