山里の記憶194


鹿煮:磯田守弘さん



2017. 1. 26


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 一月二十六日、氷柱で有名な大滝の三十槌(みそつち)に「鹿煮」の取材に行った。取
材したのは磯田守弘さん(七十二歳)だった。守弘さんは長く大滝村の助役を奉職し、そ
の後は町会長を三期六年務めた人だ。趣味は狩猟で、猟師歴は五十三年にもなる。   
 以前、守弘さんに「鹿煮」を頂いて、その旨さに驚かされ、再度の取材を申し込んだも
のだった。とにかくクセがなく、柔らかく旨い鹿煮で、他の料理にも使えるという優れも
のだった。作り方を取材して、多くの漁師さんが悩んでいる鹿肉消費に少しでも貢献でき
ればと思ったのがきっかけだった。                        
 鹿肉はおいしい部位が限られているし、食べ方も限られているというのが今までの印象
だった。しかし、この方法で調理すれば、様々な料理に転用できる広がりを持つ。新しい
鹿肉料理につながる可能性が大きい調理法だ。とても楽しみにしていた取材だった。  
 守弘さんは長く狩猟をやって来たので、様々な食べ方を工夫してきた。その中で、この
食べ方が一番飽きなくて多くの人に喜ばれる食べ方だという。            

 約束の時間に伺うと、すぐに裏の作業小屋に案内された。薪ストーブが燃えて大きな鍋
がかかっている。鍋にはすでに煮込まれた鹿肉が入っていてこれから仕上げの段階に入る
という事だった。この鍋には五キロの鹿肉が入っている。部位は主に肩肉や足肉で、水だ
けで煮た白煮(しらに)。最後に味付けをする。                  
 別の鍋にはまだ煮ていない鹿肉が入っている。三キロの鹿肉で、こちらは主に筋肉など
の肉が入っている。筋肉は煮る時間が少し長くなるがコラーゲンが多く含まれていて、女
性に喜ばれる。五キロの鍋の仕上げと、三キロの鍋を煮る過程を取材させてもらった。 

鍋に入っているのは鹿の筋肉3キロ。これをこれから煮る。 鹿肉を煮ながら狩猟の話や食べ方の話をしてくれた守弘さん。

 鹿肉をひたすら四時間煮るという作業は単純だが奥が深い。守弘さんの話では、四時間
煮ればどんな鹿肉でもおいしく食べられるとのこと。だが、煮る前の肉が問題だ。五十三
年の猟師歴を持つ守弘さんだからこそ出来る料理でもある。鹿を撃って、その場で血抜き
と解体をする。その手順が遅くなると肉はおいしく食べられない。鹿は死後一時間で腹に
ガスが溜まり、そのガスが肉にまで回ってしまう。ガスが回る前に解体しなければ食べら
れない肉になってしまう。                            
 狩猟で鹿を撃った時はすぐに腹を出す。水や雪があれば腹に詰めて腹を冷やす。肉は冷
やすのが一番で、冷やせば旨く食べられる。その後皮剥ぎ、大ばらしという解体をする。
腹を捨てると持ち帰るのも軽くなって楽だ。いくつかに切り分けて自宅に持ち帰り、猟師
小屋で骨抜きと解体をする。解体した肉は参加者に均等に分ける。          
 ロースやあばら肉、モモ肉は人気がありみんな喜ぶ。中にはレバーやハツを持ち帰る人
もいるが、守弘さんは持ち帰らない。内臓や皮は山に残し、キツネやテンの餌にする。 

 切り分けた鹿肉はすぐに冷凍する。ロースやあばら肉など人気のある肉はすぐに食べる
のだが、足肉や肩肉、筋肉などはあまり食べる人がいなかった。野菜と煮込んだりして食
べたのだが、すぐに飽きてしまい、どうやって食べるかが問題だった。        
 試行錯誤が続いたが、肉だけ煮るというシンプルな料理が評判良かった。柔らかい鹿肉
はみんな喜んでくれた。柔らかく煮た鹿肉は、そのまま食べても旨いし、他の料理に加え
て食べる事も出来る。そんなおいしさと便利さが良かった。             

 三キロの鹿肉を煮る。薪ストーブにかけられてすぐに煮立った鍋にはアクが浮き上がる
。これをきれいに取り除くのが一番のポイントだ。アクは次々に浮き上がり、層になる。
それをどんどん取り除く。「これだけはちゃんとやらないとね…」と手が忙しく動く。 
 一旦アク取りをしてからしゃもじで全体をかき回す。するとまた大量のアクが浮き上が
ってくる。「何度もこうやってアクを取るんだい…」アクは次々に浮かんで、取られて捨
てられる。そのうちに白い泡が浮かぶだけになってきた。「この白いのは脂なんだいね、
煮てる間ずっと出て来るんだよ。もう一段落かね…」とアク取りのお玉を置いた。   
 小さいボウルに三個分のショウガスライスと三玉分のニンニクが入っている。守弘さん
がこれを鍋に投入する。急にショウガの香りが立って鍋の中の肉が食べ物らしくなった。
「ニンニクは溶けちゃうけど、ショウガは残るよね。ショウガは食べられるしアクセント
になるからね…」とのこと。                           
 ここで作業は一段落。これから四時間ことこと煮込む。ストーブにはやかんが掛けられ
ていて常に湯が沸いている。鍋の煮汁が少なくなったらヤカンのお湯を足して煮続ける。

 守弘さんがこうして鹿煮をするようになったのは二十年くらい前からだ。その前は野菜
を入れて煮たりしていたのだが、猪や熊は旨いのだが、鹿は旨くなかった。何度も試行錯
誤してこの方法に辿り着いた。                          
 薪ストーブで四時間煮る。圧力鍋で時間を短縮して煮た事もあったが肉の味が落ちる事
もわかった。薪ストーブでなくても四時間煮れば大丈夫だろうという。ではなぜ薪ストー
ブなのか。それには別の理由があった。                      
 薪ストーブでは浅木しか燃さない。浅木とは広葉樹のこと。黒木と呼ばれる杉やヒノキ
の針葉樹は燃さない。この薪ストーブの役目は広葉樹の灰を作ること。広葉樹の灰は貴重
なもので、ていねいにふるいをかけて一斗缶に保存される。             
 この灰は栃餅作りでトチのアク抜きに欠かせないものだ。大量の薪を燃しても灰はいく
らも作れない。こうして何時間も燃やす作業が灰作りに欠かせない。鹿煮は鹿肉を柔らか
く煮ることと貴重な灰を作ることが同時に出来る作業だった。            
 奥さんのエミ子さんが作る栃餅は絶品で、大滝村を代表して県知事へのお土産品になっ
ていたことがある。そんな栃餅作りには広葉樹の灰が欠かせない。          

 白煮した鹿肉に最後の仕上げをする。仕上げは味付け。鹿肉は味付けして煮込むと固く
なる。最後の最後に味付けして煮浸し状態にして冷ますのが守弘さん流の鹿煮だ。固くな
らないように細心の注意を払う。こうして作る鹿煮だからホロホロと柔らかく、薄味で他
の料理に加えることが出来る肉に仕上がる。                    
 味付けはみりんをお玉五杯、醤油をお玉一杯だけ。これで煮浸し、冷めたら出来上がり
だ。冷めるとコラーゲンが固まって白くなるが味は変わらない。           

お昼は奥さんのエミ子さんが手打ちうどんと天ぷらを作ってくれた。 薪ストーブは栃のアク抜き用に灰を作っている場所でもあった。

 作業が一段落し昼になったので母屋に戻ると、奥さんが手打ちうどんを作って待ってい
てくれた。牛蒡のかき揚げとサツマイモの天ぷらが山盛りになっている。「さあさあ、食
べて食べて…」という声にうながされてお椀を取る。腰が強くおいしいうどんとカリカリ
の牛蒡かき揚げを食べながら守弘さんに猟の話を聞いた。              
 最初は十年くらい鳥撃ちをやっていた。獲物は主にヤマドリだった。面白いように獲れ
たヤマドリが少なくなるのと同時に猪や鹿が増えて来て、大物撃ちに変わった。昔は鹿や
猪はほとんどいなかった。今はどこでも鹿や猪の害に悩まされていて、いつでも駆除に出
かけるようになった。                              

この作業小屋は守弘さんの手造り。ヒノキの間伐材で造った。 炬燵でいろいろ話してくれた守弘さんと奥さんのエミ子さん。

 鹿肉はロースやももの肉をたたきで食べるのが旨い。しゃぶしゃぶも旨い。熊と十二月
の猪は脂が乗っているので野菜と煮込むのが旨い。十二月の猪は焼いても旨い。鹿を撃っ
て解体する時に脳髄や脊髄を生で食う人がいたが、守弘さんはやった事がない。    
 鴨肉はすき焼きが旨い。深谷に鴨撃ちに行ったことがある。獲った鴨は熱湯をかけて羽
根をむしる。水を掛けても脂が水をはじいてしまい羽根がむけない。最後に残った毛はバ
ーナーで焼く。鴨肉をスライスして濃い味付けのすき焼きにする。最後にどんぶり一杯の
大根おろしをザッと入れて一緒に食べるとバカ旨だった。個人的に一番旨いと思うのは十
二月の猪のモツと熊のモツ。これを野菜と煮るのは絶品だった。           
 守弘さんの狩猟話はどこまでも続いていたが、出来上がった鹿煮が冷めたので、奥さん
が巨大なタッパーに二つも詰めてくれた。五キロの肉を煮詰めた鹿煮が詰まっている。近
所や知り合いに配って食べてもらおうと思う。まだ雪が残って寒い大滝だったが、温かい
鹿煮は最高のお土産になった。                          

 この鹿煮は様々な料理に転用できる。友人はビーフストロガノフを作った。また、カレ
ーにした人もいる。さしずめ鹿ストロガノフ鹿カレーといったところか。他にも鹿ラーメ
ンや鹿パイも旨そうだ。我が家ではボルシチに入れてみた。鹿肉はホロホロと軟らかく、
クセのない味でとてもおいしいボルシチに出来上がった。