山里の記憶215


十六様の隣で:倉林傳次さん



2018. 03. 29


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 三月二十九日、小鹿野町の般若に九十一歳の倉林傳次さんを訪ねた。近所にある十六様
と呼ばれる神社の話と傳次さんの昔話を聞くためだった。傳次さんは昭和二年生まれ、も
のごころ付いた頃から十六様の神楽を演じていたという。「生まれた時からお世話になっ
てたんだよ…」とのこと。                            
 この地で十六様と呼ばれ、慕われている神社。正式には日本武(やまとたける)神社と
呼ぶ。日本武尊(やまとたける)と保食神(うけもちのかみ)を御祭神とし、長くこの地
の産土神として信仰されてきた。昔は天台修験の時代が長く、大般若経の守護神が十六善
神だったことから十六様と呼ばれるようになった。十六善神社と呼ばれ親しまれて来たの
だが、明治元年神仏分離令により日本武神社と改め、旧長若村の村社として春三月に例大
祭を行うようになった。                             

 傳次さんの家は十六様から約五十メートルほどの近さだ。子供の頃から神社が遊び場で
悪いこともいっぱいしたんだと昔話をしてくれた。村社だったこともあり、多くの出征す
る兵士を見送ったという。武運長久を祈願し、多くの若者がここから戦場へ旅立って行っ
た。傳次さんが十八歳の時に戦争が終わった。もう少し戦争が長引けば傳次さんも十六様
から戦場へと向かうはずだった。                         
 青年学校で小銃を持たされ、軍事教練を重ねていた身として複雑な思いもあったが、終
戦となったことで傳次さんは「十六様に守られたのかもしれない…」と振り返る。   

夫婦でジャガイモの植え付けをしている。現役の農家だ。 パイプで組んだ棚に枝を広げる梨の木。二百個もの実をつける。

 傳次さんは九十一歳の今でも現役の農家だ。三反五畝歩の畑で栗を、五畝歩の畑で柿を
栽培し出荷している。他に自宅付近で二反歩の畑を耕運機で耕し、ジャガイモ・小豆・大
豆・玉ねぎ・キャベツ・インゲン・サヤエンドウ・トマト・小麦などを栽培している。 
 納屋で作業用の地下足袋を履きながら、傳次さんがつぶやく。「昔は仕事は大変だって
思うだけだったけど、この歳までこうして働けるんは、本当にありがたい事だぃねえ…」
 この日はジャガイモを植え付けるというので、その作業を見学した。耕運機で耕した畑
に糸巻きを立て、糸に沿ってサクを切る。腰も曲がっておらず、鍬を使う動きも慣れたも
のだ。奥さんの糸子さんが種芋を置き、傳次さんが間に肥料を置く。二人で両側から鍬で
土をかける。作業は二人の呼吸が合っていて流れるようだった。一面に植え付けを終える
と、サクごとに黒マルチをかけて保温する。まだ寒い日があるので、そのための黒マルチ
だという。ジャガイモの品種はダンシャクだった。                 
 作業が一段落したので納屋に戻る。地下足袋を脱ぐ傳次さんに庭の梨の木を教えてもら
う。まるでぶどうの木のように四方に枝を広げた梨の木。単管パイプを組んだ棚の上に枝
を伸ばす梨の木からは二百個もの大きな実が収穫できるそうだ。           
 兼業農家で、傳次さんは東京電力の検針と集金の仕事を委託でやっていた。社員ではな
かったが、七十二歳まで三十九年間働いた。農家だけでなく現金収入の道があったことが
ありがたかった。                                

 家の炬燵でお茶をいただきながら、十六様の話を聞く。十六様の例大祭は三月第二土曜
日(昔は三月五日・六日)で、神楽や歌舞伎が演じられる有名なものだ。その神楽は昔か
らあり、傳次さんは子供の頃から演じていた。神楽の流派は吉田の貴船神社の神楽の流れ
で、勉強のためによく見に行ったものだという。                  
 踊り、笛、太鼓、衣装など七・八人が組になって演じられていた。この神楽は小鹿野町
指定民俗文化財となっており保存会がある。傳次さんは神楽保存会の二代目会長を八年や
った。氏子からも信頼され、やりがいのある仕事だった。              

保存されている神楽面。傳次さんは保存会の会長をしていた。 昭和二十年から始まった十六歌舞伎。板東流の本格的なものだ。

 神楽よりも最近は歌舞伎の方が有名になってきた。こちらは埼玉県指定文化財となって
おり、小鹿野歌舞伎の一年の幕開けとなるお祭りでもある。             
 十六歌舞伎とも呼ばれる十六様の歌舞伎は昭和二十年から始まった。敗戦の痛手を少し
でも和らげようと、吉野商店の前で「曽我対面」を演じたのが最初だった。      
 十六若連と呼ばれる青年団の男たちが坂東彦五郎の指導を受けて始めたものだった。彦
五郎の家にカツラや衣装が保存されており、師匠の厳しい指導もあって、大盛況の歌舞伎
となった。その後十六様の例大祭に神楽と一緒に演じられるようになり、テレビもない時
代に多くの観衆を集める一大興行へと育って行った。                

 傳次さんは最初から参加し、号令かけの親方を交代でやった。当時、芝居する人が男女
合わせて二十人以上いた。お祭り二日間で二十人以上が全員役につくという構成にしなけ
ればならず、配役を決めるのが大変だった。夕方から始めて、十二時近くまで八幕も九幕
もやった。近在の村々から大勢の人が見にくる賑やかなお祭りだった。        
 傳次さんも演者だった。配役を決めるのが自分という事もあり、いい役は全部やったと
笑う。十二年から十三年は演者をやっていたという。演目は多かった。当時から八幕も九
幕もやらなければならなかったし、坂東彦五郎の指導も良かった。面白くてみんなが知っ
ている演目ばかりだった。演じる方も見る方も知っている演目でないと盛り上がらなかっ
た。知り合いが主演だったりするので大きな掛け声がかかったりする楽しいものだった。
 今の十六歌舞伎は十二時から中学生による子供歌舞伎で始まり、神楽も含め、午後八時
くらいまで演じられている。今も多くの観客を集める小鹿野歌舞伎の中心となっている。
今は十六歌舞伎単独の開催ではなく、小鹿野歌舞伎の一環として開催されている。   

 傳次さんの話が続く。歌舞伎が有名になり、頼まれて出張することもあった。秩父の影
森、琴平神社で九幕も上演したことがあった。また、子役が少なかった他の地区に子役を
貸し出すこともあった。傳次さんの娘の且代さんは子供の頃、飯田の八幡様歌舞伎や津谷
木のお天狗様歌舞伎に出演したことがある。寺子屋や安達ヶ原など子役が必要な歌舞伎も
多く、重宝がられたそうだ。且代さんは「お菓子や駄賃がもらえるんで楽しかったよ」と
昔を思い出して笑う。                              
 明治時代に十六様が火災に遭ったことがある。その時に津谷木の人々が夜に神様を運び
出して守ってくれた。その縁で五月八日・九日の津谷木のお天狗様に歌舞伎を上演するよ
うになった。今もその習慣は続いている。                     

 平成五年、県道改修により神楽殿の移転が必要になった。社殿も神楽殿も社務所も築百
年以上経過して建物が老朽化していた事もあり、この機会にと平成の御大典記念事業とし
て新築造営を決めた。傳次さんも呼びかけ人になり、多くの長若内外の氏子や崇敬者から
浄財が奉納された。傳次さんも百万円の浄財を奉納したという。金額に驚くと「いやいや
百万くらい奉納した人はいっぱいいるよ、合計は億の余だったからね」とさりげない。十
六様の信仰がいかに広く深いものかがわかるエピソードだ。             
 四年六ヶ月の工事期間を経て、平成十年三月、新しい社殿・神楽殿・社務所が完成し、
こけら落とし公演が行われた。傳次さんはその時のことを思い出し、目に涙をにじませな
がら語った。「生きてて良かったいねえ、この目で新しい神社を見ることができて感無量
だったよ…」                                  

NHK「鶴瓶の家族に乾杯」で津川雅彦さんが家に来た時のサイン。 川柳を書いた紙を見せ「今はこんな心境だいね」と言う傳次さん。

「同級生ももう誰もいないし、一人になっちゃったけど、こうして長く生きていられるん
も、十六様のお陰なんじゃないかって思うんだぃね…」そう言いながら一枚の便箋を出し
て見せてくれた。そこには最近書き留めた川柳があった。              
・お迎えを 覚悟してます いつ来ても                      
・同級生 次々去って 俺一人                          
・ばーちゃん江 世話になったが あの世でも                   
・安らぎを 求め旅立つ 清水の里                        
・川の字に 親娘でねむる 清水の丘                       

 傳次さんが大きな書類を出して見せてくれた。「今度、警察で免許が出るんだぃね、九
十三歳まで運転出来る免許なんだよ…」とのこと。考えてみるとこれはすごい事だ。栗や
柿の世話や収穫・出荷のためにどうしても軽トラが必要なのはわかる。しかし、九十一歳
で免許を更新できるという事がすごい。                      
 認知症の検査を通過してという書類だった。娘の且代さんが諦め口調で話してくれた。
「本人が大丈夫って言ってるから任せてるんだけど、まあ好きにやらせようかなって思っ
てるんですよ」九十一歳で現役の農家という事はこういう事でもある。素晴らしい。