山里の記憶216


やきもち:倉林糸子さん



2018. 03. 29


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 三月二十九日、小鹿野町・般若にやきもちの取材に行った。取材したのは倉林糸子さん
(八十六歳)だった。昔、野良仕事の合間に小昼飯(こぢゅうはん)として作って食べて
いた冷やご飯入りのやきもちを作ってもらう事になっていた。            
 ご自宅に伺うと、ちょうどジャガイモの植え付けをするところだというので見学させて
もらった。ご主人の傳次さんは九十一歳という高齢ながら、今でも現役の農家で耕運機を
使って広い畑を耕し、多くの作物を作っている人だった。糸子さんもそれを手伝い、夫唱
婦随で栗や柿、大豆や小豆を栽培・出荷している。                 

 耕運機で耕した畑に糸巻きを立て、糸に沿ってサクを切る。腰も曲がっておらず、鍬を
使う動きも慣れたものだ。糸子さんが種芋を置き、傳次さんが間に肥料を置く。二人で両
側から鍬で土をかける。作業は二人の呼吸が合っていて流れるようだった。畑一面に植え
付けを終えると、サクごとに黒マルチをかけて保温するという。この日はここまでの作業
で一段落とした。                                
「歳をとったから、何もかもやることがゆっくりだいねぇ…」と手袋を脱ぎながら自宅へ
と戻る。「お茶を入れるから入ってくんない」と誘われる。             

畑でジャガイモを植える糸子さん。鍬の使い方も慣れたもの。 65年前、結婚式の時に撮った写真。祝言は実家と自宅で挙げた。

 炬燵でお茶をいただきながら、糸子さんに昔の話を聞く。糸子さんは武州日野・寺沢の
生まれだ。家は百姓家で、父親は農協で手伝い仕事をしていた。家族は八人、兄弟は四人
で全員女だった。家は長女がお婿さんを取って継ぎ、三人姉妹は嫁に出た。      
 糸子さんは昭和二十九年、二十三歳の時にこの般若・倉林家に嫁いだ。当時は世話人が
いて、結婚適齢期の男女を結びつけたのだが、この時の話をご主人の傳次さんに聞いてみ
た。傳次さんは世話人に糸子さんを紹介されたあと、日野まで自転車で糸子さんを見に行
った。たまたま外に出てお姉さんの子供を子守りしてるところが見られて「あの人なら良
かんベぇ」と思って世話人にお見合いを承諾したという。若い時の糸子さんの写真を見た
らとても美人だった。実際に見て納得したという傳次さんの気持ちは良くわかる。   

 当時の結婚式は大変だった。まず、もらう側から出かけて行き、お嫁さんの家で祝言を
挙げる。そしてお嫁さんを新郎の家まで連れて来て更に祝言を重ねる。その日はそれでお
開きになるのだが、翌日「里帰り」といってお嫁さんの実家に再度足を運んで礼をすると
いう念の入ったものだった。                           
 傳次さんはその時の事を振り返る。世話人と親戚代表のおばさんと両親も加えて八人く
らいで歩いて武州日野に向かった。二里半(約十キロ)の道のりは歩いて二時間半かかっ
た。当時の道は悪く年寄りが歩くのは大変だった。年寄りからは「歩くのは大変だから車
を出せないか」と言われたが、当時車は少なく、借りられる車はなかった。      
 九時ごろ出て二時間半歩き、午後一時から祝言が始まった。糸子さんの家では親戚や組
合の人全員が集まっており、座敷に箱膳がずらりと並ぶ宴会となった。当時は自宅で祝言
を挙げるために集落共同で使うお膳や食器が揃っていた。お酒を注ぐために頼んだ男の子
と女の子も含めると二十人くらいが並んでいた。                  

 祝言を終え、再び二里半の道を歩いて般若の自宅に戻る。糸子さんの家からは世話人・
兄弟・親戚代表の十人くらいがお嫁さんと一緒に歩いて来た。お嫁さんが婚家に入る時に
行うのが「とぼう盃」というこの地の風習。右足を玄関に入れて、盃のお神酒を干すとい
う所作だ。この家に嫁ぎ、生涯を生きますという誓いの儀式だった。         
 とぼう盃を終えると、自宅での祝言が始まる。これもまた賑やかなものだった。この日
だけは障子に穴を開けることが許されており、近所の人や子供がお嫁さん見たさに競って
障子に穴を開けた。大勢近所の人が集まると、お嫁さんのお披露目をしたりした。   
 祝言が終わるのは夕方になることが多かったが、嫁方の人々はその日のうちに帰らなけ
ればならなかったので大変だった。帰り着くのは夜中になっていたという。      
 更に大変だったのは、翌日の「里帰り」だった。傳次さんと糸子さん、世話人とおじさ
ん・おばさんの七人で糸子さんの実家に里帰りした。傳次さんも糸子さんも十キロの道の
りを二日で二往復したことになる。いやはや大変なことだ。糸子さんに大変だったでしょ
うと聞くと「もう六十五年も前の話で、忘れちゃったぃね…」と笑っていた。     

 話が一段落したので、今日の取材でもある「やきもち」作りに入ってもらった。準備し
てあった材料は小麦粉・しゃくし菜の油炒め(油で炒め、酒・醤油・砂糖で味付けしたも
の)・干しアミエビ・細かく刻んだキャベツ・刻みネギ・冷えたご飯・自家製の味噌。 
 ボウルに入れた材料を混ぜ、小麦粉を加えて水を少しずつ加える。少し固めにこねるよ
うに混ぜ合わせる。柔らかいと生地が薄くなってしまうので注意する。        
 熱したフライパンにサラダ油を引き、こねた種をお玉ですくって丸く広げる。直径十セ
ンチくらいの大きさ。四つ作るとフライパン一杯になる。これを焼き色が付くまでじっく
りと焼く。種が焼けてくると台所中にいい香りが漂ってくる。懐かしい香りだ。    
 両面をきつね色に焼き上げたら火を止め、蓋をして加温する。生地が厚いので加温する
事で確実に芯まで火を通す。                           

準備した材料を全部混ぜて水を加えてボウルでこねる。 出来上がった糸子さんのやきもち。昔は小昼飯で作って食べた。

 やきもちを作りながら糸子さんに話を聞いた。昔は小昼飯(こぢゅうはん)に作って、
畑仕事の合間に食べたものだった。「昔はよく作ったぃね、今もたまに作るよ」歳をとっ
たのであまり作らなくなったが、まんじゅうなんかもよく作ったもんだった。     
 娘の且代さんの話では、糸子さんは料理上手で、作る料理は何でも美味しかったという
事だ。この日もやきもちの他に、たくあん古漬けの油炒めや手作りこんにゃくの煮物、ご
ぼうの煮物、白菜古漬けの油炒めなどが作られていた。               
 やがて「さあさ、やきもちが出来たからお昼にしましょう」という糸子さんの声で豪華
な昼食が始まった。まだ熱いやきもちを頬張る。もっちりとした食感にキャベツのシャキ
シャキした食感が加わり、しゃくし菜の味が広がり、味噌がほんのりと香る。カリカリに
焼いた外側が香ばしい。じつに食べ応えのある旨いやきもちだった。         
「昔はネギでも入ればご馳走だったけど、色々入って贅沢なもんだぃね」と糸子さん。 

 座卓に並んだご馳走を食べながら糸子さんに昔の話を聞いた。嫁いだ当時この家には多
くの人がいた。古いおばあちゃん、姑さん、傳次さんの兄弟が五人もいた。父親は四十九
歳の時に亡くなっていていなかった。小姑がいっぱいいたのでお嫁さんは本当に大変だっ
た。「今だったら逃げ出すようだったぃねぇ、昔の人は我慢強かったし、帰れなかったか
ら仕方なかったんだけど…」と、大変だったお嫁さん時代の話から始まった。     
 この家で苦労したのは水だった。糸子さんの実家では近くに堀もあったし小川もあった
ので水に苦労することはなかった。それだけにここに嫁いでからの水の苦労は大変なもの
だった。井戸はあったのだが、その井戸が使えなくなり、十六様の井戸から毎日水を担い
で運んだ。風呂水も洗濯水も肩で運んだ。粘土質の道は雨が降るとぬかるみ、歩くのも難
儀するような道だった。坂も堀も急で足を滑らすことも多かった。そんな道を歩いて水を
運ぶ毎日は本当に大変だった。運んだ水もあまり良い水ではなかった。実家の人が来てお
茶を出すとまずいと言われるのがつらかった。昭和四十年くらいだったか、水道が出来た
時は本当に嬉しかった。長年苦しんだ水運びから解放されて本当に助かった。     

自慢の料理がいっぱい並んで昼食。どれもみんな旨かった。 昔話や水の話、料理の話などいろいろ聞かせてくれた糸子さん。

 古いおばあちゃんは優しい人だったが、お姑さんが厳しい人だった。農家だったので朝
が早く、夜遅くまでやることが多かった。田んぼ二反歩、畑六反歩で作物を作り身を粉に
して働いた。二頭飼っていた牛の世話も糸子さんの仕事だった。大麦を収穫すると部屋の
中は大麦でいっぱいになり片隅で寝るような始末だったし、お蚕をやる時も寝る場所に困
るような生活だった。                              
 そんな中でも糸子さんは頑張った。嫁ぐ前に習っていた和裁で和服を縫う仕事を矢尾か
ら請ける事が出来た。農繁期は畑仕事のために手が荒れていて、上等な着物の仕事は出来
なかった。安い工賃の仕事ばかりだったが、冬場には高価な着物を縫う仕事ができ、現金
収入になったのがありがたかった。青年学校で見よう見まねで習った洋裁もやった。  

 大変だった昔の話ばかり聞いていたので、気分を変えようと「良かった事は?」と糸子
さんに聞いてみた。「子供が素直でやさしく育ってくれたのが良かったねえ…」としみじ
みと言う。娘は河原沢に嫁いだがいつでも来てくれる。息子は同じ地所に家を建てて家を
継いでくれた。元気なご夫婦には若く頼もしい後ろ盾がしっかりついていた。