山里の記憶234


おいなりさん:村田ミキさん



2019. 6. 11


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 六月十一日、長瀞町長瀞、宝登山神社近くに村田ミキさん(八十六歳)を訪ねた。天明
四年に建てたというミキさんの家は、二百三十五年の時を経て今なおしっかりと時を刻ん
でいる。村田家は織物を生業とする旧家で、訪問の目的は家例の取材だった。     
 ミキさんは昭和二十九年十一月、二十二歳の時に嫁に来た。家同士の話で決まった結婚
だった。「まったく見合いもなしで、いきなり祝言だったからねえ・・」と昔を思い出し
ながら話すミキさん。当時、恋愛結婚はタブーで見合いが当たり前だったが、見合いもし
ないで結婚というのは珍しいことだった。よく聞くと、一回だけ秩父の昭和館に映画を見
に行った事があったという。デートらしい事はその一回きりだった。お相手は村田和夫さ
ん。二つ上の二十四歳だった。                          

 吉田久長(よしだひさなが)の実家で嫁迎えの祝言を挙げた。近所の人や親戚の人が三
十人くらいで祝ってくれた。実家での祝言を終え、丸通のタクシーで長瀞に来て、宝登山
神社の拝殿で祝言を挙げた。これが本式の結婚式で、四十人くらいの人が祝ってくれた。
それから長瀞の村田家に入り、まず「とぼう盃」(嫁ぐ家の玄関を半分またいで盃を交わ
し、この家の人間になることを誓う行事)をした。「神職の人がいて教えてくれたんだい
ね、蛇の目傘を差して三宝に盃を乗せて、厳かなもんだったぃねぇ・・」とミキさん。 
 村田家での祝言は三十人ほどの人が集まった。近所の人や親戚の人たちだった。都合三
回目の祝言になる訳で、すごく疲れたという。その後は訪問着に着替えて姑に連れられて
宝登山亭で嫁見せの披露宴を行った。                       
 一連の祝言が終わり、旧家の嫁に入ったミキさん。家族は九人で、嫁の仕事は多く、目
が回るような忙しさだった。山も畑もいっぱいある家で、舅が厳格な人だった。姑はあま
り畑仕事をしない人だったので、余計にミキさんの仕事が増えた。日々の暮らしでも嫁に
自由になるものは何もなく、姑が決めたことをやるだけだった。風呂は最後だし、自由は
なかった。そんな辛かった時代の村田家の話は正月の話から始まった。        

ミキさんの家は長瀞の旧家。昔は藁葺き屋根の家だった。 宝登山神社の御眷属は氏子の証。お犬様のお札が納められている。

 村田家の家例は宝登山神社のお祭りや行事に影響されて神社と共にある生活だった。 
 お正月の家例はお蕎麦を食べることから始まった。大根の千切りをたっぷり混ぜてカサ
増しした蕎麦だった。信仰深い舅の細かいお祈りの手順があった。毎日七ヶ所にお供えを
して手を合わせた。年末についたお餅は、正月中食べる数がきちんと決まっていた。  
 一月十三日には虚空蔵様のお祭りがあった。虚空蔵様は丑寅の守り本尊で、鬼門除けだ
った。谷津の栃原さんの家で作った繭玉をもらってきて家に飾った。         
 小正月はあまりやらなかったが、十五日に小豆粥を作って食べたことはあった。   
 一月十七日は山の神様のお祭り。宝登山神社から神主さんが来て当番の家で拝んで直会
をした。この当番に当たると座布団が四十枚くらい必要になり、準備が大変だった。煮物
、漬物、かて飯、おいなりさんなどを作って食べた。                

 二月の節分にはお札と升を神社からいただいて家で豆を撒いた。豆の数も決まっていて
年の数だけ撒くのが決まりだった。豆は囲炉裏でホーロクを使って炒った。      
 「がらぎっちょ」と呼んでいたサイカチの木の周辺に撒いた豆をまとめて供えた。イワ
シの頭を焼いて竹串にさして「とぼう」(玄関口)に飾ったものだった。そして、この時
もおいなりさんを作って食べた。おいなりさんはご馳走だった。           
 三月のお彼岸には、ぼた餅とおいなりさんを作った。真言宗の光安寺が菩提寺で、ぼた
餅や赤飯を納めに行くのは子供の仕事だった。行くとお菓子や駄賃がもらえた。    
 三月終わりにはその年に卒業する子供の家でお日待ちをした。子供たちが当番の家にこ
もり、夜明かしをする。親のいない無礼講は子供たちの楽しみでもあったが、いつのまに
かやらなくなってしまった。                           

 四月三日は雛祭り。桃の節句は月遅れの四月にやった。雛飾りは吉田久長の実家から御
殿飾りが贈られていて、それを飾った。三段飾りの豪華なものだった。赤飯を炊き、草餅
と白餅をついた。餅をつく臼は江戸時代からの大きなものだった。          
 四月三日は宝登山神社のお祭り。獅子舞や植木市が立つ賑やかなお祭りだった。大鳥居
から神社までの参道にお店がずらりと並び、賑やかだった。当時は目の前の国道を馬車が
通っていた。植木が大好きなので、お祭りのたびに植木をたくさん買って庭に植えた。 
 四月十八日はお犬替え。村田家は宝古久講(ほうこくこう)という宝登山神社の講に入
っている。昔は四十軒ほどが参加していたが今は七軒だけになってしまった。毎年四月十
八日が御眷属様を取り替える日になっている。御眷属は木箱を和紙で包んだ中に入ってい
て、これを毎年取り替える「お犬替え」が講の一員として大事な神事だった。     
 五月五日は端午の節句。久長の実家に菖蒲があったのでたくさん採ってきて、菖蒲湯に
入った。藁屋根だったのでとぼうに飾った。赤飯を炊き、おいなりさんを作った。   
 七月二十日はお祇園。宝登山神社の祭事で、八坂神社のお祭りだった。笠鉾が出てにぎ
やかなお祭りだった。                              

旧家のしきたりを守って共に暮らしてきた夫の和夫さん。 一緒に暮らした猫のお墓。毎日一つの小石を置いて手を合わせる。

 七夕は月遅れの八月にやった。竹を伐ってきて、折り紙や短冊で飾り付けた。昔は七夕
の竹飾りを川に流していた。「七夕やよく来てくれたすまんじゅう」という歌が有名だが
この時期にはすまんじゅうをよく作った。                     
 八月はお盆様がある。八日がお墓掃除と決まっていて、姑と一緒に掃除した。田んぼが
無かったので、釜の口開けはやらなかった。                    
 盆棚を作って飾り付けをした。四隅に竹を立て、しめ縄を張り、ほうずきや短冊を竹に
飾った。棚の上には盆ゴザを敷き、季節の果物、梨・スイカ・ブドウなどを置き、キュウ
リの馬やナスの牛を作った。                           
 迎え火はケエド(道路から家に入る門の周辺)で塔婆を燃やした。十五日に施餓鬼があ
り、新しい塔婆が来るので、古い塔婆は迎え火で燃やしていた。塔婆を燃やすのはミキさ
んが始めた事だった。お盆様ではお寿司の日、おはぎの日、おいなりさんの日があった。
 盆棚の飾りやお供えは一緒にお寺の門近くに置いて捨てたものだった。竹は川に流した
事もある。十六日が盆送りだった。                        
 八月十五日には長瀞の船玉まつりがある。宝登山神社の夏祭りで、水神様を祀るもの。
たくさんの灯篭が流され、灯篭流しとも言われている。流された灯篭は下流で回収する。
特別に供養したい人がいる場合は回って来る帳面に書いて決められた代金を奉納する。 

 九月の十五夜には団子ではなくおまんじゅうを作って供えた。よその家の供えられたお
まんじゅうを盗みに行く子供がいた。この日は盗みも大目に見られていて、子供の楽しみ
でもあった。ススキと十五夜花(シオン)を花瓶に飾って月見をした。枝豆や栗、サツマ
イモ、カボチャなども供えたので、収穫を感謝する意味合いがあったのかもしれない。 
 九月のお彼岸には、おはぎとおいなりさんを作った。               
 十一月三日は宝登山神社の神武祭。講が入ると神社から花火が上がる。役員になると参
加したけれど、そうでない時は参加しなかった。                  
 十二月はお正月の準備が忙しかった。大安吉日にお松迎えに行く。恵方の山に入って三
階の松を伐って来る。三階の松は少なくて探すのが大変だった。最近はみな買って来る。
 餅つきは二十九日だった。大きな鏡餅を作るのに冷めるまで両手で撫でて形を作るのが
大変だった。年越し蕎麦を食べたことはない。大晦日に元日用の蕎麦を打った。    

おいなりさんを作るミキさん。昔は一回で五十個も作った。 一年中様々な行事の時に作ったというおいなりさん。美味かった。

 一年中色々な場面で食べたおいなりさんを作ってもらう事にした。娘の征子(ゆきこ)
さんがご飯を炊く間に、ミキさんと裏の畑を見る事にした。一人分の野菜はナス・トマト
・ヤマイモ・カブなどをプランターで栽培している。裏の畑は木が植えられ花木園のよう
になっていた。ミキさんが説明しながら畑の中に入る。サンシュユの木が大きく葉を広げ
ている。トサミズキがある。ポポーの木はまだ小さい。サルナシの大きな薮がたくさんの
実を付けている。ヒメシャラがあり、ヤブツバキがあり、シロヤシオがある。それぞれ花
が咲くのを楽しみに待っているのだという。木の下にはフキや珍しいエビネがある。  
 ふとミキさんが小石を拾った。小石が塚のようになっている場所があった。聞くと一緒
に住んでいた猫が昨年死んでしまい、ここに埋めたのだとのこと。ミキさんは毎日小石を
一つ拾ってここに置き、手を合わせている。小石の塚はミキさんが手をわせた数だけ山に
なっている。こういう弔い方があったのだ。                    

 母屋では征子さんが油揚げを甘く煮て冷まし、ご飯も炊き上がり酢飯になっていた。居
間のテーブルでミキさんによるおいなりさん作りが始まった。ミキさんは話好きでおいな
りさんを作りながらも話が止まらない。昔は一回で五十個も作ったそうだ。      
 色々な話を聞きながら出来上がるおいなりさんが実に美味そうだった。懐かしい香りに
誘われ、勧められるままに食べたおいなりさんの美味かったこと。シンプルな味付けで何
個でも食べられそうだった。お土産にもいただき、美味しい取材だった。