山里の記憶249


うどんぶち:黒沢和義



2020. 10. 01


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 子供の頃、小学生時代はまだ自由な時間があったが、中学生になるとほぼ大人と同じ扱
いになった。よく覚えているのは、農繁期に家族が忙しい時は夕食のうどんぶちをやらさ
れた事だ。家族全員分の夕食なので中学生には荷が重い仕事だった。よく出来ることはほ
とんどなく「柔らかい・・」「ブツブツ切れる・・」など文句を言われる方が多かった。
 それでも慣れてくると、文句を言われる事よりも褒められる事が多くなり、嫌いだった
うどんぶちも楽しくなった記憶がある。                      

 ほとんどの家が養蚕をやっていて、その裏作として畑で小麦や大麦を作っていた。山ば
かりなので田んぼは少なく、米は貴重品で、主食は主に大麦の押し麦と小麦粉を使ったう
どんだった。どの家にもこね鉢やコネ板・麺棒が揃っていた。私が小学生の頃、画期的な
機械が誕生した。手動製麺機だ。小麦粉をこねて生地を作れば、伸ばし・麺切りをやって
くれる機械で、この機械のおかげでうどん作りは格段に楽になった。お陰で、中学生とも
なるとうどんの一つや二つできなければ一人前ではないという事態になってしまった。 
 当時、どの家にも一台この手動製麺機があったように思う。夕飯はうどんというのが大
方の家の実情だった。うどんの他にもすいとん(つみっこ・とっちゃなげ)やタラシ焼き
など粉物料理が多かったのは、豊富にあった小麦粉を主食にしていたからだと思う。  

カマドに火をつけて釜の湯を沸かすのがスタート。 こねるのは力がないと大変な作業だった。

 うどんぶちの前にカマドに火を着け、大釜に湯を沸かさなければならない。うどんぶち
作業は囲炉裏の周囲で土間の横にある「あがりはな」と呼ばれる板の間でやった。カマド
は土間にあったので火を着けてすぐにうどんぶちを初めてちょうどいい時間で湯が沸く計
算になっていた。                                
 家には大きな(多分五十センチくらい)のアルミ製のこね鉢があった。そこに小麦粉一
升半を入れる。茶色い小さな甕(かめ)から塩を一握り掴んで小麦粉と混ぜる。お椀で水
を少しずつ加え、小麦粉と混ぜる。この水加減がとても重要で、少しずつ粉をまとめるく
らいに慎重に入れる。力一杯こねてやっと固まる程度の水加減にしないとうどんにした時
にやわやわのうどんになってしまう。少ない水でも時間をかければ生地ができるのだが、
子供の頃はつい水を加えすぎて柔らかいうどんしか作れていなかった。        

 硬くこねながらこね鉢にへばりついた粉を回収し、最後はこね鉢がピカピカになるくら
い硬い生地ができれば、旨いうどんが保証されたようなものだった。         
 生地ができたらそれをちぎってテニスボール大に丸める。ここまでが人間の作業で、こ
こから先が製麺機の登場になる。まず丸い生地を大きなローラーで伸ばす。硬くこねてあ
るので縁がギザギザになるのだが、構わない。薄く伸ばされて出て来た生地を折り返して
たたみ、再度ローラーにかける。これを繰り返すことで生地に腰が生まれる。時間のない
ときは二度くらいでうどんにしていたが、そんな時は茹でた時にブツブツ切れた。   

 ローラー伸ばしを四度も繰り返すと滑らかで完璧な生地が出来上がる。出来上がった長
い生地はこね鉢やショウギと呼ぶ大きな三角のザルに広げておく。打ち粉はしなかった。
 この時に釜の湯が沸いているかどうかを確認する。また茹で上がりを入れるバケツに水
を入れて横に置いておく。釜の湯が沸いたら麺を作る。製麺機のハンドル位置を少し動か
して歯車をずらすと麺切りのローラーが回るようになる。製麺機のローラーは伸ばしが奥
側、麺切りが手前側になっている。伸ばした生地を切り歯のローラーに挟み、ハンドルを
回せばうどんの麺が切れて下がってくる仕掛けだ。                 

 ここからは忙しい。あがりはなに斜めに腰掛け、麺を切るやいなやカマドの大釜に入れ
る。素早く丁寧にこれをやる。急がないと茹でる時間が麺によって変わってしまう。一心
不乱にハンドルを回し、製麺機とカマドを往復する。二人でやる時は弟に運ぶ役をやって
もらったものだった。事前に全部切ってから一気に釜に入れた事もあったのだが、麺がく
っついてしまって悲惨な事になった。打ち粉をすれば良かったのだろうが、打ち粉は勿体
無いという教えがあり、やることはなかった。                   

まだ金網のザルはなく、竹製のすいのうを使っていた。 バケツの水でうどんを洗う。手がとても熱かった。

 大釜で茹でるのは慣れていた。麺を入れて十五分くらい茹でたように思う。一度吹き上
がったら差し水をして、その後もう一度吹き上がったら一本端っこを食べてみて茹で上が
りを判断した。茹で上がると、すいのうと呼ぶ竹製の柄杓でうどんを釜からすくい上げて
バケツの水に入れた。これも手早くやらなければならなかった。           
 バケツの水で少し洗って、麺を二・三本ずつ両手で折りたたむように丸くまとめた。こ
れをボッチと呼んでいた。三角の大きなショウギにきちんと並べるのが作法で、ボッチの
大きさはちょうどお椀の汁に入れる大きさになっていなければならなかった。大きなボッ
チにするとすぐになくなってしまうので、小さめのボッチで数多く作るのが褒められた。

 おっ切り込みは麺を切ったらそのまま具の入った汁鍋に入れて煮込むものだが、うちで
はやらなかった。食べる時間が遅くても、別々でもボッチにしておけば保存できるからだ
った。家族が多かったし、全員が同じ時間に食べられるものではなかったからだ。   
 汁鍋はしょうゆ味だった。煮干しを入れて出汁にしたが、煮干しを入れたまま汁にして
いた。じつは、この出汁に使った煮干しを食べるのが好きだった。具はその時畑にあるも
のを使っていた。ネギが多かったが、ほとんど何もないような時も多かった。たまに油揚
げなどが入っていると大喜びしたものだった。汁鍋は母親か姉が作った。       

 うどんには「マシ」と呼ばれる茹で野菜を付けた。うちの場合は「ひゃくは」と呼んで
いたかき菜の一種が一番人気があった。薬味も、その時畑にあるものを使った。夏ならば
しそっぱ(大葉)ミョウガ・茹でインゲンなど。秋冬ならネギと大体決まっていた。  
 冬は乾麺を鍋で茹で、それぞれのお椀に自分で引きずり入れて醤油をかけて食べる「ず
りあげ」をよくやったが、夏には暑くてやらなかった。夏はほとんど毎晩、このボッチう
どんだった。どちらにしても腹一杯食べられるうどんは大好きだった。        
 うどんぶちは中学の時から高校まで随分やった。高校二年の時に母親から「これならも
う完璧だなぁ・・」とお墨付きをもらったのがとても嬉しかったのを覚えている。   

マシというのはうどんと一緒に入れて食べる野菜のこと。 製麺機の掃除も大事な仕事だった。手を抜くと怒られた。

 手動製麺機は精密な機械だった。機械だし、歯車が多いし、手入れは大変だった。食べ
物を作る機械なので普通の機械オイルやグリスは使えなかった。食用油を細いスポイトの
ような道具でさして、余分な油は拭き取った。麺作りを終えた後の掃除も毎日やった。こ
びりついた麺生地のカスが乾いてから竹串の先で丁寧につつき落とした。小さいブラシの
ようなもので全体を磨くのもうどん当番の仕事だった。終わった後は布製の袋を上からか
けてホコリがつかないようにしていた。きちんと手入れして綺麗にしておくことが、翌日
うどんになるのだから手抜きはしなかった。                    

 小麦は秋遅くにタネを撒き、冬に麦踏みをして、初夏に収穫する。収穫は麦の穂が首や
顔にまとわりついて痛くてチクチクして嫌なものだった。大きな束を山の畑からセータで
運ぶのも大変だった。乾燥させて脱穀するのがまた一苦労だった。一日仕事で、その時は
学校を休む事もあった。ムシロで脱穀小屋を作り、借りて来た脱穀機で全部を脱穀する。
「ノゲ」と呼ぶチクチクが汗だらけの身体中に刺さって不快感極まりなかった。そんな思
いをして脱穀した小麦が、精米所から粉になって大きな袋に入って届けられると妙に安心
した事を思い出す。「ああ、これで一冬うどんが食べられる・・」というような安心感だ
ったのだろうと思う。今から思えば自分で作った小麦を粉にして自分でうどんを作ってい
たわけで、随分と贅沢な事だったんだなあと思う。                 

 うどんぶちの思い出は食べ物を作る思い出と重なる。小麦粉をこねてうどんにするとい
う行為が料理という世界を広げてくれたような気がする。最初は嫌だったけれど、みんな
から喜ばれると嬉しくなって、次も頑張ろうという気持ちになった。         
 今、料理するのが好きで、自分で作った料理が一番うまいと思えるようになっている事
の最初の一歩が、あのうどんぶちだったような気がする。自分が作った料理で誰かが喜ん
でくれる喜びを知った子供の頃の記憶だ。