山里の記憶204


八幡様のわらじ:逸見米吉さん



2017. 9. 25


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 九月二十五日、秩父市内に住む逸見(へんみ)米吉さん(九十四歳)に会い、わらじ作
りを取材した。米吉さんは六十年以上小鹿野町の飯田八幡神社例大祭、通称「鉄砲祭り」
に使うわらじを作っている人だ。九十四歳にして一人住まいでわらじを作り、お祭りを陰
で支えている。懐かしい鉄砲祭りの話やわらじ作りの話を聞かせていただき、わらじを作
るのを取材させていただいた。居間の一面は数々の賞状で埋め尽くされており、もう一面
は鉄砲祭りの写真で埋め尽くされていた。テーブルの横にはわらじ作りのスペースがあり
、多くの時間をそこで過ごしていることがわかった。                

 飯田の八幡様は、いつの時代かわからないが、平家の落人播磨一族が氏神の八幡様をこ
の地に伝えたものだ。当初は一族だけで祀っていたが、霊験あらたかということでお天狗
様の境内に移し、社を作って安置したのがもとになっている。鉄砲祭りの起源は諸説ある
が、武田信玄の秩父侵入の後だと言われている。弓矢を奉納して武運長久を祈願したもの
が、鉄砲を奉納するようになり、更に豊猟と狩猟の安全を祈願した。また、猟師たちが自
製火薬の偉力を試すため、祭りにことよせて試射したことに始まるなどの説もある。  

居間の壁一面を飾る賞状の数々。お祭り関係のものが多い。 米吉さんが作る「藁駿馬」。八幡様の境内で売った事もある。

 鉄砲祭りには十万石格の大名行列が行われる。これは江戸時代の元文五年(一七四〇)
上飯田村の領主となった旗本吉田大膳(千二百石取)が病気平癒の霊験を得て自らお礼参
りに来た事を記念して行われるようになったものだ。この大名行列に米吉さんが作るわら
じが使われる。鳥毛組十二足、お徒士組十足、ご神馬引き十足の合計三十二足のわらじを
作る。また、ご神馬が履くわらじ八個も毎年米吉さんが作る。            
 飯田八幡の例大祭、昔は十二月十五日だったが、平成十七年から十二月の第二日曜日が
本祭りと変わった。前日の土曜日が前日祭となっている。              
 参道両側の猟師から空砲が発射され、轟音の中を二頭のご新馬が神社の階段を駆け上が
る「お立ち神事」がクライマックスだ。子供の頃からこのお立ちを見ると血が騒いだもの
だった。お祭りと言えば鉄砲祭りで、一年に一度のお祭りは学校が休みになり、わずかな
小遣いを握りしめて一日遊べる待ちに待った日だった。               

 米吉さんに鉄砲祭りの思い出を聞いた。昭和十七年に出征した米吉さん。七月二十二日
に兵隊検査があり、その年十二月の鉄砲祭りでご神馬引きをした。出征前にご神馬引きが
出来たのがいい思い出だという。支那に出征した米吉さん、上海から揚子江を上り南京で
滞在し、終戦を迎えた。三年四ヶ月の兵隊期間だったので恩給が出ないのが悲しい。  
 秩父に帰ってきてからも毎年お祭りに参加している。主にご神馬の世話係をしており、
色々な逸話を話してくれた。                           
 お立ちのご神馬が神社の階段で転んでしまい起きなかった事があった。長瀞の観光馬車
で使っていた馬だったが、その時の怪我が元で命を落としたという。         
 また、米吉さんがご神馬を引いた時の話だが、ご神馬が階段を駆け上がり、社殿を右回
りに三周するのだが、回る途中で転び、引いていた人間もろとも泥だらけになってしまっ
た事があるという。社殿の横、御輿が置いてあるところで転んだ。三山の相馬さんと二人
で引いていたのだが、二人とも泥だらけになってしまった。幸い怪我はなかったので良か
ったが、その時の事は今でもはっきり覚えている。                 

 神事が終わって馬を運んでいたところ車から落としてしまった事があった。軽トラの荷
台にコンパネで囲いを作って運んでいたのだが、馬が滑って落ちてしまった。怪我がなか
ったので良かったが、馬の世話係として胆が縮んだものだった。           
 昭和十六年の鉄砲祭りは大雪で大変だった。腰の根の馬小屋から馬に乗って原町まで来
たら積もった雪で歩けなくなってしまった。その日のお立ちは役員が総出で、みの・笠で
雪かきしてやっとの事で開催できた。あれだけ雪が降ったのはあの時だけだった。馬は軍
隊払い下げの将校馬だったが、うまくやってくれた。                

鉄砲祭りでご神馬係をしている写真。お立ちの写真も多い。 わらじを編んでもらった。目の前で鮮やかに出来てゆく。

 昭和三十年頃、宮司さんが「わらじがなくて困ったい…」と言っていたのを聞いて、わ
らじ作りを始めた。もう六十年以上前のことだ。毎年十一月から翌年用のわらじを作り始
める。大名行列のわらじは鳥毛組十二足、お徒士組十足を作る。多少大きさを変えて作り
使う人の履きやすさを考える。ご神馬引きのわらじは十足だが、一廻り大きく作る。ご神
馬のわらじは八個作る。                             
 半年以上かけて作るのだが、ほとんど一年中八幡様の事を考えているという。今年は手
の調子が悪いので早めに作り始め、もう全部作り終わったとのこと。         
「今年は何とか間に合いそうだが、今後はどうなるかわからないねぇ…」とつぶやく。 

 一番の問題は後継者がいないこと。九十四歳という高齢の米吉さん。今後はどうなるか
わからないと言うのは正直なところだ。今、わらじを編める人は本当に少ない。技術を伝
えるにも後継者がいなくては何も出来ない。米吉さんは、自分の健康よりもお祭りの事を
心配している。                                 
「誰かがやってくれればって思うんだけどねぇ…、氏子総代が言い出してくれればって思
うんだけど、自分からはなかなか言い出せないしねえ…」              
 お祭り以外でも、頼まれて歌舞伎で使うわらじを編んでいる。歌舞伎のわらじは舞台で
使うだけなので、ワラだけで編む。ワラ一色の昔ながらのわらじだ。         
「その場だけだし、舞台だけだからそれでいいって思ってるんだぃね…」と米吉さん。 
 作ったわらじを秩父駅の地場産センターで売った事もあるけど、今は出していない。 

 米吉さんのわらじ作りを見せていただく。材料のワラは編む専用のワラを農家から買っ
ている。一年中作るための量を買って、保管しておく。水で湿らせたワラを木の台に置き
、木の槌で叩いて柔らかくする。古いワラの方が柔らかくていいと米吉さん。     
 二尋の長さの芯縄はすでに出来上がっており、まずその芯縄にロウを塗ることからわら
じ作りが始まった。ロウを塗るのは滑りやすくするため。足の指にかけてピンと張った縄
にロウソクのロウを塗りつける。                         
 中央を二重の輪にしてつま先から編み始める。つま先は布をワラに巻き付けて編む。二
重の輪の左右の親指に引っ掛けてわらじを編む。ワラを足すのは一本ずつ均等になるよう
に足して編む。二本にするとわらじが厚く大きくなってしまうとのこと。       

 わらじで大切なのが縄を通す「ち」と呼ぶ輪。この「ち」を四ヶ所取り付けるのが作業
の肝になる。「ち」は布をワラに巻き、固く捻って作る。力が加わる場所なので、しっか
りと作って編み込む。「ち」の編み込みは布を使って補強する。           
 そして更に大事な箇所がかかと作り。親指にかけて作業していた縄部分が最後にかかと
になる。芯縄を引いてかかと縄の長さを調節し、後方の「ち」に通る長さにする。二本の
輪の元をワラでグルグルと巻いて止めればかかとの出来上がり。           
 米吉さんの手と指の動きは迷うことなくわらじを編み上げ、その鮮やかな手さばきに見
とれてしまった。時間にして三十分という速さで一個のわらじが出来上がった。    

作ったわらじを履いて見せてくれた。履けない人も多いという。 出来上がったわらじ。これを毎年32足作らなければならない。

 出来上がったわらじを米吉さんが履いて見せてくれた。「今時の若い人はわらじの履き
方がわかんねぇんだぃ。この前もかかとを前にして履いている若い衆がいて、おめえそん
な履き方じゃ脱げちゃうぞって言ったんさあ…」と笑う。かかとの二つ輪が鼻緒に見えて
しまうらしい。わらじを普通に履くと足指は本体からはみ出す。わらじはかかとで履けと
言われるのはそういう意味だ。昔の人はこれを履いて長旅をしていた訳で、足裏は石のよ
うになっていた事だろう。それはずっと昔の事ではなく、ほんの五十年前の事なのだ。 

 米吉さんの健康が心配だ。わらじ作りの技が絶えてしまうのも心配だ。八幡様のお祭り
がこのまま続けられるかどうかも心配だ。心配事はたくさんあるが、なるようにしかなら
ない。必要であれば誰かが継ぐし、形を変えて続くかもしれない。          
 多くの手技が消えて、新しい物に置き換わった。山里の細々と続いて来た手技が消える
事は悲しいことだが、それを止める術がない。お祭りの手技も同じ事。時の流れを止める
ことは出来ないし、若者にそれを強いることも出来ない。              
 今ここでこうして逸見米吉さんの技を絵にすることが出来た事を喜びたい。米吉さんの
やって来た事を残すこと出来た。間に合って良かった。