山里の記憶196


囲炉裏:出浦清平さん



2017. 3. 23


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 三月二十三日、下吉田の粟野山(あわのやま)に囲炉裏の取材に行った。取材したのは
出浦清平(きよへい)さん(九十二歳)で、粟野山という山の家にある囲炉裏で火を燃し
ながら、いろいろな昔話を聞いた。                        
 囲炉裏はずいぶん前から探していた。今、囲炉裏のある家は別荘とか民宿しかなく、ま
た、あっても直火ではなく炭専用だったりして形だけのものになっている。実際に火を燃
して使える囲炉裏は本当になくなっていた。今回はたまたま住んでいる家ではないが、実
際に使える囲炉裏があると聞いて取材を申し込んだものだった。           

 約束の時間に伺うと、家の前で清平さんが待っていてくれた。すぐに車に同乗してもら
い粟野山を目指して出発した。もともと家があった粟野山は吉田市街から三キロほど林道
を登った山の中にある。三年ほど前に林道がやっと出来て車で行けるようになったが、そ
れ以前は歩いて山を登るしか方法がなかった。清平さんの足で四十分強の時間がかかった
山道だったそうだ。車で行ける林道とはいえ荒れていて、軽トラか四輪駆動の車でないと
走れないような悪路だった。慎重にゆっくり路面を選びながら、山の家まで走った。  

自宅から三キロ山の中に入った粟野山にある山の家。 山の家周辺を案内してくれた清平さん。

 山の家の引き戸を開けるとそこに囲炉裏があった。普段はダルマストーブを使っている
のだが、今回の取材の為にストーブを外しておいてくれた。ストーブを外せばそのまま囲
炉裏になる。さっそく薪を運んで火を点ける。清平さんの火付けは鮮やかで、すぐに火が
点き、自在鉤に真っ黒な鉄瓶が吊された。                     
 マッコの一辺を切り取り、土足で囲炉裏が使えるように工夫しているのはアイデアだと
思った。これなら地下足袋を脱がなくても暖まることが出来る。木をくべるのも楽だ。 
 囲炉裏の煙は屋根の隙間から外に出るように作られている。真っ黒に煤けた神棚には、
真っ黒な恵比寿様が鎮座している。火の神様のしめ縄や幣束も煤けて良い感じだ。梁や天
井も黒く煤けている。何より懐かしい煙の匂いに包まれた部屋だった。        
 ちろちろと燃える火、立ち上がる煙を見ながら清平さんにいろいろ話を聞いた。囲炉裏
端での話は火を見ながらゆったりした気分で始まった清平さんの昔話だった。     

 清平さんは五歳までこの家で暮らした後、東京に転居した。小金井市で育ち、横須賀に
移り、昭和十七年に海軍師範学校に入り、練習生として印刷所に勤めていた。     
 終戦の年は浜松の海軍第二海兵隊で新兵として訓練を受けていた。終戦は法律学校で勤
務していた時に迎えた。                             
 二十歳で家に帰って来たのだが、不便だと言うことで山の家から吉田市街地に家を建て
て移り住んだ。山の家はそのまま残し、畑仕事や炭焼きの合間に使うような形になった。
 畑が一町歩ほどあったので、歩いて畑に通う毎日だった。畑が多くあったので供出は大
変だったが食べる事に苦労はしなかった。サツマイモや小麦を作り、養蚕も年に三回の出
荷をした。春蚕・夏蚕・秋蚕と出荷した。粟野山は気温が低かったので、晩秋蚕(ばんし
ゅうさん)は出来なかった。養蚕をしながらインゲンやキュウリの出荷をしていた頃が一
番大変だったとふり返る。                            

 中でも頑張ったのは竹の出荷だった。家の裏に大きなマダケの林があり、三年物を束に
して出荷するのが十一月から二月までの大仕事だった。一日に五回山と下を奥服した。三
キロ弱の山道を朝四時起きで登り、朝飯前にひと担ぎして、午前中に三回、午後二回と五
往復した。竹は束にして二束を背負子の両側にくくりつけて担ぎ下ろした。      
 ガラと呼ぶ細い竹は三五本を一束に、四寸の竹は一二本、五寸の竹は七本、六寸の竹は
五本、八寸の竹は三本、九寸の竹は二本を一束にした。竹は竹細工に加工するもので、下
ろせば下ろした分飛ぶように売れた。当時は竹業者が先を争って買ってくれた。生活の為
だったので清平さんも本気で頑張った。毎年何十荷と竹を出荷した。         

 竹を束にして運ぶのは神経を使った。竹は長さが十メートル以上と長いので山道のカー
ブで木に引っかかったりすると元に戻れず往生した。束の先端には本当に神経を使って担
ぎ下ろしたものだった。また、滑りやすいのでずり下ろしているとすぐに束がゆるんでし
まう。途中で何度も縛り直したりして下まで運んだものだった。           
 貴重な現金収入になった竹の出荷だったが、昭和五十年くらいからプラスチックが使わ
れるようになり、竹製品の需要がなくなってしまった。               

 自在鉤に吊り下げた鉄瓶の湯が沸くと、コポコポと急須に注ぎ、お茶を入れてくれた。
昔はこの囲炉裏に鍋を掛け、おつゆを作った。ご飯はかまどで炊いた。        
 清平さんは二十四歳の時に縁があって泉田のきく代さんと結婚した。きく代さん二十二
歳の時だった。結婚式は自宅で挙げた。それから長いことけんかもせずに畑仕事に精を出
し、三人の子供を育て上げた。山の畑に通う淡々とした毎日だった。きく代さんは七十歳
の時に病が元で他界した。もう十九年も前のことになる。              
「そうだいねぇ、何でも二人でやってきたからねぇ…」と清平さんも昔をふり返る。  

囲炉裏で火を燃しながらいろいろ話を聞いた。火が暖かい。 鉄瓶にペットボトルの水を注ぐ。この囲炉裏は一辺がなく土足で使える。

 外の作業を終えて囲炉裏端に来た息子の定市さんと嫁のひろ子さんを交えて話に花が咲
いた。今、畑仕事はほとんど定市さんに引き継ぎ、清平さんは草取りとか簡単な野菜作り
をしているのだという。「もうはあ、腰が痛くて大義だし、力仕事はできねぇし…」  
 山の畑では今、インゲンやサツマイモを作り、椎茸も出荷している。林道が出来て車が
入れるようになったので出荷作業はずいぶん楽になった。粟野山耕地には昔五軒くらいの
家があってたくさん人もいた。作物を出荷する人も多かったのだが、今は少なくなってし
まった。耕す人がいなくなれば畑はすぐに荒れ地になってしまう。          
 山の畑は猪や鹿の獣害が多く、その対処が大変だ。サツマイモを作っているので、特に
猪の被害が深刻だ。猪は五・六頭で入って食い荒らすので、一回入られると被害は深刻な
ことになる。猪は旨い芋とまずい芋を食い分けると清平さんはため息をつく。畑は網や電
気柵で囲んで守っているが、全部は防ぎきれないという。              
 筍も猪に食われる。これは畑と違って防ぎようがない。猪が先か人間が先かという感じ
で、まだ掘るのが早いかななんて思っていると先に食われてしまう。猪と競争だ。   

 山の家の周囲を歩いて見た。裏の杉林には椎茸のほだ木がきれいに積まれていた。柚子
の畑があり、大きな柚の木が並んでいる。銀杏の木も実を収穫して出荷するためのものだ
そう。この山の中にこれほどの畑があるとは思わなかった。             
 隠れ里のような場所だが、もともと出浦家の先祖は鉢形城から落ちた武将だった。鉢形
からモロクボに来て、さらに粟野山へと移ってきた。清平さんで十五代目になるという旧
家だ。粟野山耕地の家はみな分家筋にあたるという。                
 山の家は今でもランプを使っている。電線が引かれていないので、電気製品を使うとき
は発電機を回している。炭焼きなどでこの山の家に泊まるときは今でもランプを使う。 
「発電機は燃料を食うからね…」とのこと。昔からランプ磨きは子供の仕事だった。鴨居
に掛けられたランプはピカピカに磨かれていた。ランプがまだ現役だとは驚きだった。 

三年前まで作物を運んだ山道。今は林道が通って使わなくなった。 家の敷地にある「秩父事件」の案内看板。ここが発祥の地だった。

 少し山を下りて、清平さんが竹を背負って運んだという山道を歩いてみた。車が走れる
林道が出来たのは三年前のことだ。それまでは全ての物を自分の背中で運んだ。片道一時
間弱の山道を一日に四往復も五往復もしたという。                 
 一町歩の畑で出来る作物は全部背負子で運び下ろした。肥料などは全部背負子で上まで
運んだ。今は自動車が走れるが、八十八歳の時まで自分の背中で運ぶしかなかった。時に
はバイクで急坂を走ったり、クローラーを使ったりしたが、基本は自分の背で運んだ。 

 山の家からは正面に武甲山が見え、吉田の市街地が見える。家の敷地内に秩父事件の案
内看板が立っている。秩父事件の発祥の地でもあった粟野山。近くに賭博岩があって、そ
こで秩父事件の主役達が密会していたのだと書いてある。確かにここは、吉田・石間・阿
熊の中間にある。密会の場所には最適だった。しかし、清平さんの家は仕事一筋で秩父事
件には参加しなかった。今でも真面目にコツコツと働くことが信条だと清平さん。定市さ
んとひろ子さんが真剣にインゲンの栽培方法などを話し合っているのも、この家族ならで
はなんだろうなと思った。                            
 山の家には二本の大きなヤマザクラがあった。平地より四日ほど咲くのが遅いという事
だが、この大きなヤマザクラが満開になったらさぞ見事だろうなあと思った。