山里の記憶233


納豆作り:加茂下 琴さん



2019. 2. 28


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 二月二十八日、秩父市内で納豆作りの取材をした。朝五時起きで取材に行ったのは秩父
市上町の加茂下琴(かもしたこと)さん(九十歳)だった。琴さんは九十歳の今も現役で
自宅兼工場の「かも食品」という会社で納豆とうどんを製造している。昔ながらの家内制
手工業で納豆を作っているのは秩父で「かも食品」だけだ。昭和三十四年から始めたとい
う納豆作りは今年で六十年になる。                        
 朝八時にボイラーの火を入れるという事で早朝の取材となった次第。秩父市内の自宅兼
工場に伺うと準備作業に忙しそうなところだった。取材は事前に伝えてあったので笑顔で
迎えていただいた。                               
 納豆は在庫が少なくなったら作る。最近はあまり売れなくなって作る数も少なくなって
きたという。昔は集落毎に小さい商店があり、どこでも扱ってくれた。しかし最近は商店
がどんどんなくなり、スーパーや大型店しか扱わなくなってしまったのが響いている。 

 娘のみどりさんがお茶を入れてくれ、炬燵で琴さんと話す。昔の写真を見ながら納豆を
作り始めた頃の話をしてくれた。最初は納豆売りから始めた。本庄の人が作っていて、作
り方を教えてくれと言ったら、売らないんだったら教えねえって言われたので、必死に売
ったという。八円で仕入れて十円で売った。「やるしかねえって頑張ったいねぇ」と振り
返る琴さん。その結果、やっと一晩だけ来て作り方を教えてくれた。それからは自分で作
って売り歩くようになった。                           

このバイクに乗って納豆を売り歩いた。若き日の琴さん。 この地に工場を建て、納豆を作り始めた頃の写真。

 昔の納豆作りは大変だった。温度計なんてないし、練炭で暖めて温度を保つやり方だっ
た。同業の人の中で一酸化炭素中毒で亡くなる人もあったほどだ。          
 最初は女だてらになっと・なっとーと声を出すのが恥ずかしかったという。でもやるし
かなかったし、やっているうちに自然に声が出るようになった。「あれは不思議なもんだ
った」と懐かしがる。浦山から荒川まで自転車で売り歩いた。その日のうちに売り切らな
ければならないので必死だった。夕立に遭ったりするとびしょ濡れになってしまった。 
 昔の納豆は経木で作った。経木を三角に折ってそこに大豆を詰めたものだった。藁づと
の納豆も作ったが、藁の農薬検査などで保健所がうるさかったので止めた。      
 経木の納豆は出来上がるとハンコを押すだけで出荷した。昔は今のように厳密な製造管
理はしていなかった。今は完全な製造管理をして仕上げに確認のシールを貼っている。 
 昔は秩父市内に四軒の工場があったけれど、今は琴さんの工場だけになってしまった。

 材料の大豆は高崎の問屋から仕入れている。初めて問屋に行った時、問屋では大きなト
ラックで来ると思っていたらしかったが、小さな三輪トラックで行ったのでびっくりして
いたのを思い出す。昔の写真に写っていた三輪トラックは本当に小さいものだった。  
 最盛期の昭和四十七年から五十年にかけては三トントラックで六十キロの袋を五十くら
い積んで仕入れていた。売るのも忙しくて、バイクや車で夜の八時頃まで売り歩いたもの
だった。納豆は各集落の商店でみんな扱ってくれた。個人の家で二十も買ってくれる家が
あった。頼まれているので家が留守でも玄関先に置いてきたものだった。       
 納豆を買う人が多かったから、アルバイトで売る高校生もいた。毎朝秩父市内を回って
納豆を売り、野球の道具を買った高校生もいた。みんな頑張っていた。        

 うどんを作り始めたのは昭和四十七年からだった。納豆とうどんの二本柱にしたことで
経営が安定した。各集落の商店や町のスーパー・デパートに卸すようになった。寒い冬は
鍋焼きうどんの需要が大きいので朝早くから作業が忙しい。             
 納豆は在庫がなくなったら作るようになっている。最近は三日か四日おきに作っている
とのこと。この日は納豆作りということで、手伝いの岩田さんと強矢(すねや)さんが来
ていた。話が一段落したところで、みどりさんが「そろそろボイラーも熱くなったから」
と席を立った。いよいよ納豆作りの始まりだ。                   

 琴さんはみどりさんやお手伝いの二人に細かい指示を出しながら作業を進める。大きな
圧力釜を動かして二種類の大豆を蒸し上げる。圧力釜が沸騰してから蒸気の圧力一キロを
二十七分持続させて蒸し上げる。大きな釜を操作して静かに回転させる間も目はメーター
を見続ける。蒸気圧が下がると「下がったぞ!」とみどりさんに声をかける。みどりさん
は弁を調節して蒸気圧を一キロに戻す。二十七分間の静かな緊張だ。圧力釜を回転させる
のは大豆の蒸し加減が均一になるからだとのこと。                 

 圧力釜が安定したところでみどりさんが台所に立つ。これから納豆菌の培養液を作ると
いうことで後に続く。納豆菌は山形産のもの。起業時からずっとこの納豆菌を使っている
とのこと。大きなヤカンの湯が沸いたところで火を止め、温度計を差し込む。七十度に下
がったところで納豆菌をキャップ一杯(約十ミリリットル)を入れて混ぜる。納豆菌は非
常に強い菌で、赤痢菌などよりも強い。湯を沸騰させる事で殺菌し、七十度で菌を入れる
から他の菌が発生しなくなる。温度が下がりすぎると雑菌が入るので培養液は熱いうちに
使うことが肝心だとのこと。                           

納豆菌をまぶした蒸し大豆50グラムをパックに詰める琴さん。 強矢さんが出来上がったパックの最終点検をしている。

 蒸し上がった大豆を岩田さんと強矢さんが取り出す。釜の蓋を開け、もうもうと湯気が
立つ。釜の中から茶色の袋を引きずり出す。袋には小粒の大豆が入っており、大きなタラ
イにあけられた。この小粒大豆でまず納豆を作る。釜には北海道産の大粒大豆が残ってい
る。強矢さんがじょうろに入れた納豆菌培養液を満遍なく注ぎ、岩田さんが木じゃくしで
全体をかきまわす。これで納豆菌がまぶされた小粒大豆が出来上がった。急いで機械の横
に運び、琴さんが杓子で重さ五十グラムを計ってパックに入れ、機械を動かす。    

 機械は自動的に大豆の上に透明フィルムをかけてパックの封を閉じる。機械の出口でみ
どりさんと強矢さんが待ち受け、出来上がりをチェックする。パックが固定されないもの
は輪ゴムで止める。形が変形した物やパックが壊れたものは撤去する。        
 淡々と作業が進む。蒸した大豆が冷めないうちに作業を終わらせなければならないので
真剣勝負だ。大きな食品用コンテナーにパックを積み込むのも忙しい。二段に積み終わっ
たコンテナーは台車に積み上げられ、モロと呼ばれる自動納豆醗酵室に入れる。モロの室
内は三十九度に設定されており、十六時間で蒸し大豆が納豆になる。季節によって時間は
少し変わるが、基本的には翌日納豆になる。                    

 小粒納豆のパック詰めが終わり、大粒の北海道大豆のパック詰めが始まった。小粒納豆
は五個パックなのでカラシを袋に入れるのだが、北海道納豆は一個パックなので、パック
の中にカラシを入れるという作業が加わる。大豆は百グラムで計る。         
 作業は流れるように進み、大量の納豆パックがコンテナーでムロに積み上げられた。蒸
し大豆や納豆培養液が冷めないうちにという事で、忙しい作業だった。終わった時の琴さ
んの表情が良かった。満足感に溢れていて良い笑顔だった。             

納豆作りを終えて満足そうな表情の琴さん。お疲れさまでした。 「かも食品」製造商品の一部。うどんと納豆が二本柱だ。

 作業の後、炬燵でお茶を飲みながら昔の話を聞いた。苦労の連続だった納豆作りの話は
貴重な昔話だった。本当に元気な人で、話を聞いていても九十歳という年齢を感じない。
最近転んで少し元気がなくなったと言い「転ばなけりゃ今でもいばってやってたよ」と笑
う豪快な人だった。元気な人の話を聞くとこちらが元気をもらう。          
 何もないところからマイナスのスタートだった。両神の小森で子供の時から一緒だった
ご主人善之さんと結婚したのは昭和三十年のことだった。腎臓を病んでいたご主人を助け
、この場所に納豆工場を建てた。苦労の連続だったが、丈夫だったお陰でこの歳まで仕事
が出来た。本当に元気な体で良かった。                      
「孫たちがいい子で良かったいね…」と微笑む笑顔がじつに若々しかった。良い話を聞く
ことが出来た充実した取材だった。                        

 作っている納豆はまだ製品ではないので帰り道に矢尾百貨店に寄って「かも食品」の納
豆とうどんを購入した。四品買って五百円。自宅で味わう楽しみが出来た。      
 この季節には珍しく雨が土砂降りの日だった。雁坂峠では雪になっていたらしい。秩父
市内は気温が五度くらいまで下がっていただろう。雨に濡れた梅の花が清々しかった。春
の花が咲くのはまだ少し早い秩父路の景色だった。