山里の記憶230


ひとぎ待ち:新井みとしさん



2018. 12. 17


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 十二月十七日、小鹿野町・両神の滝前にひとぎ待ちの取材に行った。取材したのは新井
みとしさん(七十七歳)と耕地のみなさんだった。                 
 ひとぎ待ちとは毎年この日に行われているおぶすな様のお日待ちで、耕地の人達があつ
まり、ひとぎを作って尾根のおぶすな様に供え、直会(なおらい)をするというもの。お
ぶすな様は天王様、お稲荷様、お天狗様など八柱の神様が祀られている。耕地六軒、八人
の参加者で行われるお日待ちを取材した。                     
 約束の時間にお祭りの宿となっている黒沢敬作さんの家に伺うと、山中正彦さんがおぶ
すな様用の注連縄を綯っていた。「本当は左縄にするんだけど、今回は右縄でやらせても
らうべえと思って」と言いながら縄を綯い始めた。「神様のもんだから唾もつけちゃあい
けねぇんだぃね」とのこと。おぶすな様の注連縄は八メートルほどの長さになる。   

 ひとぎとは「しとぎ・粢」のこと。秩父の奥にはかつてこのしとぎを作る風習が数多く
あった。多くの場所ではいつのまにか消えてしまったが、ここ滝前では昔ながらの形で残
っている。ひとぎは米粉をお湯でこねて作る。神様に供えるひとぎは水でこねる。   
 ひとぎ宿は毎年黒沢マサ子さんの家が担当しており、みんなが集まると作業が始まる。
熱湯で三キロの米粉をこねるマサ子さん。こねた米粉を蒲鉾形に整形するみとしさん。米
粉を水でこね、神様に供えるひとぎを作る山中茂美さん。他の参加者はそれを手伝う。 
 マサ子さんが熱湯でこねるのを見て「熱くないですか?」と聞くと「慣れてくると手も
熱かぁねえやぃ…」と笑う。みとしさんがこねて作った蒲鉾型のひとぎは七個になった。
 出来上がった蒲鉾形のひとぎは包丁でスライスしてみんなで分ける。七軒に十五個ずつ
のひとぎが分けられ、ビニール袋に入れられた。これは各自が家に持ち帰る。     
 神様用は一キロの米粉を使って作られる。直径四センチ厚さ一センチくらいに丸く作っ
てお盆に乗せられた。手慣れた作業でひとぎは出来上がり、全員で身支度して山に行く。

お日待ち宿に集まった参加者。これからひとぎ作りが始まる。 自宅用の蒲鉾形ひとぎ。これを薄切りにして均等に分ける。

 秩父の奥でお祭りにしとぎ(粢)を作る風習については、飯塚 好著「秩父山間の歴史
民俗」という本に詳しく書いてあるのでいくつか抜粋してみる。両神の事例は八つある。
 事例一、滝前地区の広河原・市場・中尾の人たちが市場にある熊野神社の祭り十月十七
日(以前は十二月十七日だった)に行い、宿の家で蒲鉾形のしとぎを作る。米の他。粟と
か蕎麦とか大豆のしとぎを作った。男は酒を飲み、女衆がしとぎを食べたという。   
 事例二、滝前地区の譲沢・穴倉・中尾の人たちが譲沢にあるおぶすな様の祭りを十二月
十七日に行う。宿の家で米粉を湯でこねて蒲鉾形のしとぎを作り一センチの厚さに切った
ものをオグフとして持ち帰り、神棚に供えた。米粉を水でこねたしとぎをおぶすな様に供
え、余ったものは持ち帰って井戸神に供えた。(今回の取材はこの例のもの)     
 事例三、煤川地区の神明神社(おぶさな様ともいう)のお祭りが十二月十七日で、しと
ぎ待ちとかしとぎ祭りといった。しとぎは米の他、粟・稗・大豆などで作った。神様に供
えるほか子供たちにも配った。                          
 事例四、大谷地区の遠東で八幡様を祀り、十二月十五日にしとぎ祭りがあった。米と大
豆で作り丸くして重ねる。上が大豆で下が米になっている。             
 事例五、日向大谷地区では、お諏訪様の祭りを旧八月二十三日に行う。米と大豆のしと
ぎを作り丸くして重ねた。上が大豆で下が米のしとぎだった。            
 事例六、小倉という集落ではお諏訪様のお祭りを十一月十二日に行う。お諏訪様のこと
はうぶすな様という。しとぎは饅頭くらいの大きさで米と大豆で作る。ここでは米を上に
大豆を下に重ねる。細かく切っておまつりに来た人に配った。            
 事例七、出原地区ではお諏訪様のお祭りを二月二十五日に行う。このお祭りは弓矢で占
うお天気占い神事が有名だ。しとぎは米と大豆で作り、上が米、下を大豆にして重ねる。
包丁でさいの目に切り、お祭りに来た人に配る。                  
 事例八、大神楽という集落ではお諏訪様のお祭りを四月三日に行い、米と大豆のしとぎ
を作る。上が米、下を大豆にして重ねる。                     

 両神の事例以外にも大滝や小鹿野・吉田の事例など、いずれも奥の耕地に伝わるお祭り
としとぎの関係が興味深い。ただ、これはかなり昔の資料であり、現在これらの耕地で続
いているかは定かでない。事例三の煤川耕地のしとぎは今年から作らなくなった。代わり
に買ってきたおせんべいで代用しているとのこと。時代と共に消えて行くものかもしれな
い。また、十二月十七日は一年最後の山の神の日であり、山仕事に関わる人の多い耕地な
らではのお祭りと神饌なのかもしれない。                     

 おぶすな様は尾根の上にある。男衆が先に登り注連縄を張り、掃除していた。女衆が丸
いひとぎをお盆に入れておぶすな様に運ぶ。                    
 茂美さんがヤブツバキの葉を採って集める。マサ子さんが作っておいた赤飯とひとぎを
ツバキの葉に乗せて八柱の神様それぞれにに供える。明るい日射しの中で静かな祈りの時
間が過ぎて行く。順番に全員で二礼二拍手一礼の参拝。静かな山の中で静かなおぶすな様
への参拝が続く。おぶすな様への参拝の後に、薬師様に参拝する。お堂の扉を開け、ひと
ぎと赤飯をお供えして全員が順番に参拝した。                   
 予想に反して暖かい日だったのでみんなが「暖かい日で良かったねえ」と口々に言う。
木々の間から真っ青な空が見える。暖かい日射しが差し込み、木漏れ日の中での静かな参
拝が終わった。昔この地にいた耕地の人達の話が話題になる。色々な話が出るが、部外者
には何のことやらわからない。                          

おぶすな様用の丸いひとぎ。ツバキの葉を敷いて供える。 山の中の静かな参拝。先祖から続く素朴な信仰。

 参拝の間にみとしさんにいろいろ話を聞いた。みとしさんが嫁に来たときから毎年ひと
ぎを作って来た。当時は各家でひとぎを作っていた。みとしさんの家には製粉機があり、
米を粉に製粉して作っていた。                          
 黒沢マサ子さんの家では石臼でトウモロコシを粉にしてひとぎを作ったこともあったそ
うだ。豆を入れて作った事もある。昔は様々な種類のひとぎがあった事を知った。   
 作ったひとぎはお祭りに集まった子供たちに配った。昔は子供がいっぱいいて、どこの
お祭りにもたくさん集まった。もらったひとぎは家に持ち帰り、茹でたり焼いたり、すい
とんにしたりして食べたものだった。                       

 みとしさんは昭和三十八年、二十一歳の時に上吉田の小川耕地から嫁に来た。ご主人の
通之さんは六つ上の人だった。昔は道路がなく、下の道から鉄索で荷物を上げたものだっ
た。下の道から百メートルほど高い場所にある家だから大変だったという。昭和五十年に
やっと道が出来て楽になったと笑う。                       
 若い頃は養蚕をやったり、コンニャク作りをやった。急な山を往復する大変な仕事ばか
りだった。今は花木栽培農家をやっていて、息子夫婦と孫が一緒に住んでいる。冬の間も
温室の栽培物があるから忙しいのだという。                    

直会(なおらい)の豪華な料理。私も参加者の一人になった。 地域のコミュケーションを取るのに欠かせないお日待ち。

 お祭りの宿であるマサ子さんの家に戻って直会(なおらい)となった。豪華なごちそう
が並び、お酒やジュースを飲みながら食事になった。すごいごちそうに「毎年これだから
ねえ」「マサ子さんは料理上手だから」などと和気あいあいで話が弾んだ。      
 一同が勢揃いしてマサ子さんから「それじゃあ始めましょうか」と声がかかり直会がは
じまった。毎年こんなごちそうが並ぶのだそうで、驚いてしまった。         
「近所の話が多いよね」「何軒もねえからみんな仲間だかんねぇ…」「ひっつるばっちゃ
あいるからねえ」「巡り巡ってみんな親戚だかんねぇ…」口々に明るい言葉が飛び出す。
 男衆の一人、山中栄さんがしみじみと言う「みんながいい人で、俺は脳梗塞の入院後で
一人暮らしなんだけど食べ物も届けてくれるし、本当にここに住んでて良かったと思うん
よ。ありがたい事だいねぇ…」みんなが四方山話に興じ話が途切れない。       

 午後二時になったら急に暗くなった。マサ子さんの家はこの時期二時に日が陰る。そん
な話をしていたら、聞いていた栄さんが「おれん家なんか朝七時半から九時半しか日が当
たんねぇよ」という。茂美さんの家もそうだという。奥山の生活が厳しい事がその話だけ
で伝わってくる。冬の厳しい生活の中でひとぎ待ちがひとときの楽しさと安らぎを与えて
くれるのだと知った。「忘年会みたいなもんだかんね…」と笑う声が明るく響いた。  
 直会は続いていたが取材を終わらせ、十五個のひとぎをお土産に頂き帰路に着いた。奥
山の静かなお日待ちは、先祖から続く素朴な信仰によるものだった。