山里の記憶219


冷や汁すいとん:太田松子さん



2018. 06. 07


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 六月七日、秩父の滝の上町に冷や汁すいとんの取材に行った。取材したのは太田松子さ
ん(九十六歳)で、娘の日出子さんが一緒に対応してくれた。松子さんは一人で暮らして
いたが、この三月に転んで背中を痛めたという事で、京都に住んでいる日出子さんが今は
臨時に付き添いを兼ねて一緒に住んでいる。少々耳が遠いが、「ひとり暮らしが安気(あ
んき)でいい…」と言っている元気なおばあちゃんだ。               

 お茶を頂きながら昔の写真を見る。昭和初期の若い松子さんが華やかな銘仙の着物を着
て笑顔で写っている写真がたくさんあった。「娘時代だよね、十七くらいかねえ…」と写
真を見ながら松子さんが笑顔になる。松子さんは大正十一年の五月に黒谷・原谷地区の若
林家に生まれた。二男六女の兄弟姉妹がいる。若林家は女系家族だった。大きな農家で食
べ物には不自由なく育った。                           
 昭和十年三月、原谷尋常高等小学校を卒業した。なんと、その時の卒業アルバムが残さ
れていた。着物姿の松子さんが写っている。学校を出てしばらくして、おばさんの家に奉
公に出た。おばさんは大きな機屋をやっていた。結婚までの娘時代の写真は機屋で働く女
工さんたちと一緒に花見に行った写真やワンピース姿の珍しい写真など、幸せそうな松子
さんがいっぱい写っていた。                           

銘仙の着物を着て友だちと写真を撮る。右端が松子さん。 夫の友次郎さん。召集され中支に出征していたころの写真。

 昔話が一段落したので取材の話に戻った。当初は冷や汁うどんの取材の予定だったのだ
が、松子さんの調子が悪く「とてもうどんをこねて作ることは出来そうもないけど、すい
とんなら簡単だから…」という事で、急遽冷や汁すいとんに取材が変わった。     
 通常、すいとんは鍋で煮込んで作るのだが、冷や汁の場合は、煮たすいとんを一時冷ま
して別に作った冷や汁に浸けて食べるというもの。日出子さんの助けも借りながら、松子
さんがすいとんを作りはじめた。割烹着姿で台所に立つと背筋が伸びるのがすばらしい。

 地粉をボウルにあけ、水を加えて練る。うどんと違い塩は入れない。固さが微妙だ。ス
プーンですくえるくらいの柔らかさにまで練る。コンロには鍋が置かれ湯が沸いてきた。
「しゃじ(すぷーん)ですくって入れるんだぃね…」と大きなスプーンでボウルの生地を
すくって鍋にどんどん入れる。鍋のお湯に入った生地は沈む。上から上からどんどん重な
る生地。松子さんは手早くかき回しながらボウルの生地を全部鍋に投入した。     
「浮き上がれば出来上がりだぃ…」菜箸で様子を見ながらかき回す。         

 別の鍋に水を張って横に置く。しばらくしてお湯に浮き上がったすいとんをその鍋に移
す。これは茹で上がったうどんを水に晒して洗うのと同じ要領だと気づいた。新しい発見
だった。次々に浮かび上がるすいとんを水の鍋に移し終わると作業は一段落した。   
 すぐに冷や汁作りに入る松子さん。冷や汁の材料は小ネギ・キュウリ・ミョウガ・大葉
・大量のすりごま・味噌・昆布だし。包丁を使うのは危ないからと娘の日出子さんが野菜
を刻んでくれた。キュウリは小口切りしたものに塩を振り、揉んで絞る。小ネギは小口切
り、ミョウガと大葉はみじん切りにする。                     
 ボウルに大量のすりごまを入れ、味噌と昆布だしを混ぜ、刻んだ野菜を全部入れる。冷
たい水を加えて溶かし合わせれば冷や汁の出来上がりだ。味噌のいい香りが立つ。   

「ちょうどお昼だし、みんなで頂きましょうかね…」と松子さん。鍋のすいとんをお皿に
移し、そこに庭から採って来た緑のモミジを飾る日出子さん。「緑があると涼しそうなん
で」と微笑む。さすがに京都の人、センスがいい。                 
 暑かったので出来上がった冷や汁がじつに旨そうだった。冷や汁をお椀によそい、すい
とんを二個ほど中に入れて食べる。もっちりとしたすいとんにキュウリや小ネギの食感が
加わり、味噌と昆布だしが包み込むという夏の味。大葉の香りもいい。すいとんをこうし
て食べたのは初めてだが、じつに旨いものだった。                 

 すいとんを食べながら松子さんに昔の話を聞く。松子さんが結婚したのは昭和二十二年
の二月、松子さん二十四歳の時だった。お相手は何と、松子さんが奉公に出ていた機屋経
営者の弟、太田友次郎さん。「おばさんにくっつけられちゃったんだぃ…」と言う松子さ
ん。この結婚を機に華やかだった娘時代から暮らしが少しずつ変わっていった。    
 義兄となった機屋経営者は強い人だった。おばさんのご主人として接していたのが、今
度は兄として接するようになり、更に身内として強い要求をされるようになった。   

銘仙会館にて、昔使っていた機械を懐かしむ松子さん。 懐かしい機械に触れて昔を思い出している。

 松子さんはご主人と機屋をやるようになった。従業員を五・六人使う、兄の工場の下請
け工場だった。糸を染めたり、布を織ったりとても忙しかったが仕事は大変だった。「苦
労の連続だった」と昔の話を聞かせてくれた。                   
「うちの人は富山の人間でこっちの人じゃなかったんで人間関係が難しかったんだぃね」
とつぶやく。兄に利用されているという思いもあったのだが、どうしようもなかった。結
婚後の写真が少ないのは仕事・仕事の連続だったからなのか、苦労した多くを語ろうとし
ない松子さんの替わりに、日出子さんが父や母の姿を話してくれた。         
「父はいい人だったけど……、外面はいいんだけど、母には厳しかったんです…」松子さ
んの居場所はどんどん狭くなっていたようだ。仕事、仕事の毎日で、日出子さんは母親で
はなくて機屋の織り子さんに育てられたようなものだと笑う。            

 昭和初期が最盛期だった機屋は戦後徐々に斜陽産業となっていった。松子さんが工場を
始めた頃はすでに下り坂になっていた。兄の工場は最盛期で五十人くらい人を使う大きな
工場だったが、時代の波には勝てなかった。友次郎さんと松子さんの工場は昭和四十年に
廃業することになった。                             
 激変する暮らしの中で二人の子を育てるのは大変だった。松子さんは毎日の畑仕事のか
たわら、座蒲団縫いやカーテン縫い、編み物、仕立てなどの内職をしていた。子供の着物
も全部手作りしていた。日出子さんは当時を思い出して言う「新しいセーターや着物を着
てる子が羨ましかったんですよ、うちは全部作りもんだったし、セーターは編み直しだっ
たし…」父は土方仕事の日雇いなどをして働いた。最後は泉屋で配達などの仕事をした。

 畑は約二百五十坪、家から三百メートルくらい離れた場所にあった。野菜はなんでも作
った。大豆は豆腐屋さんが引き取ってくれた。ニワトリを飼って卵を採った。卵を買って
くれる人がいてわずかでもお金になったのが嬉しかった。日出子さんは二つ黄味の入って
いる卵を兄と取り合った事を懐かしく覚えている。                 
 呉汁はよく作った。うどんもこねたし、すいとんもよく作った。野菜の煮物が一番多か
った。当時としては珍しいジャガイモコロッケをよく作ったというから、食べ物には恵ま
れていたのかもしれない。                            

「この糸繰り着はうちになったのと同じもんだ」と眺める。 冷や汁を作り終えてにっこり笑う松子さん。ご馳走様でした。

 二人の子を世に送り出し、夫婦二人の生活が始まったが貧乏は常についてまわった。自
営業だっために年金がなかった。中支に出征していた友次郎さんの軍人恩給がわずかな収
入だった。それでも派手な事はせず、地味に暮らしてきた。             
 日出子さんが京都に嫁ぎ、十年間続けて松子さんと友次郎さんを京都に招いた。その時
の事を松子さんが楽しそうに話す。サンドイッチを作って新幹線で食べた話。朝五時に西
武秩父駅まで歩いて行って電車に乗った話。京都をあちこち歩きまわった話。     
「娘が行きたい所にはどこにでも連れて行ってくれたんさぁ…」と懐かしそうに話す。足
が歩けなくなるまで京都に行っていた。楽しい思い出だ。              

 平成十三年に友次郎さんが入院し、その後亡くなった。松子さんは一人になった。もう
十七年間一人で暮らしている。九十二歳まで畑仕事をやっていたが最近はやっていない。
「今はあんまり料理はしなくなったねぇ、売ってるもんを買ってくるだけになっちゃった
かんねぇ…」「一人でいるんが気楽でいいねえ」「女の方が強いから、どこも女が残るん
だぃねぇ、苦労もするけどねぇ…」                        
 日出子さんによると松子さんは少し血圧が高いだけでどこも悪くないという。「よく食
べるんが元気の元だぃね…」と松子さん。「一人で気ままにしてるから、ディサービスが
だめなんですよ、困りますよね…」と日出子さん。二人の対照的な言葉が出た。    
 それにしても、九十六歳で一人暮らしが出来るというのがすごい。その元気にあやかり
たいものだと思った。