山里の記憶221


布ぞうり:新井武男さん



2018. 07. 06


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 七月六日、秩父の上吉田・石間(いさま)に新井武男さん(九十三歳)を訪ねて、布ぞ
うり作りを取材した。自宅に伺ってお茶を飲みながら四方山話をし、ひと休みしてさっそ
く取材に入る。聞けば、武男さんは毎日布ぞうりを作っているとのこと。       
 武男さんがぞうりを作り始めたのは二十歳の頃だった。「今九十三だから、もう七十年
もやってらいねぇ…」と笑う。でも、ずっと作り続けていた訳ではなく、若いときは生活
の為の藁ぞうりを作り、最近は布ぞうりを作ってみんなに配っている。        

 芯にするのは梱包用の太いビニールヒモ。長さは二尋(約百八十センチ)で、両足の親
指にかけて輪を作り端を手前に引いて左手で四本のヒモを固定しながら右手で細い布を編
み込む。材料の布は姪っ子が小鹿野の加藤縫製で裁断した余り布を持って来てくれるのを
細く裂いて使っている。青と黄色の夏らしい配色の布だった。            
 武男さんの動きは慣れているのでじつに速い。特に作り方を解説してくれる訳でもなく
慣れた手順通りに作業が進む。手の動きが滑らかで、その動きに見入ってしまう。その動
きは熟練の手さばきで見ていて飽きることがない。ひとつ作るのに四十分くらいだという
ので、その速さに驚いたが、見ているとそれも納得する。              

慣れた手つきで布ぞうりを編み始めた武男さん。動きが速い。 外はしとしと雨が降っている。雨の日は静かでいいねえとつぶやく。

 作業を進めている武男さんに色々な話を聞いた。話は生まれて育ったここ石間について
の話が多かった。石間という地区は昔から何かと話題になる場所だった。       
 古くは平将門が城峰山に陣を構えた時、尾根伝いに南に下った石間の入り口付近の半根
古(はんねっこ)に見張り砦を築いたという話が残っている。この話は武男さんも聞いた
ことがあるという。                               
 そして龍勢(りゅうせい)の話になった。江戸時代信州から渡ってきた六部(法華経を
六十六回書写して一部ずつを六十六箇所の霊場に納めて歩いた巡礼者。江戸時代には仏像
を入れた厨子を背負って鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者)が石間戸(いさまど)に
長く滞在したことがあった。その時に武男さんの先祖が六部から「こういうものを作って
みたらどうだ…」ということで教わったのが始まりだという。            
「先祖に物好きで遊んでいるようなもんがいたんで、教わってきて始めたらしいやいねえ
…」とのこと。真面目に働くのが信条の武男さんにとっては遊び人の所業と映るらしい。

 今は椋神社の龍勢が盛んで、秩父観光の目玉にもなっているが、昔はあちこちで行われ
ていた。ここ石間でもお天狗様の秋祭りに二日間龍勢を上げた。その龍勢は大きくて直径
が尺くらいあった。龍勢の矢柄は竹ではなくて寄せ木で作った長くて立派なものだったと
いう。今でもその龍勢の筒がお天狗様の鳥居にかけられて残されている。ちなみに今、椋
神社の龍勢は直径が三寸くらいだという。                     
「龍勢は石間が大本(おおもと)だぃねえ…」と胸を張る。新井家ではおじいさんが棟梁
で龍勢を上げていたが、お父さんの代にさびれてやらなくなった。武男さんは「ただ参加
するだけだったねぇ…」と淡々としたものだ。                   

 奥さんの朝子さんが押入から派手な法被を出してきた。なんと七十年前に龍勢を上げた
時に沢口耕地お揃いで作った法被だそうな。その法被を七十年ぶりに武男さんに着てもら
った。「七十年ぶりだぃねぇ、何だか恥ずかしいようだぃ」と照れる武男さん。写真には
ピンクの法被を着てはにかむ武男さんが写った。七十年前と言えば二十三歳の時のこと。
その法被がすぐに出てくる事にも驚かされた。                   
 江戸時代に龍勢の火薬を作るのは大変だった。古い家の床下から土を採集し、そこから
硝石を取り出す。硝石と硫黄と黒炭を混ぜて作る技術は門外不出だったという。石間には
硝石を取り出す名人がいたが、あまりに有名になってしまい、最後は役人から禁止された
という話が残っている。                             

七十年前の法被を着る武男さん。耕地のみんなでこれを着て龍勢を上げた。 朝子さんが作った薬草茶を飲んでひと休み。手まりも朝子さん作だ。

 明治時代には明治政府を揺るがせた秩父事件が起きたが、ここ石間から始まったと言っ
てもいい。加藤織平・落合寅市・高岸善吉・坂本宗作などそうそうたるメンバーが石間か
ら出ている。武男さんのひいおじいさんが鉄砲隊長だったらしいと言っていた。    
 石間の顔役だった加藤織平に関しては逸話がある。お天狗様の社が山の上にあり、その
階段を村中(当時、石間は石間村だった)で積んで補修していたところ、加藤織平が来て
「この不景気になんでそんな事をやってるんだ、他にやることがあるだろう」と言ったと
いう話だ。信仰よりも経済が優先する時代になってきたということだったのだろうか。 
 ちなみに武男さんの家の庭にある立派な枝垂れ桜は五十年前に加藤織平の家からもらっ
たものだとのこと。五十年育って屋根のように枝を広げる立派な枝垂れ桜だ。     

 ぞうりは半分まで編み込まれた。ここから鼻緒を作る工程に入る。鼻緒作りは二本のビ
ニール芯に布を巻きつける事から始まる。二本のヒモに布を巻き終え、足の指にはさみ縄
のように綯(な)う。両手の動きがしなやかで美しい。縄を綯う名人でなければ出来ない
技だ。綯った鼻緒の両端をぞうりに編み込めば鼻緒が出来上がる。鼻緒はぞうりの履き心
地に大きく影響を与えるので、その長さは慎重に決める。二つ目を作る時にまったく同じ
形にしないと履き心地が悪いので揃えて作ることが肝心だ。             
 鼻緒がついたらずんずんとかかとに向かって編み進める。武男さんの右手が自在に布を
操り、見ていて楽しい。左手は力強く芯のヒモを支え、編み込んだ布を締め込む。一連の
動きが流れるように作業が進む。                         

 横で妻の朝子さんがじっとその様子を見ている。外はしとしと雨が降っている。居間の
ガラス戸は開けられて外の緑がまぶしく見える。時折うんうんと力を込める武男さんの息
遣いのほかは何の音もしない。静かな静かな時間が過ぎて行く。           
 朝子さんが「お父さん、のど湿ししちゃどうですか? 」と声をかける。武男さんは手
を動かしながら「ああ…」と答え、やっと顔を上げた。朝子さんが入れた冷たいお茶を頂
く。「これはね、私が作った薬草茶なんですよ」とのこと。             
 ドクダミ、オオバコ、クワの葉、タンポポの葉などを乾燥させ、揉んで細かくしてお茶
にしたものだという。好みで砂糖を入れたり塩を入れたりする人がいるが、朝子さんは砂
糖を入れるらしい。そのせいか、少し甘いお茶だった。               
「雨の日は静かでいいやねえ…」と武男さん。お茶を飲んでタバコを一服してくつろぐ。
老夫婦の一日を垣間見るような時間だった。こうして淡々と一日が過ぎて行くのも何だか
いいなあと思った。                               

 鼻緒のついた二つのぞうりが並んだ。これから緒通しを使った鼻緒をすげる作業に入る
のだが、この作業を文章で表現するのは難しい。鼻緒をすげるというのは最後の重要なポ
イントで、ここで失敗すると履物ではなくなってしまう。              
 鼻緒と違う色の布を二本、こよりの要領で細くし、縄のように綯う。緒通しを使って裏
から表に端の二本を通す。輪の部分に芯のビニールヒモを折り返して通し、強く表側に引
くと芯のヒモが固定される。                           
 表に出た二本のヒモを二センチほど綯い、鼻緒の先端を巻く。そして更に縄のように綯
ってから今度は裏側へ緒通しを使って抜く。抜いた二本のヒモで芯のビニールヒモを固結
びで止める。最後に芯のヒモと結んだヒモの端を切って揃えれば出来上がりだ。    
 無口な武男さんの手の動きだけを目で追っていた。無骨だがしなやかな動きの手が美し
い。体に比べて大きな手だった。その手の大きさで健康な体とわかる。この手が四人の子
供を育て上げた。山間の農家で農業だけで子供四人を育てるのは大変な事だったと思う。
寝る間も惜しんで働いた結果がこのたくましい両手になった。働きもんの手が黙々とぞう
りを編んでいた。                                

緒通しを使って鼻緒をすげる武男さん。最後の仕上げは真剣だ。 出来上がった布ぞうりを眺める。充実した顔がそこにある。

 出来上がった布ぞうりを両手に持った武男さんの写真を撮った。聞けば布ぞうりは売り
物ではないという。「作っちゃあ誰にでもくれてやるんだぃね」朝子さんは「夜中の十一
時くらいまで作ってるんだぃねぇ、好きなんだぃね」と二人で笑う。         
 石間の昔話を聞きながら布ぞうりが出来上がるまでじっくりと見させてもらった。雨降
りの日は静かでいいねえという武男さんの言葉がしみ込むようだった。        
 庭の枝垂れ桜とイロハモミジの緑が鮮やかで、目にまぶしいようだった。聞けばどちら
も五十年経っている木だとのこと。「俺が四十の時に植えた木だぃね…」九十三年間この
家で暮らして来た歴史が言葉ににじみ出ていた。