山里の記憶217


ごまよごし:柴崎ツヨさん



2018. 05. 23


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 五月二十三日、小鹿野町の信濃石(しなのいし)にごまよごしの取材に行った。取材し
たのは柴崎ツヨさん(九十三歳)で、家の前の畑で栽培しているほうれん草を使ってごま
よごしを作ってくれた。よごしとは、秩父地方で言う和え物のこと。代表的なものはゴマ
を使ったごまよごしで、他にくるみよごしや落花生よごしなどがある。        
 ツヨさんは今でも畑で多くの野菜を栽培していて、収穫して知り合いに配るのを楽しみ
にしている。畑にはジャガイモの花が咲き、ナスや満願寺トウガラシ、オクラ、トマト、
モロヘイヤ、ネギなどが育っていた。生で食べるアイスプラントなども栽培している。 
「嫁さんは花を作って、あたしは野菜を作ってるんだぃね…」と畑を案内してくれた。畑
は息子が耕耘してくれ、ツヨさんがその後に種を蒔いていろいろな野菜を育てている。こ
の耕地は雨が少ないので畑の作物も固くなりがちだ。近所まで雨が来ても、ここだけは降
らないことも多いそうで、土が乾きやすいのが悩みの種だという。          
 畑で大きく育ったほうれん草を何本か収穫する。品種は隣のホームセンターで種を買っ
てきたビリーブという品種。ツヨさんは「本当は昔の品種がいいんだけどね」と笑う。 
 包丁で根を切り、六株のほうれん草を収穫し、外の水道で丁寧に洗う。株の元部分に土
や砂が入るので、株元を特に丁寧に洗い、枯れた葉や痛んだ葉を取り除く。      

畑を案内してもらう。たくさんの野菜をツヨさんが作っている。 庭の木々や盆栽はツヨさんが、花は嫁の博子さんが育てている。

 台所のガスコンロには水を張った大きな鍋が掛けられている。大鍋の湯が沸くとツヨさ
んはほうれん草をざばっと鍋に入れた。茹で時間を聞くと「まあ、一分くらいでも大丈夫
だいね…」と言いながらすぐにボウルに取り出す。ボウルに水を張って少しの間アク抜き
を兼ねて水に浸す。細いが力強い両手でほうれん草を絞って水を切り、ザルに上げる。あ
まり柔らかく茹でたり、水気が残ったりすると水っぽいよごしになってしまう。    

 大きなすり鉢に大量のいりゴマを入れてすり始める。ゴマの量は茶碗七分くらいとのこ
と。するうちにゴマの香りが立ってくる。ツヨさんの手がリズミカルにすりこぎを回す。
ゴマをすり終わって、別の小さいボウルに調味料の味噌と砂糖を合わせる。      
「味付けは目分量なんだぃね…」と言いながら大量の砂糖を入れるので驚いて聞くと「う
ちは甘いのが好きでねえ、味付けは甘めだぃね…」とのこと。砂糖は大さじで五杯くらい
入っただろうか。「普段はえら使わないんだけど…」と言いながら味の素を少し加えた。
味見をして「少ししょっぱいかね…」と言いながらまた砂糖を大さじ一杯加えた。「けっ
こう入れないと甘くなんないんだぃね…」とつぶやく。               

 ザルのほうれん草をまな板に置いて包丁で切る。根の部分はばっさりと切り落とす。 
「昔から根のとこは毒があるって言って切ったよね、本当は石や泥が入ってることが多い
からだと思うけど、そそうにんだからかね、丁寧な人はそんな事しないんだろうけど…」
と話しながらの作業が手早いこと。                        
 切ったほうれん草を両手でしっかり絞って水気を切り、すり鉢に入れる。六株のほうれ
ん草も茹でて絞ると量は多くない。これを右手でしっかりと混ぜながら調味料を揉み込む
ように和える。手で和えるのがツヨさん流。「ごまよごしは手でやらなきゃあだめなんだ
い…」自分で作るときもそうなので、ツヨさんの言うことはよくわかる。今は手袋を使っ
てやる人も多いようだが、和え物は手で和えるに限ると思う。混ぜ具合が均一になる。 
 出来上がったほうれん草のごまよごしを頂いた。まず甘さが口に広がる。爽やかな甘さ
だ。ほうれん草の柔らかい食感とゴマの香りが口に広がる。じつに旨いごまよごしだ。甘
さが後を引く味で、酒の魚にも良さそうだ。                    

大量のゴマと調味料をすり合わせる。味付けは甘めにしている。 畑で採った新鮮なほうれん草で、ごまよごしが出来上がった。

「うちは甘いのが好きでねぇ、何でも甘めなんだぃね…」と言いながら、お茶請けにと筍
の煮物とフキの煮物を出してくれた。ハチクの煮物は柔らかくてとてもコクのある味だっ
た。聞くと砂糖を玉砂糖にしているという。玉砂糖の方がタケノコと合うという言葉に納
得の味だった。フキの煮物は薄味で、フキの味がしみ出るような出来上がりだった。どち
らも絶品の味。ほうれん草のごまよごしと合わせてお茶請けにいただいた。      

 お茶を飲みながらツヨさんに昔の話を聞いた。大正十四年にこの家で生まれたツヨさん
は母親しか知らない。父親が五月六日に亡くなり、ツヨさんが生まれたのは八月五日だっ
た。母親は二十六歳で未亡人になってしまった。偶然だが、近くの本家も同じ時期に片親
になっていた。両家で助け合いながら子供を育ててきた、どの家にも子供が多くいて列に
なって学校へ通っていた。ツヨさんは小鹿野小学校に通っていた。当時は五十五人の三ク
ラスだから同級生が百六十五人もいた。「多分一番多かった時期じゃないかさぁ…」と昔
をふり返る。クラス名は松、竹、梅という名前だった。               

 ツヨさんが小学三年生の時に好きだったおばあちゃんが亡くなった。おばあちゃんは行
動力のある人で、当時まだ少なかったメリンスの着物やセーターを買ってくれた。この辺
ではまだ着ている人も少なかったので、よそ行きでとって置いたことを覚えている。貧乏
の中でもそんなことがあったので印象に残っている。                
 おばあちゃんは甥っ子が東京の目黒に住んでいて、そこで縫物の仕事をやって生活して
いたのだが、病気になってしまった。最後は家で死にたいと、目黒からタクシーでこの家
に帰って来た。当時のお金で米俵一俵分くらいの金額がかかったという。       

 昭和十二年の日支事変、続いて起きた大東亜戦争に翻弄されたツヨさんの青春。娘盛り
は国のために消えた。戦争に勝つまではと頑張ったのだが、日本は負けた。      
 戦時中から戦後まで若い男の人が少ない時代だった。ツヨさんが結婚したのは昭和二十
六年のことだった。お相手は尾田蒔(おだまき)出身の彰二さん。彰二さんは昭和十九年
に東京から船で北支に出征したのだが、満州の部隊が多く南方に転戦し、北支の部隊が満
州に入る形になり、最後は満州で終戦を迎えた。                  
 満州はロシアの蹂躙を受け、彰二さんは捕虜になってしまった。シベリアでの抑留生活
は悲惨だったが、彰二さんは多くを語らなかった。満州では本当に苦労したのだとツヨさ
んが替わりに切々と話してくれた。彰二さんは昭和二十四年に帰って来た。      

お茶請けのごまよごし・筍煮物・フキの煮物が最高に旨かった。 やさしかった彰二さん。ツヨさんは今でも彰二さんに感謝している。

 親同士と近所の親戚が口をきいてくれての見合いだった。家付き娘だったツヨさんのと
ころに婿入りすることを決めてくれた彰二さんにツヨさんは今でも感謝している。「どん
底だった家によく婿に来てくれたんよ…」「婿修行をよくしてくれたんで、本当に感謝し
てるんよ…」家を守る宿命を持って生まれたツヨさんにしかわからない感謝の言葉だ。 
 三交代のセメント工場が彰二さんの職場だった。信濃石から秩父まで自転車で通った。
途中の尾田蒔に実家があるのだが、母親が亡くなっていたので、あまり立ち寄ることはな
かった。父親だけだと寄りにくいようだった。                   
 ツヨさんは専業主婦だったが、近所のお蚕(こ)上げや田植えの手伝いをした。自宅の
畑は全部ツヨさんがやった。二人の子を育てながら畑をやるのは大変だったが、大変だと
思ったことはないという。「だって、周りも同じだったからねぇ」苦しい時代だった。 

 ツヨさんが思い出すのは彰二さんがバイク好きだったこと。五十歳の時に百二十五CC
のオートバイを買ったので驚いたという。東京にいたころに見かけたバイク乗りが影響を
与えたらしい。最後は二百五十CCのバイクに乗っていた。             
 彰二さんは五十七歳の定年までセメント工場で働いた。その後六十歳からは年金をもら
えたので暮らしも何とかなった。セメント工場での仕事の関係から肺を病んでいた彰二さ
ん。肺気腫の認定を受けることは出来なかったが、それが原因だったか、胆管癌で亡くな
った。「病院が嫌なんで診なかったんだぃね、タバコも止められなかったしねぇ、でも最
後は家で看取れて良かったと思ってるんだぃね…」長く連れ添った彰二さん、享年は八十
八歳だった。仏壇には細面でやさしそうな彰二さんの写真が飾ってあった。      

 今は自分の好きなことだけしてるからストレスはないという。息子夫婦から留守番を頼
まれるくらいで、あとは好きな畑仕事をしているだけ。近所の人もみな若いし、うろうろ
歩けないから家にいる。昔の歌番組を見るのが楽しみで、何もない時は寝ちゃう。元気で
長寿の秘訣は好きなことだけをやることだった。                  
「いっぱい作ったから持っていきない」と、ごまよごしをタッパーに詰めたものをお土産
に頂いて家を後にした。良い昔話が聞けた取材だった。