山里の記憶190


ナスの佃煮:丸山ヒデ子さん



2016. 9. 09


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 九月九日、小鹿野町の三島にナス佃煮の取材に行った。取材したのは丸山ヒデ子さん(
七十六歳)だった。ヒデ子さんは合角(かっかく)に住んでいたが、合角ダムの建設で下
小鹿野の三島に移転して来た人だった。                      
 農協婦人部の仕事をしていた関係で、夏になるとナスやキュウリなどを頂くことが多か
った。その頂いた大量のナスやキュウリを美味しく食べるために佃煮を作りはじめたのだ
という。作った佃煮は煮沸したビンに詰め、知り合いに配って喜ばれている。     

ナスは洗ってヘタを取り、半分に切る。これを塩でまぶす。 切り面を垂直に立て、カメに詰める。6キロの重石で三日間浸ける。

 ヒデ子さんの佃煮作りはナス十個を半分に切って百二十グラムの塩をすり込んでカメに
三日間漬け込む事から始まる。一つずつナスを半分に切り、たっぷりの塩をこすりつけ、
切り面が縦になるように隙間なくカメに詰め込む。残った塩は上からかけ、六キロの重石
を乗せる。ホコリよけに上からビニール袋を掛ける。                
 カメに漬け込まれたナスはひと晩で水が出るがそのまま三日置く。水が出たナスをカメ
からボールに移し、塩抜きのため、ひと晩水にさらして塩抜きをする。途中何度か水を替
えて塩抜きをする。または水を少しずつ流しっぱなしにして塩を抜く。        
 塩抜きしたナスは、二ミリくらいの薄さに刻んで、水気をしっかりと絞る。この状態の
ものを食べさせて頂いた。ナスの食感だけが残るなんだか不思議な食べ物だった。   

 ここまでが下準備。ここから味付けが始まる。味付けに使うタレは砂糖三百三十グラム
、醤油二百五十グラム、みりん百グラム、酢百グラム、酒百グラムを使う。鍋に全部入れ
て煮立たせ、ナスを入れてかき混ぜる。                      
 ずっと強火で煮詰めるのだが、ここからは絶対に鍋から目を離してはいけない。しっか
り煮詰め、焦がさないようにかき混ぜ続ける。最後の仕上げは少し火を弱めて汁を飛ばす
ようにする。十五分から二十分煮詰めると汁がなくなるので火を止める。食べてみるとナ
スの歯ごたえが良く、みりんの照りがナスを半透明にして、見た目も旨そうな佃煮だ。 

タレは砂糖・醤油・酢・みりん・お酒で作る。分量は正確に。 塩抜きして薄切りし、絞ったナスをタレに加えて煮詰める。

 ここで準備しておいた生姜の千切り百グラム弱(細ければ細いほど味がよくなじむ)と
塩昆布四十グラム、ちりめんじゃこ四十グラム、ゴマ大さじ二杯を加えてよく混ぜる。 
 ゴマはヒデ子さんによると「邪魔にならない程度入れる」とのこと。混ぜるものは他に
もいろいろ試したのだが、結局今の四品に落ち着いた。ヒデ子さんによると「ナスが主役
だから、混ぜものでナスを追い越さないようにしている…」とのことだった。     
 ナスが熱いうちによく混ぜることが大切。冷めてから混ぜると味がしっくりしない佃煮
になってしまう。混ぜ終わってすぐ、熱いうちにひとくち食べてみた。濃い味でゴマが効
いていて生姜の香りが強く出て来る感じだった。                  
 このまま冷まして、煮沸したビンに詰めれば出来上がりだ。            

 鍋の佃煮が冷める時間、ヒデ子さんにいろいろ話を聞いた。ヒデ子さんは倉尾の日尾で
生まれた。                                   
 学校を出て農協の有線放送のアナウンサーをやっていたが、見合いの話があり、そのま
ま結婚することになった。昭和三十五年、ヒデ子さん二十歳の時のことだった。    
 結婚したのは丸山晧惟(てるよし)さんで、農協に勤めていた。晧惟さんが小学一年生
の時に父親を亡くしており、母親一人で育ててきたことから、母親の言うことを良く聞い
て守って、尽くすのが結婚の条件だった。日尾から合角(かっかく)の農家に嫁いだヒデ
子さん、慣れない農作業で大変だった。本当は富士電機などに働きに出たかったのだが、
子供は母親が育てるものだという家訓から、働きに出ることは出来なかった。     

 家は合角で一番下にある、大きな松の木が目印の家だった。家ではキュウリの栽培や年
に二回の養蚕をやっていた。ヒデ子さんはお蚕が苦手で触ることが出来ず、大変な思いを
した。周りは笑うが本人はイヤでイヤでどうしようもなかった。それでもダムの話が出る
までは平穏な暮らしだった。                           
 合角(かっかく)ダムの話が最初に出たのは昭和四十二年の始まりだった。最初は近所
の人から話を聞いたのだが、デマだと思った。                   
 しかし、ダムの話は徐々に大きくなって実際の話だとわかった。水没地域にあったヒデ
子さんの家は反対運動に巻き込まれ混乱が始まった。ヒデ子さんはダムの話はしたくない
ようだった。過去にどんな話があったのかは聞けなかったが、様々なダム移転の話を聞い
ており、その内容と同じ経験があったものと思う。それをことさら口にしたくないという
思いもよくわかる。                               

 ダムの話が始まってから二十年、昭和六十三年にここ三島に越して来た。二十年間の苦
労も大変だったが、ここに越して来てからも苦労の連続だった。           
 平成八年三月の事だった。それまで何の問題もなく八十二歳まで元気だったおばあちゃ
んが脳溢血で倒れたのだ。忘れもしない。初めてセブンイレブンが近くに出来たのでお弁
当を買ってきた。「おばあちゃんお弁当食べようよ」と部屋に行ったらおばあちゃんが倒
れていた。すぐに救急車を呼んで病院に運んだが、意識不明の寝たきり状態になってしま
った。                                     
 その半年後、今度はご主人が脳溢血で倒れてしまったのだ。まだ五十八歳、西武バスの
運転手をしている頃の事だった。ご主人は半身マヒの後遺症が残り、思うように動けなく
なってしまった。                                

 ヒデ子さんは二人の病院を回る看護生活を余儀なくされた。息つく間もなく働いた。孫
を背中に背負い、飯能の老人病院に通った。八年三ヶ月入していたおばあちゃんは平成十
六年に亡くなった。ご主人は三年前に他界された。本当に無我夢中の十年間だった。  
 ストレスから異汗性湿疹(汗疱:かんぽう)を発症し、両手が水疱と手荒れでひどく痛
かった。孫の世話も大変だった。二人目の孫も世話しながらの病院通い。とにかく大変な
十年間だった。                                 

 「そろそろ冷めたかね? 」とヒデ子さんが鍋を見に行く。少しお皿に盛ってくれた佃
煮を食べさせてもらった。熱いうちと比べて味が落ち着き、感じ方も変わった。熱いとき
よりもナスの食感が良く、生姜の味が後から出るように変わった。ジャコの食感もいい。
 「冷めた方がおいしいよね…」とヒデ子さん。納得の味だ。            

 ナス以外の料理も聞いてみた。キュウリやゴーヤは同じように佃煮にする。栗は渋皮煮
、トマトは甘酢漬けにする。その栗の渋皮煮とトマトの甘酢漬けがお茶請けで出され、食
べたらどちらもびっくりするような美味しさだった。特に栗の渋皮煮は今まで食べた渋皮
煮の中でも一二を争う旨さだった。                        
 ヒデ子さんはまた「えびし」作りの名人として新聞やテレビにも取り上げられ、有名な
人だった。えびしとは倉尾地方に伝わる郷土料理で、結婚式のお膳に欠かせない料理だっ
た。今では作る人も少なくなり、食べる機会もなくなっている。当時の雑誌や新聞の切り
抜きを見せて頂き、その名人ぶりがよく伝わってきた。               
 えびしの作り方は昭和六一年三月発行の「秩父ふるさとの味」秩父観光協会編や、昭和
六二年十月発行の埼玉銀行広報誌「朋:とも」などに掲載された。また平成六年九月十四
日放送のフジテレビ「どうなってるの!?」『健康の街・秩父』でもえびし名人として放
送されている。平成十三年には婦人部の体験発表会が東京であり「野菜作りで広がる大き
な輪」というテーマで十分間のスピーチをした。これは「家の光」に掲載された。   
 えびしは農協の婦人部長の頃、埼玉県の会議に持っていった事もあり、とても好評だっ
た。今でも老人クラブの会合などに作って持ち込むとみんな喜んでくれる。家族もみんな
えびしが大好きでよく作るのだという。                      

テレビ東京で「えびし作りの名人」として紹介された。 佃煮作りを終えてくつろぎながらいろいろ話してくれた。

 今は息子夫婦と孫の三世代四人家族で暮らしている。朝八時までにみんな家を出てしま
うのでその後は一人のきままな生活だ。「今がいちばんのんびりして、本当に良すぎてか
えって心配なの…」と笑う。カラオケやダンスを楽しみながら三百六十五日の食事を作る
日々。いろいろ工夫して料理するのが楽しいという。                
 「今やらないと、やる時がないでしょ」様々な料理を工夫するのが好きだというヒデ子
さん。苦労してきた人生だったが、今が一番幸せで怖いくらいだと笑っていた。