山里の記憶248


ストーブ当番:黒沢和義



2020. 9. 14


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 小学生の頃、冬になるとストーブ当番というのが交代であった。男子の持ち回りでやっ
ていたように記憶しているが定かではない。月に一回くらいの割合だったように思う。ス
トーブ当番の日はいつもより三十分くらい早く家を出た。              
 私が通った小学校は小鹿野町飯田耕地の中央にあった三田川小学校だった。鉄砲祭りで
有名な飯田八幡神社のすぐ近くで、和田・松坂・栗尾・岩殿沢・飯田・三山・久月が学区
エリアだった。和田から二キロ、久月からも二キロメートルくらいの距離だった。   
 家のある岩殿沢耕地から川を渡って丘を越え、約6百メートルくらいの距離だった。今
なら何てことない距離だが、小学低学年の頃は結構な距離だった。普段は岩殿沢耕地の子
供達が列になって小学校へ通学するのだが、ストーブ当番の日だけは一人で行った。  

 同級生のきみよちゃんの家の横に川に下る道があった。八幡様のお祭りに幟旗を掲げる
コンクリートの台石が両側にあり、川へ下る道の目印になっていた。この下り坂が急で怖
かった。細かいゴンベ石の急坂は滑りやすく、実際何度も滑って転んだ。細かいジグザグ
を繰り返しながら高度を下げ、河原に着く。冬の川はほとんど凍っていて、白い氷の下を
水が流れている状態だった。川幅は三メートルくらいだったが、五十センチほど高く道が
作られていて、そこに丸太を三本削って番線で縛った橋が掛かっていた。少し高くなって
いるこの丸太橋を渡るのが怖かった。                       

 橋を渡ると今度は崖に沿った登り坂になる。ここは一年中日が当たらない寒い場所だっ
た。雪が降った後などはここでソリ遊びをするような場所で、溶けて凍った雪はずっとそ
のまま残り、滑って歩きにくい道だった。小学低学年の頃は結構な難所だった。    
 坂を登ったところが杉林で、ストーブ当番の日はここで焚き付け用の杉っ葉をまるいて
(束にして)学校まで運んだ。この杉林から先は明るい畑が広がる台地で、気分良く歩け
る道だった。途中の右にため池があり、カエルがよく姿を見せていた。カエルが嫌いだっ
た私は、いつも反対側を見て、ため池の方を見ないようにしていた。         

 学校に着くと石炭バケツを持って校舎の一番端にあった石炭小屋に行く。用務員さんに
声をかけて石炭をバケツに入れてもらった。石炭小屋には焚き付け用の薪も置いてあった
が、丸い薪の他に板材なども置いてあった。丸い薪は火がつくのが遅いので、私は好んで
板材を細く鉈で割って使っていた。板の方が火がつくのが早かったし良く燃えた。   
 石炭バケツに石炭を入れ、薪をその上に重ねて教室まで運ぶのが大変だった。とにかく
重かったのを覚えている。寒い朝でも石炭バケツを運ぶのに汗をかいていた記憶がある。

一気に火を大きく燃やすと煙が逆流した。 煙突が黒いので触って火傷する子がいた。

 ストーブに杉っ葉を入れ、その上に細く割った板を重ね、マッチで火をつける。いきな
り大きな火にすると煙が逆流することがあるので、細くゆっくりと火を育てる。煙突の中
を暖かい空気が流れて抜けると、自然に煙突が空気を吸い込むので、そうなれば火を大き
くしてもいい。煙が逆流するのはうんと寒い日とか風が強い日だったように思う。   
 火が大きくなったら太い薪をくべる。太い薪に火が燃えつけばもう安心だ。あとは石炭
を少しずつくべるだけになる。寒い中で白い息を吐きながら頑張った結果が報いられる時
間がきた。寒かっただけの教室が徐々にストーブが発する熱気で柔らかくなってくる。 

 寒い朝の通学路を懸命に歩いて来た同級生が次々に教室に入ってくる。遠くから通う子
の方が早く学校に着いていたように思う。一番近い子が遅かったのはよく覚えている。 
 早い子はストーブが暖かくなっていると歓声をあげて寄ってくる。通学路はとにかく寒
いから暖かいストーブは何よりだった。みんな笑顔になるのが嬉しかった。両手を前に出
してストーブにかざし、並んでおしゃべりをする。先生が来る前の至福の時間だった。 

 ストーブは鋳物製のだるまストーブでトタンの煙突が付いていた。この煙突は黒いので
熱いのに気づかずに触って火傷をする子がたまにいた。ストーブの周りでふざけて遊ぶの
は先生から厳重に注意されていた。しかし、子供は先生の言うことは聞かないで遊ぶ。先
生もずっと見ているわけにはいかないから、火傷するのも仕方なかった。       
 教壇の横にストーブがあって、煙突はまっすぐ上に伸び、途中で曲がって天井から吊る
される形で窓の外まで伸びていた。窓の外で今度は上に伸び、一番上はTの字型になって
煙を吐き出していた。煙突掃除をした記憶はないので多分用務員さんか先生がやっていた
のだと思う。石炭小屋の壁に大きな黒いタワシがついた太い針金の束がかけられていたの
を覚えている。                                 

給食のパンが冷たかった。ストーブで焼こうと誰かが言った。 女子に密告されて先生に怒られた。

 ストーブで給食のコッペパンを焼くのが流行ったことがある。コッペパンをストーブに
押し付けて焼くと香ばしくなってとても旨かった。競争でストーブに群がって焼いたもの
だった。しかし、この男子の行動を反目していた女子が先生に密告する。先生が来て「誰
がやったんだ」と怒るがみんな黙っていた。みんなでやっているのだから仕方ないじゃな
いかと内心思っていた。女子と男子は仲が悪かった。                

 ストーブを入れている間はなるべく平等にと言うことで、定期的に席替えがあった。ス
トーブに近い席になるのはすごく嬉しいことだった。席替えのたびにワクワクしたり落ち
込んだりしたものだった。                            
 ストーブに近い席は暖かくて最高だった。しかし、人間というものは暖かくなると眠く
なる。これはどうしようもない事で、ついウトウト・コックリしてしまう。先生が見逃し
てくれるはずもなく、こっぴどく怒られたものだった。そんな事があっても、ストーブの
近くになりたかった。                              

席替えが待ち遠しかった。 ストーブの近くの席は天国だった。

 石炭小屋は学校の一番端っこにあった。その屋根裏を隠れ家にしていた事があった。私
のクラスは本当に悪い奴が多くて、何度か授業をボイコットした事があった。ガキ大将が
四人くらいいて、勢力争いをしていた。クラスに男子は十七人、女子が三十人だった。そ
の十七人の男子の中で勢力争いなどという馬鹿な事をやっていた。馬鹿な男子を女子は冷
ややかに横目で眺めていた。                           
 ガキ大将同士の意地の張り合いで「誰も教室に行くな」「あいつのグループより先に教
室に行くな」などという意地の張り合いをしていたのだ。どっちのグループでもなかった
がそんな時に教室に行くと、後でとばっちりを受けるので石炭小屋の屋根裏に登って隠れ
ていた。偶然に石炭小屋に屋根裏がある事を知って、その時に使ったものだった。   
 ここが意外と居心地が良かった。暗いけど静かで、誰にも気づかれずに半日くらい隠れ
ていた。先生が怒って担任に告げ口し、担任が大声で学校中を回って隠れている男子を集
めた。後日、男子全員が立たされ、盛大なお説教を食らった。女子はそんな男子を冷やや
かに横目で見ていた事を思い出す。石炭小屋の屋根裏は秘密の隠れ家だった。何度かお世
話になった懐かしい場所の一つだ。                        

 昔は今よりもずっと寒かった。十二月十五日(現在は十二月第二日曜日)の八幡様のお
祭り(鉄砲祭り)の時など、じっとしていると靴の裏が凍りつくくらいに冷え込んだもの
だった。学校に行く時、畑に出来た霜柱を崩して歩いていたら、六年生に「列を乱すな」
とよく怒られた。霜柱は大きな時で十センチ以上あった。あまり霜柱を蹴り続けると、薄
い靴から水が浸みて冷たくなった。靴下も粗末なものだったからすぐに水が浸みた。  
 手袋は姉のお下がりでミトン風の毛糸の手袋をしていたが、中に軍手をして二重にして
いたこともある。風が冷たいので耳カバーは必着だった。ニットの耳バンドが流行ってい
た。マフラーもお下がりで使っていた。かっこいいマフラーやセーターは高値の花で、ほ
とんどの子供が兄や姉のお下がりを使っていた。寒くて鼻水が出て、それを拭くために上
着の袖はテカテカになっていた。                         

 子供達にはあかぎれやしもやけも普通にあった。学校のストーブは寒さから身を守る暖
かさを提供してくれた。子供達の学校生活になくてはならないものだった。ストーブ当番
の日は特別な日で、一日が楽しかった。従業中でも石炭をくべにストーブのところに行け
たりもした。普通の子供が特別な人間になったような気がした一日だった。