山里の記憶205


ぬか漬け:野崎幸子さん



2017. 10. 12


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 十月十二日、秩父市大野原にぬか漬けの取材に行った。取材したのは野崎幸子(さちこ
)さん(七十六歳)で、結婚するときに母から引き継いで五十年以上になるぬか床を育て
ている人だった。たくさんの野菜を毎日漬けているという。             
 幸子さんが「これがうちのぬか漬けだから食べてみて」と言って、お皿に盛ったぬか漬
けをお茶請けに出してくれた。キュウリ、ハヤトウリ、オクラのぬか漬けがきれいに並べ
られたお皿だった。                               
 早速味見してみる。味は濃くなく、風味が素晴らしい。生の野菜を一晩漬けるだけでこ
の味になるというのだから、まるで魔法だ。うす味のぬか漬けは本当においしい。   
 話を聞く前にぬか漬けを味わってしまったが、そのまま作り方とかいろいろぬか漬けの
話を聞いた。幸子さんが毎日漬けているぬか漬けのぬか床は、幸子さんの結婚を機に母が
分けてくれたもの。もう五十四年物になるぬか床を毎日かき回して育てている。    

居間でぬか漬けについていろいろ話をしてくれた幸子さん。 お茶請けに出されたキュウリ・ハヤトウリ・オクラのぬか漬けを頂く。

 二、三日前に新しいぬかを足したところだとのこと。ぬか床がゆるく水っぽくなると、
農協から買って来たぬかを加える。同時に鷹の爪一袋分と良く洗ったジャガイモ三個を加
える。ジャガイモはいずれ溶けてしまうのだが、ぬか漬けの味がまろやかになるという。
塩は味が薄くなったら適宜加える。最近は塩味が強く味が濃いものは敬遠されるそうだ。
 漬けるものは季節の野菜。近所の人が持って来てくれる野菜や自分の畑で作った野菜を
漬ける。頂いた野菜をぬか漬けにして返すとみんな喜んでくれるという。容器が大きいの
で、キュウリなどは一度に三十本くらい漬けることが出来る。ひと晩漬けるのが最適で二
日おくと味が入りすぎる。                            

 キュウリは丸のまま漬ける。ヘタを切ったりすると味が入りすぎてしまうので、絶対に
切らない。人参は皮をピーラーで剥いてから漬ける。大根も皮を剥いて漬ける。カブは洗
って葉を付けたまま漬ける。オクラなど小さいものはネットに入れたまま漬ける。こうす
ればぬか床の中で行方不明にならない。                      
 ナス、ほうれん草、ネギ、しょうがなど色々漬け込んでいる。魚や果物や豆腐などはま
だ漬けたことがないが、そのうちにやってみようと思っているそうだ。        

 ぬか漬けは、乳酸菌やビタミン、カルシウムなどの多くの栄養が含まれており、便秘の
解消や、ダイエットにも効果的だ。また、免疫力や代謝もアップするため、風邪やがん予
防にも効果的だと言われている。糖尿病や骨粗鬆症にも効果的で、更にぬか漬けに含まれ
る乳酸菌やビタミンによって美肌効果やバストアップ効果まであると報告されている。 
 日本の昔ながらの知恵はすごい。手間はかかるが作り始めればいつでも楽しめるぬか漬
け。毎日の食卓に漬物を出す家庭は少なくなってしまったが、これだけ体にいいものを食
べないのは本当にもったいないことだと思う。                   

 そのぬか漬けを漬けている場所を見せてもらった。赤い大きなかめが外の水場横に置か
れていた。蓋を開けると、ぬか床の上に大きな保冷剤が乗せてある。幸子さんによると、
暑い日には保冷剤を入れて置かないと一晩で味が入りすぎてしまうとのこと。こうして保
冷剤でぬか床を冷ますことで味の入り加減を調整するのだそうだ。ぬか床は生き物なので
気を使う。毎日、野菜を漬け込む際に全体をかき回して手入れしている。       
 外の水場横なので、ぬか床を手入れした手や取り出したぬか漬けをすぐに洗うことが出
来る。家の中にぬか漬けの匂いがこもる事もなく、快適な漬物生活を楽しめる。家の中で
ぬか漬けを作るとどうしてもぬか漬けの匂いが充満するので、外で管理するというのは良
い方法だと思った。水場が近くにあればなお完璧だ。                

外の水場にぬか漬け用のかめが置いてあった。 かめの中からハヤトウリのぬか漬けを出して見せてくれた。

 部屋に戻って幸子さんに昔の話をいろいろ聞いた。幸子さんは秩父市東町の助産院で育
った。母もおばあちゃんも助産婦だった。おばあちゃんはもともとは新潟の人で、医者の
家で育った。その後母は東京へ行き、結婚する。父は水上警察管で皇居に勤務していたこ
とがある。東京の杉並に官舎があり、幸子さんは七歳までそこで育った。       
 秩父の子供がいない親戚から養女にと請われ、親子で秩父に来て養子に入り、七歳から
は秩父で育った。札所十三番の幼稚園に通った。母は助産婦の学校に行き、免許を取り、
助産婦として活動し始めた。                           
 幸子さんは中学を出て高校に行くはずだった。おばあちゃんが「子は高校を出せ」と言
って入学資金を準備してくれていた。しかし、父が勤めていた機屋が経営難に陥り、幸子
さんのためにおばあちゃんが準備していたお金がそちらに回された。幸子さんは泣く泣く
高校進学をあきらめるしかなかった。                       
 高校を諦めた幸子さんは洋裁の会社に入った。元宝塚の男役をやっていた人が主人で、
賑やかな会社だった。東京で宝塚の公演があるときなど、よく見に連れて行ってもらった
のが良い思い出になっている。                          

 その後、縁があって市内の泉屋さんにお世話になった。泉屋は洋品店で、幸子さんは生
地販売部門に配属された。当時はまだ様々な寸法が混在していて、何種類もの定規を使っ
て生地の寸法を測っていた。泉屋には滋賀県近江出身の人が多く働いていた。     
 その泉屋の洋品部門で働いていた野崎貞司さん二十三歳と縁があって結婚することにな
った。幸子さんが二十二歳の時のことだった。貞司さんも近江の人だったが、四男だった
ため近江には帰らず、秩父での生活を選んでくれた。                
 影森の日野田橋の近くに新居を建て、二人の暮らしが始まった。幸子さんは内職をしな
がら子供を育てる生活になった。貞司さんが洋服の裾上げの仕事を持って来てくれたのが
幸子さんの内職になった。                            
 結婚から五年後に大野原に越した。まだこの周辺には家が少なく、三軒目の家だった。
貞司さんは泉屋を辞め、リースキンの会社を立ち上げた。絨毯のクリーニングなども受け
ていた。近所の人がいい人ばかりで、干しておいた絨毯を雨が降って来たと取り込んで、
畳んでしまってくれたりした。近所の人には色々助けられた。            

 料理上手で有名な幸子さんだが、その原点は何だったのか聞いてみた。幸子さんが育っ
た助産院では入院患者がいた。その患者と家族の食事を作るのが幸子さんの仕事だった。
家の外に据え付けられたかまどでご飯を炊いた。三升釜で毎日ご飯を炊いていた。   
 毎回十人分の食事を作った。毎日、自転車で材料を買い出し、栄養のバランスも考えて
料理を作った。その時の積み重ねが今の料理作りに生きているという。        
 今でも市の料理教室に入っているし、色々勉強している。暮らしの会に入っていて小学
校でハンバーグの作り方などを教えたりしている。子供たちが作った料理を「美味しい」
って言ってくれるのが嬉しいし、張り合いになると言う。今でもたくさんの料理を作るの
が好きだ。暮らしの会の活動では平成二十四年に県知事表彰を受けている。      

 ぬか漬けをやりたいと思っている人に、どうやったら簡単にぬか漬けを作れるようにな
るかを聞いた。幸子さんが言うぬか漬け作りは簡単だった。まず、漬け物用のかめを買う
こと。プラスチックの漬物樽が多いが、温度管理の為にも専用のかめがあった方がいいと
いう。次にぬか床を作る。ぬか漬けの上手な人にぬか床を分けて貰う。幸子さんもたくさ
んの人にぬか床を分けている。一回で三分の一くらいのぬか床を分けてやるという。欲し
い人は来てくれれば分けてやるとのこと。                     
 頂いたぬか床をかめに入れ、新しいぬかを農協で買ってきて加える。そして、鷹の爪一
袋と洗ったジャガイモ三個を加える。塩は濃くならないように少し加える。そして、毎日
ぬか床をかき回すこと。こうすればいつでもおいしいぬか漬けを楽しむ事が出来る。幸子
さんは若い人達にぬか漬けの良さを知って欲しいと願っている。           

十年前から描いている水彩画を見せてくれた。素晴らしいゴーヤの絵。 金婚式の表彰を秩父市から受けた時の写真。

 幸子さんが描きはじめて十年になるという水彩画を見せてくれた。大きなスケッチブッ
クに様々な野菜や花が大きく描かれていて、とても素晴らしいものだった。仲間と矢尾百
貨店で展覧会などを開催して楽しんでいるとのこと。                
 秩父市長から金婚式で表彰された写真を見ながら、ご主人の話も少し聞く。ご主人はラ
イオンズクラブの活動で忙しく、とても張り合いのある暮らしだそうだ。若いときは弓道
をたしなんでいたという。結婚してからも激動の人生だったが、毎日の食事にぬか漬けを
食べる暮らしは変わっていない。日々続ける事の大切さを幸子さんの話から学んだ気がし
た取材だった。