山里の記憶224


ぶどう栽培:守屋幸彦さん



2018. 08. 16


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 八月十六日、小鹿野町両神の守屋ぶどう園にぶどう栽培の取材に行った。取材したのは
守屋幸彦さん(八十歳)で、苦労の多いぶどう栽培の話をいろいろ詳しく聞いた。   
 幸彦さんは四十年以上ぶどう園を経営しているぶどう栽培のプロだ。「今はどんどん新
しい品種が出てくるけど、うちは古いのが多いねえ…」とマイペースだ。道の駅などへの
出荷はしておらず、直接販売と予約注文ですべてが完売するという。長い間の実績と味の
確かさが自信の言葉になっている。                        

 居間で冷たいお茶を頂きながら栽培の話を聞いた。守屋ぶどう園は昭和四十七年から始
めた。その三年後に東京の印刷会社で働いていた幸彦さんが実家に戻り、ぶどう栽培をす
るようになった。幸彦さんが三十六歳の時だった。幸彦さんはすぐに四反歩の畑にぶどう
棚を張った。キャンベル、ベリーAなど昔ながらの品種を植えた。          
 ぶどうは五年で成りはじめ、十年経つと味が安定する。木によっても味が違い、見極め
るのは難しい。毎年どんどん新しい品種が出るので追いかけるが大変だ。秩父農林振興セ
ンターの指導で栽培をしているので問題が出ると相談して解決している。振興センターの
担当からは巨峰やピオーネはもう古い品種だと言われるのだが、古い品種を続ける良さも
あるので、幸彦さんは昔ながらのやり方を続けている。               
 四十年以上市場に出さなくてもやっていられる訳はリピーターの存在だ。「市場に出さ
なくてもここに買いに来てくれる人と予約注文分だけで終わるからねえ…ありがたい事だ
ぃねぇ…」という。注文の人は味を覚えていて、品種を指定してくる人が多い。昔ながら
の品種を止められないのもそんな理由がある。                   

作業場の応接でぶどう栽培について話してくれた幸彦さん。 土間では奥さんの安子さんと娘さんがぶどうの検品をしていた。

 今は秩父ルビーなど新しい品種を振興センターが中心になって育てているが、幸彦さん
は参加していない。最初十四軒でスタートした両神のぶどう生産だが、今は三軒だけにな
ってしまった。高齢化が進み、後継者がいなければ自然にそうなる。昔のままの品種で昔
のやり方でやってるけど、その方がいいことだってあるのさと笑う。         
「続ける事は大変だけど、好きだからやってるんだなあって思うよ…」という言葉が一番
印象的だった。今はリピーターのお客様を満足させるのがやりがいだという。     

 ぶどう栽培の年間作業について聞いた。収穫後木を少し休ませて十一月末から剪定作業
に入る。剪定は翌年の実成りを決める重要な作業だ。木によって切る量が変わる。芽が出
る点七つを残して先を切る。基本は一枝一房にしないと駄目だ。そして大粒のぶどうは一
枝十葉が基準になる。そんな事を確認しながらの剪定作業は寒風の中での仕事だ。   
 二月迄の冬期は肥料を散布する作業を行う。今は牛糞堆肥が中心で化学肥料は施肥して
いない。ぶどうの木一本にスコップ五十杯くらいの堆肥を施肥する。畑全体では二トン車
二台分の牛糞を撒くことになる。                         

 四月に芽が出る前(休眠期)に、石灰硫黄合剤を噴霧器で撒布する。最初の消毒作業に
なる。芽が出ると本格的な消毒作業が始まる。振興センターの指導通りの消毒は六月まで
に五回を数える。消毒はぶどう栽培には欠かせない重要な作業だ。          
 ぶどうの新芽は二葉出る。その一葉を欠き一葉だけにする作業もこの時期に欠かせない
作業だ。葉が五・六枚出て花が咲く前にストマイを撒布するのも重要な作業。     
 花が咲くと、花穂整形という大事な作業がある。花穂の下五センチくらいを残して他を
除去する作業だ。三十五粒の房を作るための作業で、神経を使う作業が続く。一万以上も
ある花穂全部を手作業で処理する。                        

 梅雨の時期を前に、畑をビニールシートで覆う。シート張りは大変な重労働なので子供
たちや助っ人に手伝ってもらい、全員で行う。消毒の薬剤が雨に流れないようにするため
で、雨の日でも作業出来るので時期を逃すことなく消毒作業ができる。        
 花の後にはぶどうの房が出来る。ジベレリンという薬剤に浸けて種無しぶどうにする。
ジベレリンは無色なので食紅を入れて色を付け房を浸す。房に色が付くので作業漏れをな
くす工夫だ。薬剤を入れるコップは大小あって、休む時に枝に引っ掛けるリングもついて
いる。ジベレリン浸け作業は天気に関係なくやらなければならない。         

 六月下旬から摘粒が始まる。豆粒くらいの時期に三十五粒を目安に混み合った部分や傷
んだ粒、曲がった粒などを除去して整形する。この作業が一番大変だと幸彦さんは言う。
幸彦さんの身長は百七十三センチある。ぶどう棚はあごくらいの高さに張ってあるので中
腰での作業が強いられる。一日中この作業をしているのだから腰がおかしくなる。   
 七月から袋かけが始まる。これは誰でも出来るので助っ人に協力してもらってやる。最
近は様々な袋が開発されているが、幸彦さんは普通の白い袋を使っている。大粒のぶどう
にはのぞき窓付きの袋をかける。最近は大粒ぶどうに笠をかける人もいるが、幸彦さんは
やっていない。ぶどうは雨に当たると実割れするので袋かけは欠かせない作業だ。   

乗用草刈り機「まさお」に乗って運転して見せてくれた。 収穫作業の安子さん。ぶどうの出来上がりを一つ一つ確認する。

 七月から八月は畑の除草が佳境に入る。「草刈機まさお」という乗用草刈り機が大活躍
する。手押しの芝刈り機も使っていたが、乗用草刈り機を使うようになって大分楽になっ
た。一度消毒用のホースが草に隠れていたのを巻き込んで大変な事になった事がある。畑
に道具類を放置すると思わぬ事故になることがあるので気を使う。          
 八月中旬からはいよいよ早生品種の出荷が始まる。守屋ぶどう園で一番早いのはヒムロ
ットという緑色で種無しの品種だ。ちょうど今が最盛期になる。今年は一週間くらい芽が
出るのが早かったので収穫も早い。猛暑の影響か、高温障害が少し出ているが、糖度の高
いものが多く、甘く良いぶどうになっている。                   

 ヒムロット以下、次のように出荷が続く。キャンベル→巨峰→紅伊豆(赤い大玉)→レ
ッドクイーン→藤稔(ふじみのる:ピンポン球大の黒い大粒)→巨峰(飯塚系・東部系・
高墨)→ピオーネ→信濃スマイル。信濃スマイルは通常十月初めが出荷だ。「スマイルで
終わり良ければ全て良しってことで信濃スマイルを最後にしてるんだぃね…」という。 
 藤稔は人気の大粒だが雨に弱い。雨に当たると割れてしまうので屋根のビニールシート
はもちろん、地面にもシートを敷き、雨が浸み込まないようにする。この作業も大変だ。
 ぶどうの仕上がり具合は袋の窓から覗いて確認する。巨峰は糖度二十度を超えるものか
ら出荷する。全て直売で、注文発送は四百を越える年もある。            

 害獣・害虫について聞いた。ぶどうが完熟する頃になるとスズメバチがやってくる。ぶ
どうに夢中なので人が刺されることはないが怖い。ハチも高級品に集まるのは面白い。 
 鳥ではヒヨドリとカラスが来る。ヒヨドリは房をきれいに食べるのでまあいいが、カラ
スはあちこち食い散らかすので困る。昔、カラスの害でぶどう畑を止めたこともあった。
 このぶどう園ではハクビシンは見た事がない。タヌキはたまに出るようだ。鹿が中に入
ることもないし、猿もいない。害獣対策としては周囲に編を張っているが、比較的恵まれ
ている場所だと思うとのこと。山際の畑などは害獣対策で神経を使っているようだ。  

大玉ぶどうの出来上がりを確認する幸彦さん。 発送の箱詰めをしている安子さん。全部で四百以上になるという。

 居間で栽培の話を聞いた後、ぶどう園の中を見せてもらった。幸彦さんが「草刈機まさ
お」を運転して見せてくれた。九州産の働き者だと笑っている。ちょうど出荷が始まった
ところで、奥さんの安子さん(七十七歳)が大忙しだった。             
 ぶどう栽培は手間がかかるのは知っていたが、実際にぶどう園に入って、低いぶどう棚
の下を歩くとその大変さが良くわかる。幸彦さんは長身だから、余計大変だ。腰が痛くな
る毎日だという。私が思わず「あと十センチ棚を高く出来なかったんですかねえ?」と聞
くと「まあ、こんなもんだから」とたしなめられた。                

 幸彦さんは東京の印刷会社からのUターンでぶどう栽培をするようになった。二百五十
年続いた家を守り、引き継いでいる。平成三年から三期、十五年まで村議会議員を奉職し
た。脳梗塞を起こしたがリハビリで復活し、ぶどう園の経営を続けている。夫唱婦随の奥
さんの力が大きい。美人ではきはきした性格の安子さんが収穫や選別・梱包・出荷作業を
こなしている。子供が三人いて忙しい時に手伝ってくれるのがありがたい。好きだからや
っていられるという幸彦さんの言葉があったが、家族にも恵まれている人だと思った。