山里の記憶244


立ち臼を作る:中沢武夫さん



2020. 3. 10


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 三月十日、小鹿野町両神の大塩野に立ち臼作りを取材に行った。取材したのは大塩野の
中沢武夫さん(八十一歳)で、あいにくの雨模様だったが快く対応してもらった。   
 中沢さんの義父は秩父最後の木地師と言われた伝説の木地師、小椋弥市さんで、様々な
思い出の品を見せてもらった。直径八十四センチもある小椋弥市作の木鉢が二台も残って
おり、その出来栄えに感動した。材はトチノキで福島県で買ってきたものだったという。
なんという巨大なトチノキだったかと驚かされた。多分直径二メートルはあったのではな
いかと思われる。弥市さんがこの木鉢を作ったのは五十年前とのこと。両神の大平(おお
だいら)にあった実家で作ったものだという。                   
 直径八十四センチ、七十三センチ、五十一センチ、五十センチと小椋弥市作の木鉢を並
べる武夫さん。その価値を誰よりも知る人だ。奥さんの峰子さん(七十二歳)が弥市さん
の掲載された本や雑誌を見せて色々話してくれた。                 
 居間の炬燵板は四百年物の柾目の杉板で、厚さは十センチもある。長く山仕事をしてき
た証が家のあちこちに置かれている。そんな中で武夫さんに昔話を聞いた。      

伝説の木地師「小椋弥市」作の巨大な木鉢。材料はトチノキ。 居間の炬燵で昔の話を色々話してくれた武夫さん。

 武夫さんは昭和十四年、両神の大神楽の実家で生まれた。小学校は、出原(いでわら)
の分校で、歩いて二十分くらいの道を毎日通った。当時の履物はわら草履で、片道で切れ
てしまうような物だった。帰り道にはわらじの底に板の端切れを縛り付けて歩いたことも
あるという。終戦後でまだ子供の靴などない時代だった。              
 中学は両神中学に通ったのだが、片道十一キロの道を1時間半歩くという大変な通学だ
った。わら草履は擦り切れ、三年の時には自転車のタイヤを足型に切って、底に貼り付け
たものを履いて学校に通った。                          

 父親の友幸さんは頑固な人だった。早くに軍隊に召集され心身を鍛え、復員してからは
銃剣術の指導員をしていた。居間の壁には熊撃ちをして満足そうに笑っている友幸さんの
写真が掛けられていた。友幸さんは七十二歳で亡くなった。             
 友幸さんは炭焼きを仕事にしていたので学校に通いながら手伝っていた。炭焼きは浦島
の山で、間口九尺、奥行き二間の大きな炭窯で黒消しの炭を焼いていた。武夫さんは焼き
上がった炭を運ぶのが仕事で、一回で五俵を背負って運んだ。五俵の炭の重さは約八十キ
ロもあった。足が達者だったので、他人が1時間半かかるところを1時間で運んだ。炭窯
の次の焼きに間に合うように必死で背負ったという。女衆(おんなし)も頼んで必死で道
路まで運んだ。                                 
 炭は一回で二百五十俵も焼いた。炭焼き場から道路まで背負いおろして、そこから牛車
で竹の平まで運んだ。竹の平からはトラックで小鹿野に運んだ。炭焼きで生活が出来たし
、結構いいお金にもなった。                           

 その後、友幸さんが病に倒れ炭焼きが出来なくなり、日雇取りの仕事に変わった。主に
山仕事で、ニコヨンと言われた一日二百四十円の日給だった。杉苗を運んで植え付ける仕
事をした時のこと、三百束を背負って運び、人よりも早く終わってしまったので先輩に唐
鍬で頭を殴られるという事件があった。いいかっこするなという事だったのだと思うが、
その怪我を見た友幸さんが先輩を殴りに行くという展開になった事件だった。十六歳の春
のことで、足は達者だった。                           
 その後、文化薪作りもやった。風呂やカマド用に必要な薪で、三十センチの長さで二十
センチの束に作るという仕事だった。一日に一坪の薪を作って一人前で、一日百三十円の
仕事だった。まだガスが普及する前のことで、薪は生活必需品だった。        

父の友幸さん。熊猟で熊を獲り、満足そうな笑顔の写真。 山仕事の中で見つけた、珍しいヒノキの玉根。

 そんな時、ある出逢いがあった。仕事を終えた帰り道、大平の集落周辺で女の子が泣い
ていた。聞けば家で怒られて帰れないという。「そんならウチに来ればいい」と言って家
に連れて帰ったのだという。「今じゃあ誘拐だなんて大騒ぎになるとこだぃねぇ・・」と
笑うが、これが奥さんとの出逢いだった。翌朝、家が合同作業の集合場所になっていたこ
とで、二人の仲がばれ、そのまま結婚する事になったのだという。「みんなに掘り出しも
んだぃなぁって言われたんだよ」と笑う武夫さん。奥さんは「今更そんな話はいいよぉ」
と手を振って打ち消していた。武夫さん二十六歳、峰子さん十七歳の時だった。    

 結婚後大きな仕事が舞い込んだ。昭和四十一年の事だった。大滝の原生林伐採の仕事で
、白石山の山中(二〇五三高地)に建てた山小屋で生活しながらの仕事だった。原生林を
伐採し、玉切りした材木を背負って運ぶという厳しい仕事だった。年に二度しか下界に下
りずに仕事だけをしていたという。冬は零下二十度まで気温が下がり、酒が凍り、腰まで
の雪に悩まされながらの仕事だった。峰子さんも生まれた子供を大平の実家に預け、作業
員十五人の飯炊き仕事で一緒に働いていた。                    
 その後、大滝の山で森林火災があり、仕事ができなくなって下山。下山後は山仕事とト
ラック配送の仕事を掛け持ちして睡眠三時間で仕事をこなした。山仕事は主に杉を伐り出
して足場丸太を作る仕事だった。夕飯を食べてそのままトラックを運転して品川まで石灰
を運んだ。子供四人を育てるにはお金が必要だった。健康で、体力・気力が充実していた
から出来た仕事だ。仕事じゃあ負けないという気概もあった。            

 今は「中沢グリーン企画」という会社を運営して、主に武蔵丘陵・森林公園の仕事をし
ているのだが、仕事は社員に任せて、自分は悠々自適に楽しいことをやっているのだと言
う。今の時期はもっぱら狩猟に勤しんでいる。昨日も四頭の鹿を獲ったそうで、冷凍庫い
っぱいの肉を見せてくれた。居間には大きな鹿のトロフィーが二つ、堂々と掲げられてい
る。納屋には狩猟の道具類がきちんと整理されて収納されていた。今は罠猟を中心にやっ
ているので、罠の道具が多い。猟の時はもっぱら無線で指示する役回りだそうだ。狩猟は
五十年やっていて、今までに熊を七頭獲ったという。                

 立ち臼作りは道楽で始めたのだが、北海道や新潟から注文が入るのでそろそろ本格的に
作ろうかと道具類を揃えたところだという。製作中の立ち臼はほぼ掘り終わって、仕上げ
削りと外側の鉋掛けが残っている状態だった。ヒビが入らないように十年乾燥させたケヤ
キが材料で、まだ削ってないものが二個保管されている。              
 道具類が素晴らしかった。木地師専門の道具が揃っていた。ツボウチは内部を削る手斧
で、手斧(ちょうな)とも呼ばれる。ヒラクチは平らな面を削る手斧で、上面や外側を削
る時に使う。ヒラウチは穴を深く掘り込む時に使う手斧で、強く打ち込んでこじるように
使う。ササガンナは長い柄で細い歯が湾曲しているカンナ。内側の仕上げ削りをするカン
ナで、ヤリガンナとも呼ばれている。                       
 ヨキも二種類あった。短い柄で厚い刃のハツリヨキは浅い場所を削るもの。長い刃のホ
リヨキは深い穴を掘るもの。それぞれに用途が違う。今、深く掘る作業はチェーンソーを
使うので、ホリヨキを使う事は少なくなったというが、武夫さんは道具にこだわる。道具
の手入れや修理も全部自分でやる。                        

制作中の立ち臼。乾燥防止のために布団を掛けてある。 木地師の道具類。武夫さんが新潟などで買い揃えたもの。

 立ち臼の材料は堅いケヤキ。乾燥させてあるのでヒビは入らない。この堅いケヤキをど
うやって削るのか聞いたら、水を張って内側を柔らかくして削るのだと言う。木鉢は生の
状態で削るのだが、立ち臼は生で削ると後でヒビが入って使えなくなる。十年以上乾燥さ
せるのはヒビが入らないようにするためだ。                    
 立ち臼の注文は北海道や新潟や富山からある。個人ではなく、小学校とか幼稚園、保育
園からの注文が多かった。イベントとしての餅つきには立ち臼が欠かせないのだろう。イ
ンターネットで流してから全国から注文が入るようになったのだという。出来上がった立
ち臼は大きくて宅急便では配送できず、丸通で配送したそうだ。           

 自宅の立ち臼を見せてもらった。四升臼でよく使い込まれている臼だった。この立ち臼
で毎年十臼の餅つきをするという。子供が六人、孫と曾孫を合わせて三十六人分の餅をつ
くのだから大変なのだと笑う。もう三十年使っている立ち臼だ。           
 お昼を過ぎた頃に奥さんが「赤飯があるから食べていきない」と声をかけてくれた。ひ
孫のお食い初め用に作った赤飯だそうで、茶碗に山盛りでいただいた。キャラブキやわさ
び漬けもいただき、お腹いっぱいになってしまった。                
 伝説の木地師が作った木鉢を見て、木地師の道具類を見て、実際に作っている立ち臼を
見て、秩父の山の歴史に思いを馳せた取材だった。