山里の記憶218


昔の道具たち:荻野茂一(おぎのもいち)さん



2018. 06. 01


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 六月一日、天気晴朗。青い空に白い雲が浮かぶ最高の天気だった。秩父市下吉田、井上
耕地の荻野(おぎの)茂一(もいち)さん(九十七歳)宅を尋ね、昔の話を聞いた。茂一
さんの家は旧家で、昔は酒屋や宿屋をやっていた家だった。昔の話を聞いている中で、昔
の道具がいろいろあるよという話になり、見せてもらった。             
 驚いたのは昔の道具がきれいに保存してあったこと。瓶詰め酒屋をやっていた頃に使っ
ていたケヤキ材の銭箱。上から銭を投げ入れて、後でまとめて回収する金庫のような箱。
忙しい商家ならではの道具で、江戸時代によく使われた古いものだ。         
 炭を入れて使う瓦製の行火(あんか)。火入れに炭をいけ、上に布団をかけ、手足を入
れて暖めるもの。猫火鉢・猫炬燵、単にネコともいい、江戸時代には市中の辻に設けた番
所などでも用いてツジバンとも呼ばれた。炬燵の中に入れて使うことも多かった。   
 陶器製の湯たんぽ。部屋の壁に掛けてあった木製のラジオ。畳の上には長持ち型の桐箪
笥。陶器の酒徳利各種。陶器製の酒つぼ。酒類販売の鑑札看板。ポケットに入る小型の五
つ玉そろばんなどなど、今ではもう博物館でしか見られないものばかりだ。これらの古い
道具たちは茂一さんのおじいさん荻野惣作さんの時代に使われていたものだ。     

 おじいさんは大工の棟梁で、旧吉田小学を建築する際に棟梁として采配をふるった。そ
の時の写真が今でも残っている。家は旧家で貴布禰(きふね)神社の隣だ。今は道が出来
て別れているが当時は道がなく、神社と家が隣り合っていた。家の裏口に入るのに、神社
の境内を通って裏に回るような家だった。                     
 娘のヒロ子さんによると、家は「ばんしょう」と呼ばれていたという。番匠とは中世の
大工の呼び名で、一般的には棟梁の家という意味で使われていたようだ。家には貴布禰神
社の設計図が残されており、おじいさんは大正時代の貴布禰神社の建築に関わっていた。
 貴布禰神社の彫刻をするために彫刻師がこの家に泊まり込んで作業をしており、世話に
なったお礼にと彫った見事な唐獅子の木彫像が残っている。             

家の隣が貴布禰(きふね)神社で、おじいさんの昔から関わってきた。 神社の彫刻師が世話になったお礼にと彫ってくれた唐獅子像。

 ヒロ子さんのご主人、田中俊雄さんに案内してもらった納屋にも昔の道具類があふれて
いた。リヤカー、脱穀機、養蚕で使う板露地と呼ばれた浅い木箱、桑給(くわくれ)台、
蚕籠(かいこかご)、デーマン籠、ムシロ、石臼、押し切り、農具類の数々、草刈り鎌、
水くみの樽などなど写真を撮るのに忙しい程だった。これだけの古い民具が一箇所に残さ
れているのは驚くべき事で、茂一さんの篤農家としての一面と、きちんとした性格が伝わ
ってくる納屋の内部だった。これらをきちんと保存している田中さんもすごい。    

 少し耳の遠い茂一さんから昔の話を聞く。田中さんの通訳にも助けられ、時空を行きつ
戻りつしながら興味深い話をたくさん聞くことができた。              
 茂一さんは大正十年六月五日に日尾の黒沢家で生まれた。家は倉もある旧家で大きかっ
た。四男五女の九人兄弟の末っ子として育った。幼い頃に母親を病気で亡くしたので、姉
たちが茂一さんを育ててくれた。今でも姉たちへの感謝は忘れない。         
 倉尾尋常高等小学校が家から三百メートルくらいの場所にあり、通うのは楽だった。近
くだったこともあり、お昼は家に帰って食べた。家では馬や牛、羊などを飼っていた。 
「普通のうちじゃあ馬は飼えねぇんだいね、えさ代がかかるかんねぇ…」馬にまつわる話
はよく覚えている。「小学三年の時にゃあ、はあ馬に乗ってたんだぃね…」体の小さかっ
た茂一さんがどうやって馬に乗ったのか。「石垣の横に馬を連れてくんだぃね、石垣の上
を歩って馬の背の高さになったとこで飛び乗るんだい」小学三年生で馬に乗っていたのは
茂一さんだけだった。倉尾全体でも馬は何頭もいなかった。             
 一番上の兄とは二十歳も歳が離れていた。兄は二人いたが馬についての茂一さんの話が
続く。「兄ぃ二人とも馬にゃあ乗れなかったんだぃ…」と胸を張る。馬に乗って日尾から
下吉田まで遠出をしたという。ある時、子馬を久長の馬喰(ばくろう=馬買い)に売った
ことがあった。子馬は母馬がいないと動かないので、茂一さんが母馬に乗って久長まで運
んだ。「俺が子馬を送ってったんだぃ…」と胸を張る。               

 戦争が始まり、戦局が悪くなった頃に町で五人選ばれて防空監視の仕事をしたことがあ
る。小鹿野の稲荷山で二十四時間勤務でアメリカ軍の来襲を監視した。「十八から十九の
頃だったかねえ、選ばれてやったんだぃね…」戦局は悪くなる一方だった。      
 そんな茂一さんに召集令状が来た。二十一歳の時だった。日尾からは十七歳の新井さん
と十八歳の山中さんが一緒に出征した。「塚越まで歩いてバスで行ったんだぃね、大勢の
人が送ってくれたんだよ、バンザイ・バンザイってねえ、嫌な感じだったぃね、涙が出た
よ本当に、あん時の気持ちは忘れらんないねぇ……」                

おじいさんが棟梁で建築中の旧吉田小学校の校舎。 現役で召集された海軍時代の写真。厳しい生活で心身が鍛えられた。

 茂一さんは横須賀の海軍に現役で召集され、砲艦「宇治」に乗船し、第一分隊・連砲係
として活躍した。戦線は支那・朝鮮・香港と広範囲だった。そして三年六ヶ月に及ぶ海軍
生活はとても厳しいものだった。巡邏(憲兵)に欠礼したことで尻を何十発と叩かれたこ
とがある。毎日どんな寒い日でも海水で甲板を掃除した。それはそれは辛かったが、心身
を鍛えられたことは後々茂一さんを助けることにもなった。             
 茂一さんが大切にいている座右の言葉がある。海軍時代、古谷野仁(こやのひとし)分
隊長が唄った言葉だ。厳しい中にも兵を労るすばらしい艦長だった。         
 『踏まれても、根強く忍ぶ道草の、やがて笑う春は来るらむ』           
 『平生の、気持ち欲しさや、風呂上がり』                    
 この二つの言葉は茂一さんのその後の人生に大きな影響を与えたという。      
 上海で終戦を迎えた茂一さん、昭和二十一年二月十九日九州博多に帰国し、姫路城を見
ながら故郷を目指し、やっとの思いで帰宅した。二十四歳の時だった。        

 昭和二十四年一月十九日、茂一さん二十七歳の時、縁があり下吉田の荻野マスさんと結
婚し、荻野幸八さんの夫婦養子となった。以来荻野家の当主として父幸八を盛り立て、身
を粉にして働く日々となった。仕事は農業・養豚・養蚕と多岐に渡った。海軍で鍛えた体
は頑健で人一倍の労働に耐えることが出来た。                   
 養豚は井上耕地だけでも五・六軒の農家がやっていて生産組合があった。三十二頭の豚
を飼い、二十キロ以上に育てて出荷するというものだった。時には豚が逃げ出すような事
件もあったが、妻のマスさんと協力しながら、餌やりや糞の片付けなどを黙々と働いた。
豚舎をきれいにしないと良い豚に育たないと言って、掃除は徹底してやっていた。   

 一番力を入れたのは養蚕だった。二男一女を育てる為にも現金収入が必要だった。養蚕
は一番の現金収入への道だった。年に五回、春蚕・夏蚕・秋蚕・晩秋蚕・晩々秋蚕と休む
暇もないほどだった。家の居間、二階、裏の納屋などまぶしを置ける場所は全部蚕の部屋
になってしまった。回転まぶしも二段でやるほどで、毛蚕(けご)を九十グラムも掃き立
てたこともあった。耕耘機に荷台を付け、桑の葉を山積みにして運んだ。二階に上げるエ
レベーターも作った。茂一さんはその頃のことを思い出しながら「若いとはいえ良く働い
たねぇ、お蚕(かいこ)はえらやったんだぃ…」とつぶやいた。           

養蚕は盛んにやった。自宅二階で吊り下げた二段の回転まぶし。 納屋を案内してくれた田中さん。昔の道具がきれいに保管されている。

 養蚕の合間に小麦やこんにゃくを作り、小さいながら田んぼもやっていた。冬は山仕事
もやるので、体を休める暇もなかった。野菜作りも真剣にやっていた。白菜は品評会で優
勝したこともある。茂一さんの忙しさは八十台まで続いた。             
「ばちっこで小さかったけど、海軍で鍛えられたんで強かったんだぃ…」とにかく働く事
が生き甲斐のような人生だった。茂一さんの働きで田畑・山林が拡充され、荻野家の繁栄
が築かれてきた。                                
 酒は飲むが乱れたことはない。根が真面目な人だから地区の役員や神社の役員に推され
て務めてきた。井上耕地の大行事を務め、貴布禰神社のお祭り役員も歴任した。    
 八十五歳の時、吉田町のグランドゴルフ大会で優勝したことがある。二百人も参加した
大会で、ホールインワンを五回も出した。優勝の表彰状は茂一さんの自慢でもある。  

 九十歳で亡くなった妻のマスさんとの結婚当時の話を聞こうとしたら「はぁ、長げぇこ
ったから忘れちゃったぃ…」と多くを語らない。マスさんの昔の写真を見ながら思い出す
のは、働き続けた若い頃の思い出だった。二人が並んで写っている写真があったので見る
と、肩を寄せ合うように写っている二人がいた。こうして協力しあって生きて来たんだと
ほのぼのとした気分になる写真だった。