山里の記憶250


吊るし柿:黒沢和義



2020. 10. 11


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 秋も盛りになると柿の木には赤い実がなって山村の風景を彩っていた。柿取りと吊るし
柿作りは奥秩父晩秋の風物詩だった。子供の頃、柿取りと吊るし柿作りを手伝わされた事
、甘い熟柿(ずくし)を食べた事、干し柿を盗み食いしたことなどを思い出す。    
 我が家の前には大きな甘柿の木があって、みんなそれを食べるのを心待ちにしていた。
柿は成り年と不作の年があって、不作の年は青い実のうちにボロボロ落ちてしまった。当
たり年の時は重そうな実が垂れ下がり、熟すのが待ち遠しかった。たくさんの柿の実が秋
の豊かさを感じさせてくれた。甘柿の美味しさは格別だったが、ここでは渋柿の吊るし柿
についての話を書くことにする。                         

 渋柿の木があちこちの山の畑に植えてあった。これを取って吊るし柿にするのが秋の風
物詩だった。家には長く軽く細い柿取り専用の竹竿が何本かあった。竹竿の中のエリート
とも言える存在で、大切に縁側の天井に保管されていた。竹竿の先端を二つに割って削り
、おっぱさみが作ってある。先端で柿の実がついた枝を挟んで折り取る仕組みだ。先端は
大切な場所なのでブリキの補強をしたり、針金で巻いて補強したりしていた。     

 柿には大きな「蜂谷(はちや)」と細長い「つるのこ」があって、どちらも干し柿の材
料になった。他にも筆柿の一種で細長い柿があり、子供の間ではちんぽ柿と呼ばれ、さげ
すまられていた柿があった。これは干し柿にすると肉が薄く種ばかりになってしまうので
、徐々に使われなくなった。他に百目(ひゃくめ)柿という大きな柿もあったのだが、木
が小さく何個も成らなかったので、干し柿作りの対象になっていなかった。      
 霧久保(きりくぼ)という山の畑に二本の蜂谷があり、姥ざ山(うばざやま)の畑に一
本の蜂谷とつるのこがあった。他には、少し遠いが大石山(おおしやま)の登り口に蜂谷
が一本あった。これを取るのが最初の大仕事だった。                

おっぱさみで柿の枝を折り、竿先に実を乗せて運ぶ技。 柿の木は突然折れる。折れそうもないのが急におけるから怖い。

 長い竹竿を山に運ぶのも大変だったが、柿を取るのもまた大変だった。柿の木は折れや
すいので下で竿が届く範囲を取り終えると上の枝に登って残った柿の実を取るのは子供の
仕事だった。弟は柿の枝が折れて落ちたことがある。                
 柿の木は畑の端に植えてあるので、実が落ちると運の悪い時は谷まで落ちたり、石に当
たって砕けたりした。雨の後など濡れている時は最悪で、滑って木に登るのも難しかった
。長い竿を操って実がついた枝をおっぱさみで挟み、下から上へ回して折る。竿先に柿の
実をつけたまま、下で待っている親に運ぶのが技だった。上手くできると嬉しかったが、
大体は下に落ちた。                               

 「木守り」と言って、一番上の柿を残しておくのが決まりだと言われていた。全部を取
りきらず、神様の分として残すことが次の実りを保証してくれるから・・というような事
を親から聞いた気がするが定かではない。もっとも、木が大きかったので全部を取り尽く
すことなど到底無理な話だった。「木守り」を残すまでもなく、赤い実はいっぱい残って
いた。鳥たちにも充分な冬の食料になったと思う。柿の木は折れやすいので、あまりに上
に成っている柿、竿が届かない柿は放棄せざるを得なかった。早く仕事が終わりたかった
から、特にもったいないとも思わなかった。                    

 柿取りの楽しみの一つに熟柿(ずくし)があった。木の上で熟した柿の実は甘くて美味
かった。多くは鳥の餌になってしまうのだが、残っているのは子供が食べた。あのとろけ
る甘さは菓子などなかった子供時代のご馳走の一つだった。特に種周りのジェル状の部分
が美味かった。ツルリとした食感と濃厚な甘さは熟柿ならではのものだった。     
 熟柿を取る時は慎重に取ったものだった。落とせば砕けて飛び散ってしまい食べられな
くなるからだ。落とした時の残念さといったら・・自分を恨んだものだった。熟柿でも渋
い部分は間違っても食べなかった。渋い柿を食べるとうんこが出なくなり、病気になるか
らだと言われていた。                              
 取った柿は背負いかごに入れて山から運んだ。柿は重い。とにかく重い。山から運ぶの
は大変だった。子供ながらに足腰が鍛えられた仕事の一つだった。          

熟柿(ずくし)は美味かった。 軸が取れた柿もきちんと皮をむいて干し柿にした。

 山から運んだ柿の実は剪定バサミで枝を切った後、縁側のムシロの上に置いた。そして
天気の良い日に吊るし柿作りが始まる。柿の皮むき専用のピーラーがあって、みんなでそ
れを使った。母親を中心に黙々と皮むき作業が続いた。何個もむかないうちに柿の渋で手
がヌルヌルしてくるのだが、誰も文句など言わずに皮むきを続けた。黙々と皮をむいた柿
をショウギに並べていると、縁側が独特の香りに包まれる。柿の香りなのか、果物の甘い
香りが充満して来る。香りは甘いのだが、渋くて食べられないというジレンマ。何とも魅
惑的な香りがお腹を刺激してたまらなかった。                   

 シュロの葉を細く裂いてバケツの水に浸けて置いた。水に浸けておくとシュロの葉が柔
らかくなって結びやすくなるからだ。蜂谷はこのシュロの紐で両側に結び、振り分けにし
て竹竿に干した。梱包用のビニール紐が出回るようになってからはビニール紐を使うよう
になったと記憶している。つるのこは荒縄を百二十センチくらいの長さに切ったものの縄
目に軸を差し込んだ。縄の両側に十個ずつくらい刺して、振り分けにして干した。   
 軸が折れてしまった柿には細い棒を刺して、その棒に紐を結んで吊った。割れたり砕け
た柿の実を使うことはなかった。落ちた柿の実は小石が刺さっていることがあり、皮むき
の時にピーラーの刃を傷つけてしまうので慎重にむいた。              

 むいた柿の皮も捨てずに干した。大きな竹ザルに渋紙を敷き、その上で干した。柿の皮
は干すとカラカラになる。渋かった柿の皮も長い間干すと甘さが出る。それほど美味いも
のではなかったが、甘いものに飢えていた子供たちはポケットに一掴み入れて遊びながら
おやつ代わりに食べた。口寂しさを消す貴重なおやつだった。            
 干した柿の皮を白菜や大根の漬物に使う人もいた。漬物に甘さと味わいが増すというこ
とで隠し味に使う人が多かったという。我が家では冬になる前に子供達が全部食べてしま
うのが常だったためか漬物で使ったことはなかった。                

 二階の軒下には干し柿用の竹が組まれており、そこにむいた柿をぶら下げて干した。振
り分けで干す蜂谷は日当たりをが良くなるよう段違いに干した。どの家でも吊るし柿を作
っていたから、この時はどの家も日当たりの良い南側は柿の実がズラリと並んでいた。晩
秋の秩父路を象徴する風景だったように思う。ズラリと並んだ柿の実は収穫の秋を代表す
る豊かな実りを表していた。晩秋の青空に綺麗に並んだ柿の実が映えて美しかった。  

 乾燥が上手くいかずにいつまでもぐちゅぐちゅしたままの柿は子供たちが食べてしまっ
た。こういう柿を残しておくと他の柿に影響が出てしまうからだ。干し柿になったものを
保管しているのを、誰もいない時に盗み食いしたこともあった。大体、バレて怒られる結
果になるのだが、どうしてバレたのかわからなかった。盗み食いした干し柿の旨さは格別
だったことが忘れられない。                           

十二月になると粉が吹いて甘くなった。 盗み食いしたあの味は忘れられない。

 昔は今よりもずっと寒かった。山から吹き降ろす北風に晒され、渋かった柿の実も徐々
に甘くなる。乾燥されて干し柿になったら二階の部屋に取り込み、大きなザルの棚で干し
た。十二月になると干し柿に粉が吹いて白く、甘くなる。秩父の夜祭、飯田の八幡様(鉄
砲祭り)の時期には食べられた。昔は干し柿を買いに来る問屋さんがいたらしい。   
 お正月のお飾りにも不可欠な干し柿だった。みかんやスルメなどと一緒に半紙をかけて
神棚の前に吊り、お正月様を迎えていた。干し柿は秩父を代表する冬のご馳走だった。 

 近年は温暖化の影響で、吊るし柿が作りにくくなっている。昨年なども大半の吊るし柿
にカビが生えてしまい全部廃棄処分したという話があちこちから聞かれた。そうでなくて
も山村は高齢化していて、柿を取ることすらままならない状態だ。秩父の風物詩だった吊
るし柿の風景も見られなくなるかもしれない。                   

 天日干しの干し柿ではなく、人工的に乾燥させるアンポ柿作りが盛んになってきた。柔
らかくて美味しいアンポ柿が新しい名物になっていることは喜ばしい限りだ。しかしなが
ら限りない郷愁を感じる吊るし柿の風景が無くなるのは寂しい限りだ。山野の赤い柿の実
が秋らしい風景を演出しているが、取る人なく鳥の餌になっている柿を見ると、時代の移
り変わりを感じてしまう。