山里の記憶188


秩父いんげん:黒沢七五三男(しめお)さん



2016. 8. 16


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 八月十六日、両神の煤川(すすがわ)に秩父いんげんの取材に行った。取材したのは黒
沢七五三男(しめお)さん(八十六歳)だった。三年前までは大量にいんげんを栽培し、
出荷していたのだが、今は自宅用に栽培していて、食べきれない分を出荷している。  
 煤川という耕地はとても変わった場所にある。小森川沿いの県道から曲がりくねった道
を山の上まで走ると神社があり、その周辺に何軒もの家が重なり合うように斜面に建って
いる。この耕地の人々は急斜面の畑で昔からいんげんを栽培し出荷してきた。高地で霧が
かかることの多いこの場所のいんげんはとても柔らかく品質の良いものだった。    

 ご自宅の居間で冷たい麦茶を頂きながら、いんげんの栽培についての話を聞いた。七五
三男さんが栽培している品種はいちずいんげんで、昔から変わらない。収穫は朝のうちに
行う。その日のうちに出荷するのが原則だが、雨の日などは予定通りにいかない。濡れた
いんげんは乾かしてからでなければ出荷出来ないからだ。扇風機などを使って乾かすのだ
が、間に合わないときもある。そんな時は濡れたタオルで包んで一日保管する。    
 収穫したいんげんはすぐに選別する。選別には等級ゲージを使用する。いつも使ってい
るゲージを見せて頂いた。ゲージには四つの穴が刻まれていて、その穴を通すことで選別
するのだという。ゲージは太さの基準だった。                   

 太さのサイズをS 、M、L、Cの四段階で選別する。Sが細く、Cが太い品だ。更にスジ
ものやへこみのある品をBクラスに分ける。出荷する等級はAS、AM、AL、BM、BL、C
に分けられる。AMが一番で、BやCは値が下がる。選別からもれる品は知り合いに配った
り自家消費に回す。知り合いには喜んでもらっている。               
 いんげんは毎日収獲しなければならず、大変だった。七五三男さんは耕地の中だけでな
く、県道沿いにも畑があり、毎日軽トラで収穫していた。本当によく働いたものだと昔を
懐かしんでいた。                                

冷たい麦茶を頂きながらいんげん栽培の話を聞く。 一番近くの畑に案内してもらう。煤川の家は急斜面に密集している。

 話が一段落したので、畑を見せて頂いた。一番近くの畑をということで、車庫の下に広
がる急斜面の畑を案内して頂いた。二十度以上ある傾斜の畑に、トンネル栽培していた。
トンネルは斜面に対して縦型で、中をのぞくと階段状になっていた。人が楽に歩ける高さ
にアーチとネットが張られ、その上にいんげんのツルが伸び、葉が茂っている。    
 手の届く範囲に実が下がっていて、作業効率も良い作りになっていた。ここで七五三男
さんにいんげんの栽培方法について話を聞いた。                  
 畑に堆肥を入れるのが一番目の仕事で、苦土石灰も散布して、全体に耕耘する。耕耘機
は特別なもので、畑の上から下に向かって耕耘し、土が下に落ちないようにする。昔は手
掘りで上から下に向かって掘っていた、逆さっ掘りというとても体力を使う作業だった。
 元肥はボカシ肥料と苦土石灰、化成肥料を入れる。ボカシ肥料は小森の会員が手作りで
作っているもの。化成肥料はいんげん専用の肥料で農協から買って使う。       

 パイプを立て、太い棒を上部に組み、全体に網を掛ける。元肥の上に銀マルチを張る。
燃える炭を入れた空き缶でマルチを溶かし、植え穴を空ける。            
 種は二粒を直蒔きする。株間は畑の斜度によって変わる。急斜面になるほど、株間は広
くする。畑の別の場所に種を蒔き、芽生えのない場所などに後で植え付ける。二粒の種で
もほとんど正常に発芽するので予備の苗はあまり使った事がない。育った苗の良い方を残
して育てる。トンネルの上部から収穫するように上部を先に植え付ける。       
 ツルが伸びてきたらネットの上側に行くように誘引する。葉が出てきたら重ならないよ
うに葉を摘み取る。放っておくと葉がどんどん茂ってくるので、日光や風を通すために葉
を間引く作業が大切になる。これは病気予防にもなる。               
 消毒も大切な作業だ。べと病などの病気が出るので予防のために消毒する。葉裏をよく
見て一週間に一度くらい消毒する。                        

 煤川のいんげんは柔らかいと言われる。いんげんは霧が多いところほど柔らかくて美味
しいものが出来ると言われている。今は家で食べるためだけに作っているのだが、農協か
ら少しでもいいから出荷してくれと言われて、余ったものを出荷している。      
 朝、収穫したいんげんを選別し、等級別に箱詰めする。一箱に二キロのいんげんを詰め
、二箱を重ねてビニールヒモで縛って出荷する。農協で最終的に製品チェックする。  
 出荷場所は車庫の片隅。車庫のシャッターを半開きにしておくのが「出荷物があるよ」
という合図になっている。集荷トラックの運転手が山道を入らなくても遠くから確認出来
るように工夫されている。                            

いんげん栽培トンネルの中で、七五三男さんに栽培の話を聞く。 煤川のいんげん畑はみな急斜面に縦型のトンネル栽培。

 畑での話を終えて家に帰る途中の道に立派な消火栓があった。話を聞くと、この集落な
らではの防火体制がよくわかった。密集した家屋のどこで火災が発生してもあっという間
に火が回り、消防車が来る前に類焼してしまう。その為、迅速に自分達で消火活動が出来
るように訓練しているという。                          
 集落上部に大きな水タンクがあり、常に満水状態になっている。消火栓は三ヶ所あり、
すぐにホースを引き出して放水することができる。また、各家にも水タンクが設置されて
おり、すぐ使えるようになっている。消火栓や水道の水はとなりの山を越えて沢から引い
ている。このメンテナンスも集落の大切な仕事だ。                 
 七五三男さんの代になってから、この集落で三度の火災があった。いずれも近くで起き
た火災だったが、大事に至る前に消火することができた。奥さんは本当に怖かったと、そ
の時の事を話してくれた。                            

 昔(明治時代)からこの集落は「煤川十六軒」と呼ばれ、それ以後も家の数は変わらな
かった。陽の当たる山の中腹に広がる斜面を畑にし、畑の下の急斜面に石垣を積んで家を
建てた。陽当たりの良い土地は全部畑にしたが、その畑で生産できる食料では十六軒以上
の人を食べさせることが出来なかった。                      
 大正時代に富山から炭焼きが入り、その技術を習得して炭焼きを稼業にする人が出始め
た。炭を運ぶ為に山の中腹を等高線に沿って馬道が開かれ、馬を飼う人や馬方も出た。煤
川でも多くの人が馬を飼っていた。自分で焼いた炭を馬の背にくくりつけ、自分も背負っ
て小鹿野まで運んだ。朝、暗いうちに出て、帰るのは夜中だった。          
 大正八年に最奥の集落滝前に「まる共」(関東木材合資会社)が入り、原生林の伐採を
始めた事で更に状況が変わった。トロッコ道が敷かれ、多くの人々が移住して来た。しか
し、煤川では「まる共」の恩恵は少なく、馬方の仕事が減るという事になってしまった。
 「まる共」は原生林を切り尽くすと大滝の入川方面に移転した。その後、トロッコ道が
車道となり、現在の県道へと変わっていった。車の通る道路が出来た事で煤川の集落下に
煤川下という集落が成立することになった。煤川下の家々はほとんどが上の集落からの分
家だそうだ。次三男が分家して家を建てる。その仕事は炭焼きや伐採の仕事からチップ木
材の伐採や土木工事従事などへと替わってきた。                  

 今、煤川の集落は人が住んでいる家が六軒だけになってしまった。「昔は上に三十軒の
余あって、下にも二十軒の余あったんだけどねぇ…」と七五三男さんが言う。「煤川の獅
子舞ももう十年以上前からやらなくなっちゃったぃねぇ…」と奥さんもつぶやく。   
 毎年四月の十五日から神明神社のお祭りで、十七日に獅子舞と悪魔払いをしたものだっ
た。「前の日の十四日にはみんなでお祭りの花作りをしたもんだった…」若い人がみな出
て行ってしまい住んでいない。お祭りをやる人がいないのだ。            

慣れた手つきで消火栓の中を見せてくれた。よく手入れされている。 家の前で奥さんと。キキョウと百日草の花がきれいだった。

 七五三男さんは懸命に働いて来た。養蚕は家中でやった。寝るところもないほど蚕を飼
った。乾燥倉があって、繭をカラカラに乾燥させて出荷した。            
 コンニャクもやった。コンニャクはスライスして篠竹に差して干し、荒粉に加工して出
荷した。大きな缶に保存しておいて、値のいい時に出荷した。十貫の荒粉が七万円で売れ
た事もあった。コンニャクがダメになるといんげんを栽培して出荷した。しゃくし菜を出
荷したこともある。今も体がダメになるからと畑仕事を続けている。         
 働いて働いて五人の娘を育て上げた。みんないい子で料理上手だ。お盆や正月に帰って
くると娘が全部食事を作ってくれる。孫やひ孫たちとその料理を食べるのが今の楽しみに
なっている。「昨日までにぎやかだったんだよ」という顔はとても誇らしそうだった。