山里の記憶231


秩父メープル:黒澤保夫さん



2019. 1. 23


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 一月二十三日、秩父の大滝・鶉平に秩父メープルの取材に行った。取材したのは黒澤保
夫さん(七十歳)で、カエデ樹液の採取方法を見せていただき、樹液利用の林業について
話を伺った。保夫さんは秩父メープルシロップの原料となるカエデ樹液を生産する「秩父
樹液生産協同組合」の副理事長で、会員と協力して樹液を採取している。       
 秩父には二十一種類のカエデが自生しており、全国でも有数のカエデ自生地だ。そのカ
エデから取れる樹液でシロップを作り加工製品にするという活動が活発になり、大きな注
目を集めている。保夫さんによれば山の再生の柱であり、木を伐らない林業だという。 
 秩父の山は針広混交林が本来の姿で、カエデなどの広葉樹を残し育てることが山の再生
になる。カエデの樹液で定期的な利益を生むことが出来れば、新しい林業として山を生か
すことにつながる。組合では樹液の採取だけでなくカエデの植樹などの活動もしている。

 組合は平成二十四年六月二十日に設立され、活動は今年で七年目になる。山中敬久組合
長以下七名の理事で組織し団体など二つの準組合員とNPO秩父百年の森のメンバーの協力
で運営されており、大滝・両神・横瀬など四百本強の樹木にタンクを取り付けて樹液を採
取している。                                  
 地主さんには一本当たり年間五百円を支払っている。五十年生のヒノキが一本当たり千
円の利益にしかならない事を考えれば安定した収入であり、立派な林業だとわかる。組織
的にやっている所は聞いたことがなく「たぶん、ここだけじゃないかと思うよ…」とのこ
と。遠方から近隣まで視察に来たことがあるが、その後の活動の話は聞かないという。 
 活動当初から樹液を採取するこの時期はテレビや新聞などマスコミの取材で取り上げら
れることが多く、自然派の人々を中心にメープルシロップは定着している。人々の期待が
今後の活動への後押しになっている。                       

 カエデ樹液を採取するのはどんな木でも良い訳ではなく、幹周りが二十センチ以上の木
に限っている。また、一本に一箇所しか穴は開けない。これは木の負担を軽くして枯らさ
ないようにするためだ。イタヤカエデが中心で、位置はGPSで登録してある。三月以降の
樹液はえぐみが出るので、二月中に採取は完了する。樹液の採取量は木によって違う、中
には百リットル以上出す木もある。生えている地理条件によっても違い、水場近くの木が
樹液を多く出すようだ。カエデ以外ではサワグルミの樹液やキハダの樹皮を採取して利用
している。                                   

旧大滝小学校の校舎に保管してある樹液採取用のポリタンク。 採取現場で器具の点検をする保夫さん。

 家で話を聞いた後で樹液採取の現場に向かう。現場は車で二十分ほどの入川流域にあっ
た。渓流釣りもできる「夕暮キャンプ場」で、保夫さんはこのキャンプ場のオーナーだっ
た。車を降りて山を見わたすと、大きなイタヤカエデが山際に林立している。根元には樹
液採取用の白いポリタンクが取り付けられている。イロハモミジは十二月頃から、イタヤ
カエデは一月末から樹液が出るという。カエデ類の樹液採取のタンクはすでに取付が終わ
っていた。タンクの中には樹液がすでに溜まっていた。               
 今日はこれから採取するというサワグルミに器具を取り付けてもらった。サワグルミの
樹液からシロップが出来るとは知らなかったので驚いて聞くと「少し苦みがあるけどおい
しいシロップが出来るよ」とのこと。サワグルミのシロップにはポリフェノールなどの有
効成分が多く含まれているらしい。                        

 保夫さんはまず電動ドリルで斜め上向きに幹に穴を開ける。樹液が流れるのは幹の形成
層なので、その深さでドリルを止める。穴の直径は一、五センチ。深さは二センチくらい
だろうとのこと。樹液が出る位置は木の太さや種類や向きによって違う。保夫さんはやっ
ていれば経験でわかるという。                          
 穴にビニールホース接続用の口金を打ち込む。この口金から樹液が出てくる。幹にロー
プを回し、タンクを吊り下げる。タンクのホースを口金に差し込めば完成だ。このサワグ
ルミからは一週間位で二十三リットル(タンク一杯)の樹液が採取できるという。太い木
だが、絶対に一本しか穴は開けない。また、使用後は腐りが入らないように穴を埋め直す
。今までに木を枯らしたことは一度もない。                    

 夕暮キャンプ場には明治十六年生まれの歌人前田夕暮の歌碑や山荘がある。歌碑は「山
を開き土を平坦(なら)して建てし工場(いえ)その隅にしろし栃の太幹(ふとみき)」
の歌が刻まれている。                              
 山荘は荒れているが往時の面影は残っている。この地に滞在して林業の傍ら歌を詠む生
活はどんなものだったのか、考えると感慨深いものがある。入川の流れは昔と変わってい
るのだろうか…。今は静かな山あいだが、昔は大勢の人が行き交う林業の現場だった。山
荘前から広場を見おろしても当時の映像は浮かんでこない。山々に点々と白いポリタンク
が見えるだけだ。                                

木を見極めて穴の位置を決める。穴の直径は1.5センチ。 作業終了してキャンプ場を後にする保夫さん。

 保夫さんの自宅に戻り、サワグルミのシロップとイタヤカエデのシロップを味見させて
もらった。どちらも保夫さんがストーブで四十分の一まで煮詰めて濃縮したものだ。サワ
グルミのシロップは甘いが舌に若干の苦みが残る。充分に美味しいと思ったのだが、イタ
ヤカエデのシロップは衝撃的だった。何という香りと甘さ。軽い甘さは何に例えたら良い
か…和三盆の黒蜜に近いかもしれない。しかし、サラリとしてメープル特有の芳醇な香り
が残る点は他に例えようがない。秩父のカエデからこんな味が作れるのか…と本当にびっ
くりした。この味をどう伝えたらよいのか、正直なところ難しい問題だ。       

 組合の話から樹液採取の苦労話を聞いた。保夫さんは笑いながら「何が大変って、重さ
だよね」と言う。タンクが満タンになると二十三キロにもなる。道のない急斜面を両手に
タンクを持って車まで運ぶ。腕がパンパンになるという。運び出す時期が決まっているの
で、天気が悪くてもやらなければならない。大雪の年など本当に大変だったという。大雪
の時にソリを使ってみたのだが、斜めに滑るばかりで使えず、結局手で運んだという。そ
の時は七・八人で四十個ものタンクを手提げで運び出した。遠い場所では二キロもの距離
を運んだという。両手にタンクを持って運ぶという重労働だ。            

 今年は採取した樹液を二月中旬までに千四百リットルを小鹿野町の戸田乳業に納める。
ポリタンクで七十個になる。三月初旬までに秩父ミューズパークにあるメープルベースに
六トンの樹液を納める。ポリタンクで三百個になる。余った分は冷凍庫に保管しておく。
 戸田乳業ではメープルサイダー等を樹液から作るほか、キハダの抽出液を生かした森の
サイダー(きはだのにがみ)を製造して販売している。               
 メープルベースはカナダから輸入したエバポレーターという機械を使ってカエデの樹液
を煮詰め、カエデシロップを作っている。そのシロップを販売・菓子製造・料理利用など
で活用し、人気になっている。メープルベースのにぎわいはすごく、カエデシロップが自
然派の人々に定着し注目されている素材だという事はひしひしと感じているという。しか
し、材料確保や作業の人手に限界があり、歯がゆい思いもあるようだ。        

イタヤカエデとサワグルミのシロップを味見して甘さに驚く。 メープルサイダーとキハダを使った森のサイダーをお土産に頂く。

 今後の課題は後継者を育てること。カエデだけでなく山の再生を目指し、利用できる林
産資源を開発すること。そして出口戦略としての商品販路拡大だ。良い商品を作り、必要
としてくれる人たちへ適切に届ける。林業を商売として成り立つように出来ればいいと保
夫さんは言う。「これだけでは仕事として合わないからねぇ…」理事などの高齢化が進む
ことは間違いない。今の最高齢は七十八歳とのこと、深刻な問題が壁になっている。採算
ではなく、自分達で山を集約化し、再生を目指したい。組合では賛助会員を募集しており
、興味ある人の参加を求めている。                        
 保夫さんが目指している山の再生は簡単な事ではない。山の恵みを集約管理し、新しい
商品を世に出し、山の再生に活かす。言うのは簡単だがやるのは難しい。情報発信の大切
さはよくわかっているが具体的な方法はまだ開発されているとは言えない。      

 お土産にいただいたメープルサイダーとキハダを使った森のサイダーを自宅に帰って飲
んでみた。メープルサイダーはカエデ樹液の香りが際立つ甘くおいしいサイダーだった。
シュワシュワと鼻に抜ける特有の香りがいい。森のサイダーは口に含んだときのほんのり
した苦みが新感覚だった。体にいいだろうなと思わせるサイダーで、夏に真骨頂を発揮す
るだろう味だった。どちらも森の恵みから出来た味で、秩父の味といっていい。