山里の記憶207


わさび漬け:赤岩正夫さん



2017. 11. 14


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 十一月十四日、秩父の芦ヶ久保にわさび漬けの取材に行った。取材したのは赤岩正夫さ
ん(七十七歳)だった。正夫さんは自分の畑でワサビを栽培し、自分で刻んでわさび漬け
を作って友人や知人に配っている。もちろん自分でも食べるという事だった。     
 昔はワサビを栽培している人も多く、わさび漬けを作っている人も多かったが、猪など
の獣害により今はほとんどいなくなってしまった。秩父でわさび漬けの取材が出来ると思
っていなかったので、この取材が決まった時は嬉しかった。             

 約束の時間に伺うと、すぐに「じゃあワサビを採りに行こうか」と言う。車に乗って行
くのかと思ったら、そのままスタスタと家の下に下りて行く。「家の下にワサビを植えて
あるんだぃね」とのこと。あわてて長靴に履き替えて急いで正夫さんの後を追う。   
 急坂を下りながら正夫さんが指さす。川に下る斜面に水を引き、ワサビ田にしてある。
本場静岡から苗を買ってきて植え付けて育てているのだが、本格的な畑ではないので育ち
が遅いと嘆く。「まあ手をかけてないから仕方ないんだけどね…」と苦笑する。    

 昔は多くの人がワサビを作っていた。昭和四十年から四十五年頃には国の山村振興事業
で地方の特産品を作るという事で奨励金も出た。秩父では芦ヶ久保や浦山で多くのワサビ
田が開発され、たくさんのワサビが栽培されていた。しかし、いつしか生産者が高齢化し
て獣害の多さも加わりワサビ栽培を止める人が多くなった。今では本当に数えるくらいし
かワサビを栽培している人はいない。それも出荷用ではなくほぼ自家用だ。      
 獣害は猪によるものが多い。猪はワサビ田の石垣に棲む沢ガニやミミズを狙ってワサビ
田をめちゃくちゃに掘り返す。こうなるともう手がつけられない。          
 鹿はワサビの葉を食べたり、猪と同じく石垣を崩して悪さをする。正夫さんの畑にも鹿
がやってきて荒らされたことがあるという。「ここはそれでも擁壁に守られてるからいい
んだぃね」と横瀬川に沿って築かれている高い擁壁を指さす。国道と川と擁壁に守られて
細々と続いているワサビ田なのだ。                        
「猪はトタンを回して見えないようにしておけば平気なんだぃね」野菜の畑にはトタンを
回し、上にはネットをかける。それでも猿やハクビシンが入って来る。        

自宅下にあるワサビ田。斜面に水を流して栽培している。 掘ったワサビをきれいな横瀬川の水で丁寧に洗う。

 バケツ一杯にワサビを採り、川に持って行って洗う。家の下にはきれいな横瀬川が流れ
ており、ワサビの泥をこの水で洗う。黒い葉は固いので取り除く。川岸からきれいな紅葉
を眺めながら、一本一本きれいにワサビを洗う正夫さん。葉も茎も根茎も全部刻むので、
全部きれいに洗う。川の水がきれいなので洗ったワサビも瑞々しい。         
 ワサビを持って自宅に帰り、わさび漬け用の加工をする。まず、根茎を切り離し、ひげ
根を切り落とし、皮を包丁で削りむく。ワサビの根茎は蕎麦を食べるときなどにすり下ろ
して薬味にする部分で、辛味の元になる部分だ。わさび漬けの味を決める貴重な部分でも
ある。「ワサビは根に石を挟んでいたりするんで丁寧に削り落とすんだぃね」と正夫さん
が包丁を使いながら言う。「根が小さいから手間がかかるよ…」と笑う。       

 正夫さんのわさび漬けは売り物ではない。自分で食べるほか友人・知人に配って喜ばれ
ている。酒粕が出回る晩秋から冬にわさび漬けを作る。防腐剤を使わなくてもワサビには
殺菌作用があるので冷蔵庫に入れて置けば長持ちする。しかし、作るには手間もかかるし
酒粕もけっこう高いのでわさび漬けは高くつくなあと思う事がある。         
 春先のワサビの花と茎を使った醤油漬けはみんなが好きなのでよく作る。子供たちや孫
たちも醤油漬けの方がいいと言う。最近はつゆの素で漬けるのが気に入っている。子供や
孫たちは酒粕の匂いが嫌いなようだ。                       

 娘のまゆみさんが「手伝うよ」と言ってまな板と包丁を持って来た。いつもは奥さんが
手伝ってくれるのだが、今日は出かけているのでと言いながらワサビの葉と茎を刻み始め
た。細かくみじん切りにしながら「葉っぱはどのくらいの大きさに切るん?」と正夫さん
に聞く。「そのくらいでいいよお湯を掛ければしんなりしちゃうから」と正夫さん。  
 根茎の皮を剥き終わったら薄く細かく刻む。貴重な根茎は全体に行き渡るようにしたい
ので丁寧に刻む。刻み終わったらまゆみさんが刻んだワサビの葉と一緒にして熱湯をかけ
る。しんなりするまで二・三分置いて湯を捨てる。ワサビのアク抜きをし、辛味を増す作
業だ。これを絞って塩を振って揉む。塩はしょっぱくならない程度にする。今回は葉が多
かったので大さじ一杯くらい振った。揉んでいると香りが立ち、辛さで目が痛くなる。こ
うして辛味を出してわさび漬けにする。                      

ワサビの根茎の皮と汚れを丁寧に取り除く正夫さん。 きれいに削ったワサビ。これを薄く細かく刻んでわさび漬けにする。

 この作業を進めている間にまゆみさんが酒粕を取り出し、酒をかけてゆるく溶きはじめ
た。酒粕を溶くのは酒粕の元になった酒が良いとのこと。作業場に酒粕とお酒のいい香り
が漂う。酒粕はゆるく溶くとしまりのないわさび漬けになってしまうので固く溶く。溶く
酒は常温にしておく。酒粕がだまにならないように丁寧に溶く。           
 酒粕にも酒の成分は残っている。秩父では甘酒を作るのに酒粕を使う。お祭りなどで振
る舞う甘酒も酒粕を使うので、お酒を飲めない人や車を運転する人は注意を要する。お酒
の弱い人などは顔が真っ赤になる事があるという。                 
 芦ヶ久保では冬期に芦ヶ久保氷柱という観光地があり、そこで甘酒を振る舞うときも一
言「お酒が入ってますけど大丈夫ですか?」と聞いてから振る舞う事にしているそうだ。
正夫さんもまゆみさんも氷柱の時期は手伝う事が多いのでそんな話が出た。      

 揉んだワサビを酒粕によく混ぜる。固いようだったら絞った水を加える。まゆみさんが
「こんな青いわさび漬けは初めて!」と笑う。ワサビがたっぷり入った贅沢なわさび漬け
が出来上がった。少し味見をさせていただいた。出来たばかりのわさび漬けはあまり辛く
なく、甘さが口に広がる爽やかなもので、パクパクと食べられた。これを冷蔵庫で二日置
くと辛くなるという。色も鮮やかな緑だが、時間を置くことで黒くなる。正夫さんは刺身
に乗せたり、かまぼこやかっぱ寿司に乗せるのも美味しいという。          
 出来上がったわさび漬けを煮沸したびんに詰める。割り箸を使って中に空気が入らない
ように詰める。                                 

酒粕と刻んだワサビを混ぜ、空気が入らないようにビンに詰める。 出来たてを食べてみた。まだ甘さもあり爽やかな味だった。

 わさび漬け作りの作業が終わり、お茶をいただきながら昔の話を聞いた。正夫さんは林
業で生計を立てて来た。十五歳の時から県営林や公社林の造林作業をやってきた。十一歳
の時にはすでに朝一回午後一回の苗運びをやっていたという。            
 春は地拵え作業、伐採後の荒れ地を整理して苗を植えられるようにする。四月から五月
は苗の植え付け。六月からは下刈り。八月は除伐。冬は枝打ちと一年間の作業が続いた。
 特に冬の仕事が大変だった。雪の中の枝打ちは寒くてつらかった。道がない所を歩くの
が苦労だった事を思い出す。武甲山の頂上まで苗を運んだ事もある。県造林は奥の方にあ
るので苗や資材を運ぶのが大変だった。もちろん道のないところなので自分の背中で背負
って運ぶしか方法はなかった。                          
 横瀬、吾野、飯能などで造林の仕事をした。ある年の春八人で二十ヘクタールの植え付
けをしたことがある。あの時は本当に頑張った。もう三十年、四十年経っている木が多い
ので伐り出す時期になっている。二十年前に伐って、その後に植えたところもある。六十
年やってきてそろそろみんな伐る時期だなあと思う事が時々ある。          
 昭和五十五年に県民の森が出来、その後県から嘱託で管理人を請け負った。測量から手
伝い、伐採もやった。主な仕事は草刈り、トイレ掃除、イベント準備、イベントの手伝い
などで十年間、二年前まで管理人をやった。                    

 昭和三十五年に芦ヶ久保の茶業組合を設立した。正夫さんが二十九歳の時だった。当初
は組合員として活動していたのだが、十年前から組合長としてお茶作りをしている。八年
前からは紅茶を作るようになった。昔は大勢の人がお茶を栽培していたが、高齢化と共に
栽培する人が減り、今は十五人くらいになってしまった。              
 他のお茶工場がなくなってしまったので、この工場がなくなると秩父でお茶を作る工場
がなくなってしまう。何としてもお茶作りは継続したいと願っている。今は娘のまゆみさ
んもお茶作りを手伝うようになっている。何もかも大変な事が集中しているが、今が頑張
りどころだと言葉に力を込める。                         
 新鮮なわさび漬けの取材に来て、いろいろな話が聞けた。お茶作りや芦ヶ久保氷柱など
地域の振興に力を尽くす人の話が嬉しかった。良い取材が出来た。