山里の記憶191


ドラム缶炭焼き:黒沢幸男(さちお)さん



2016. 10. 12


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 十月十二日、小鹿野町両神にドラム缶炭焼きの取材に行った。ドラム缶炭焼きを取材し
たのは串脇耕地の黒沢幸男(さちお)さん(八十五歳)だった。今までに二度お互いの都
合が合わず取材の話が流れて、三度目に実現した取材だった。            
 自宅に伺って挨拶をしたら、幸男さんはすぐに窯を見に行こうと言う。家の前の道路の
反対側の畑に炭窯があるという。指さす先には白い煙を上げている煙突が見えた。一緒に
歩いて畑に行く。畑の手前で幸男さんが地面を指さす。見るとひどく荒れている。「イノ
シシが夕べ来たんだぃな。まったくミミズを狙ってるんだろうけど迷惑なこった…」  
 畑は防獣ネットに囲まれているので無事だが、周囲は掘り返したようにグシャグシャに
なっていた。奥山の畑は終始イノシシの被害を受けている。             

畑の中に建ててある炭焼き小屋。窯二基と薪置き場、倉庫がある。 火が点いている窯の横で幸男さんにいろいろ話を聞く。

 大きなトタン屋根の下にドラム缶製の炭焼き窯が二基作られていた。一つの煙突からは
盛んに白い煙がモクモクと出ているが、もう一つの方は煙が出ていない。       
 「煙が出てるんは、今朝火を点けたんだぃ。あっちのは明日炭出しする窯だぃね…」 
 二つのドラム缶窯を交互に使いながら炭を焼いているのだ。まだ使っていないドラム缶
や使い終わったドラム缶が並んで置かれていた。「大体一年炭を焼くとドラム缶もダメだ
ぃね。火を入れると真っ赤になるくらい高温になるんだから、まあ仕方ないよね…」ドラ
ム缶は消耗品のようだ。                             
 窯の反対側には薪が何重にも積み上げられている。四トン車一台分以上の薪、これだけ
で一年分以上の薪になるという。「大体百袋分くらいの薪だぃね。ナラやケヤキやクヌギ
が多いかな…」木を運ぶクローラカートという運搬車が横に停めてある。軽トラで道路脇
まで運んだ薪を、このクローラカートでここまで運ぶ。「トッコトッコって、ゆっくり運
ぶんだぃ…」と笑う。                              
 もう一つ小屋があって、そこは倉庫だった。紙袋に入った製品の炭がギッシリと積み上
げられている。聞くと四百袋以上あるという。炭は道の駅などで販売をしているが、なか
なかすぐに売れるものではないらしい。「冬になれば出るよ…」とのこと。二年分の焼い
た炭が積み上げられている。                           

別棟の倉庫には紙袋に詰められた炭が積み上げられていた。 道路から小屋まで薪を運ぶクローラカート。

 まだ熱い窯の横で幸男さんからドラム缶で焼く炭焼きについて話を聞いた。     
 幸男さんがドラム缶の炭焼きを始めたのは十年前の六十五歳の時からだった。長年の山
仕事や最近の「空師」の仕事でたくさんの木が入ってくるようになり、その木を利用する
為に炭焼きを始めた。農林省か何かの本にやり方が書いてあったのでやってみた。最初は
ドラム缶を切って薪を詰め込む方法でやってみたのだが上手く行かなかった。そこで、い
ろいろ試行錯誤した結果今のやり方になった。昔、炭を焼いていた事があるので、その知
識と経験が役に立った。今はほとんど失敗することなく良い炭が焼けるという。    

 横にしたドラム缶の上中央に四角い穴があり、薪はそこから詰める。一杯詰めたら蓋を
して、全体に土をかける。土は畑の土で、厚さは六センチくらいまでかけてドラム缶を覆
う。「もっと厚くかけりゃあいいんだが、よいじゃあねえんで、安全な厚さを確保出来れ
ばいいって思ってるんだぃね…」と、幸男さんは言う。土をかけるのも体力仕事だ。  
 火を燃す焚き口は一斗缶で作られている。一斗缶の下を空けた場所でヒノキの薪を燃や
し、ドラム缶の中に火を送り込む。ドラム缶には小さな穴が空いており、そこからドラム
缶の中全体に火が伝わる仕組みになっている。ドラム缶後方には煙突が設置されており、
熱はドラム缶全体を回って煙突から外に出る。                   
 朝、火を点けて翌日の昼に火を止める。ドラム缶は熱が回って真っ赤になっている。煙
突の煙が白から青く変わるのが火を止める合図だ。焚き口をブロックで覆い、泥で空気を
遮断する。煙突もふさいで空気を遮断する。ドラム缶の中では高熱で薪を蒸し上げるよう
な形になる。このまま三晩放置して冷ませば炭が焼き上がる。基本的は大きな窯で焼くの
と同じ方法ということになる。タイミングや火の扱い方などに昔の経験が生きている。 
 薪の上の方約二分がとぼる(焼き消える)が、立派な黒消し炭が出来上がる。一回焼く
と紙袋二袋の炭が出来上がる。紙袋に詰めるのは奥さんの仕事で、炭を詰めた紙袋は倉庫
に積み上げられる。                               

 炭焼きの時には煙から木酢(もくさく)を採っている。垂直の煙突は四尺で、そこから
斜めに十二尺の煙突を伸ばして煙を誘導する。煙には大量の酢酸(さくさん:刺激臭のあ
る気体)が含まれており、長い煙突で冷やされた酢酸が木酢液となり煙突手元に垂れてき
て、バケツに溜まるようになっている。ポタリポタリと、見ている間にも木酢液がバケツ
に垂れていた。少しずつだが長い間には大量の木酢液が採れる。           
 この木酢液はペットボトルに詰めて売る。多くは薄めて畑の土壌消毒や防虫剤などに活
用されている。二リットルペットボトル一本で千二百円くらいになる。        

焼いた炭はこうやって紙袋に詰め込まれる。 温かい窯の横で昔の話や家の話などをしてくれた幸男さん。

 炭焼き小屋の椅子に座って幸男さんからいろいろな話を聞いた。          
 この耕地は串脇(くしわき)という耕地で、昔は六軒の家があったが、今は五軒になっ
ている。耕地の家は全部黒沢姓で、幸男さんの家が一番古い。本家のような家に当たり、
他の家は分家のようなものだという。築二百年の家を三十歳くらいの時に建て替えた。昔
の家の柱は全部栗製で、チョウナやヨキではつって(はつる:削る)ある柱だった。  
 新しく建てた家だったが子供が大きくなったりして、六十五歳の時に再度立て替えた。
今の家は幸男さんが建てた二軒目の家になる。その家ももう二十年になる。      

 昔からの家例を聞いてみた。幸男さんの家では正月にお雑煮を食べない。三が日をお粥
で過ごすという家例がある。お正月を「ゆるやかに過ごす」というご先祖の言い伝えだ。
お餅を搗かない訳ではなく年末の三十日に餅を搗き、正月の間に食べる。三が日だけお粥
を食べる。他にも家例がたくさんあったが、新しい家になって消えてしまった。    
 幸男さんは長く山仕事を生業にしてきた。架線を張る集材作業もやったし、伐採もやっ
た。当時まだチェーンソーはなく、すべて長いノコギリを使って自分の手で伐り倒した。
行田や加須で伐木の仕事も多かった。いわゆる「空師」の仕事だ。          
 平成の始めはいくらでも木材が売れた。六十五歳の頃が絶頂だった。人間一生の間に運
が来る事は必ずある。あの頃がまさにそうだった。五〜六年間だったが、本当に何をやっ
ても上手くいった。今使っているトラックもその時に買ったもので、二十四年も乗ってい
る。家の建て替えが出来たのもその時期だった。                  

 仕事は順調だったが、幸男さんの体に異変が起きたのは七十五歳の時だった。腰が痛い
からと医者にかかった。ところが医者に診てもらったら胃がんだった。急遽埼玉医大で四
時間の大手術をして、胃を切った。目が覚めたのはベッドの上だった。今まで本当に丈夫
だったので、まさに晴天の霹靂だった。                      
 胃がんの手術後は無理が出来ない体になったが、何とか持ち直して普通に生活できるよ
うになった。幸い良性だったようで再発もなく、来年で十一年になる。今では毎晩缶ビー
ル一本、お酒一合を飲むし、量は少ないが食事も普通に食べている。体の事を考えて今年
から長年親しんできたタバコをスッパリとやめた。タンと咳が出なくなって体がずいぶん
楽になった。今の炭焼きは健康のためにやっているのだという。毎日体を動かすことが健
康の元になっている。炭焼きをやっていなかったら早くもうろくしていたんじゃないかと
笑った。                                    

 炭焼きの他に畑もやっている。出荷はしないで自家用の野菜を作っている。今年は雨が
多くて野菜は不作だった。小豆やインゲンも今年は不作。柿は雨が多かったせいかみんな
落ちた。今年は果実も不成りの年のようだ。白菜や大根も苗の段階で雨にたたられ育ちが
悪い。こんな時はイノシシやシカの被害が多くなるので、しっかりと電気柵や防獣ネット
を張って畑を守っている。                            
 今は息子が後を継いで空師の仕事をしている。息子の仕事で出る木材を幸男さんがドラ
ム缶で炭に焼く。体の健康を気遣いながら小鹿野町で一人だけというドラム缶炭焼きを続
けている。八十五歳とは思えない働きぶりだが、「動いてないとダメだぃね…」と本人は
いたって淡々としている。長いまつげを風に泳がせながら「まだまだ色々やることがある
から…」と畑を見つめる。