山里の記憶18


たらし焼き:新井ハツノさん



2008. 2. 10



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 2月10日(日)小鹿野町藤倉、山深い八谷(やがい)耕地、日陰には先週降った雪が
真っ白に残っていた。日当たりの良い山裾の南斜面に新井ハツノさんの家があった。今日
は、昔よく食べていた「たらし焼き」を作ってもらい、当時の話を聞かせてもらうために
やって来た。ハツノさんは81歳、まだ元気で普通に家の仕事をしている。予定の時間だ
ったので、挨拶も簡単に奥の囲炉裏部屋に案内された。囲炉裏にはだるまストーブが設置
されていて、すでに赤々と薪が燃えていた。ここも、昔は薪を直接燃やしていたのだが、
今は囲炉裏にストーブが置かれている。                      

 今日は、昔使っていたホウロク(焙烙:縁の浅い鋳物の鍋)を使ってもらい、「たらし
焼き」を作ってもらうことになっていた。ハツノさんは「ホウロクなんて、しばらく使っ
てねえから、加減が分からないやねぇ・・」と言いながら、すでに種が入れられたボール
をお勝手から持ってきた。                            
 ボールの中身は小麦粉と刻みネギと味噌を柔らかく練ったものが入っている。これをホ
ウロクで焼いたものが「たらし焼き」だ。小麦はハツノさんが自分の畑で作ったものを精
粉した。ネギも自分の畑で作ったもの。味噌は近くに住む妹さんが作った手作り味噌。シ
ソの葉を刻んで入れる人もいたが、今回は入れてない。               

囲炉裏にはだるまストーブが据え付けられていた。 ホウロクの上に油を引いてたらし焼きの元を入れるハツノさん。

 ストーブの火が一段落して落ち着いたところで、ホウロクを乗せる。ホウロクは鋳物製
なので、ガスコンロの火で焼くと穴が空くことがあり、直火でしか使えない。昔は囲炉裏
の自在鈎に吊って、豆を煎ったり、胡麻を煎ったり、「たらし焼き」を作ったりした。鉄
が厚いので余熱で焼いたり煎ったりすることのできる便利な鍋だった。囲炉裏が消えると
同時に使われなくなった調理器具の一つだ。                    

 「たらし焼き」は「こじゅうはん」によく食べられた。「こじゅうはん」とは、「小昼
飯」、つまり、「おやつ」のこと。山の畑仕事は重労働で、朝早くから働くと昼食だけで
は体が持たなかった。10時半と3時にこじゅうはんを食べるのが一般的だった。簡単に
食べられて、冷めても美味しいもの。家で食べるときは簡単に作れておなか一杯になるも
のが求められた。「たらし焼き」はそんな要素を満たすおやつで、子供達も大好きなおや
つだった。                                   

 「たらし焼き」と呼ばれるのは、小麦粉をゆるく溶いて、ホウロクに「たらし込む(流し
込む)」ところから、こう呼ばれるようになった。軽く油を敷いた上に溶いた種を、お玉で
すくって丸くなるようにたらし込む。小麦粉が焼けるいい匂いが漂ってくる。5つほど白
く丸い固まりを作って、上をフタで覆う。                     
 しばらくしてフタを開けると、白かった種が半透明になっている。菜っ切り包丁をへら
のように使って裏返すと、うっすらと焦げ目がついてじつに美味しそうな「たらし焼き」
になってくる。味噌の焦げた香りが何とも食欲をそそる。              

 焼き上がった「たらし焼き」をお皿に移す。「久しぶりなんで、あんばいが分かんねえ
けど、焼けたんかさあ・・」と心配そうなハツノさんを尻目にさっそく一枚食べさせても
らった。弾力ある身をちぎって口に入れた瞬間、味噌の香りが広がった。噛むとしこしこ
した歯ごたえ、そしてネギの味と広がる香り。「あれ? こんな旨いもんだったっけ?」
昔、子供の頃食べた「たらし焼き」の味と違うような気がした。地粉の味なのか、味噌の
味なのか、焼き加減なのか、とにかくこれは「旨い!」               

 炬燵にあたって「たらし焼き」を食べながら、ハツノさんにいろいろな昔話を聞いた。
 ハツノさんは26歳の時に武記(たけき)さんのところへ嫁に来た。実家からリヤカー
に嫁入り道具を積んで運んだ。大事な鏡台は、割れないように布団の間に包むように運ん
だという。1月3日に嫁入りし、まだ落ち着くどころではなかったその月の19日に、お
ばさんが嫁に出るという慌ただしさだった。月に二度もご祝儀をするという忙しい嫁生活
の始まりだった。                                
 それからは本当に忙しく働いた。多いときで10人が一つ屋根の下で暮らしていた。畑
仕事は食料の確保でもあり、手抜きは出来なかった。本当に忙しい毎日だった。    

炬燵や玄関先でハツノさんに色々な話を聞いた。 優しかったおばあちゃんのことを懐かしそうに話してくれた。

 そんな忙しさの中で、4人の子供を育て上げることが出来たのは姑さんの存在が大きか
った。子供らが一番手がかかるときに、おばあさんが世話をしてくれたおかげだった、と
ハツノさんは振りかえる。                            
「子供らを見ながら、お勝手の事は全部おばあさんがやってくれたんで、あたしは山仕事
が出来たんさあ」とハツノさんは言う。この時代、嫁、姑の仲が良かったのは珍しいこと
かもしれない。お舅さんが特に厳しい人だったので、ひときわおばあさんのやさしさが嬉
しかった。ハツノさんが45歳の時、おばあさんは69歳で亡くなった。脳溢血だった。
 やさしかったおばあさんとは19年間、生活を共にしたことになる。        
「いいおっかさんで、頭のいい人だった。本当にがまん強い人だったいねえ・・・」  
ハツノさんの懐かしそうな語り口が印象深かった。                 

 家中全部の仕事をやって、お蚕をやって、山仕事、畑仕事といつも忙しくて時間がなか
った。家は土間で玄関と裏口がつながっていた。忙しい時は土間で地下足袋を脱がずにお
勝手が出来るようになっていた。当時の家は皆同じ作りだったように記憶している。
 畑から戻ると手を洗っただけで、そのままうどん作りをしたり、風呂を沸かしたり、か
まどで湯を沸かしたりすることが出来た。井戸は外だったし、洗い物をしたり水くみをす
るのにも土間で表と裏がつながっているのは便利だった。薪を囲炉裏端に運ぶにも便利だ
った。ハツノさんはそんな土間を走り回って働いていた。              

 「たらし焼き」の材料にもなる小麦は山の畑で作っていた。2キロもある山道を武記さ
んは背負子で担いで来たものだった。畑で作っているのは小麦よりも大麦の方が多かった
。大麦は精米所で押し麦に加工してお米と一緒に炊いて主食にした。だいたい2割くらい
をお米にして炊くのが普通だった。押し麦とお米を一緒に炊くと、お米が沈んで炊きあが
る。そのため、炊きあがったご飯は上下をよく混ぜなければならなかった。子供達も心得
ていて、かき混ぜる役をやりたがった。自分の茶碗にお米を多く入れる技を使えるからだ
った。真っ白いお米だけのご飯は、お祭りと盆正月くらいしかお目にかかることはなかっ
た。                                      

 昔の現金収入は養蚕に頼っていた。ハツノさんの家でも、人間よりもお蚕様の方が家の
大部分を占めていた。桑畑から桑の葉を運ぶのが重労働だった。しかし、養蚕は生糸相場
の下落で仕事にならなくなり、その後はコンニャク芋の栽培が現金収入の道になった。コ
ンニャクは3年育てたものをスライスして天日で干したものを荒粉(あらこ)にした。荒
粉を南京袋に詰める形で農協に出荷していた。しかし、このコンニャクも相場が上下し、
その度に一喜一憂する状態には変わりなかった。                  

 ある時、コンニャクの荒粉一袋が5000円と値を下げた。武記さんはスッパリとコン
ニャク作りをやめた。持っていた種芋も全部スッパリと手放した。思い切ったことだった
が、その後の相場の推移を見れば良い判断だったと言われた。            
 その頃は砂防ダム建設や道路工事の仕事があったので、それで収入の道を作っていた。
その後は椎茸栽培を始めた。遠くのナラ山を山買いして、椎茸を作っていた。原木を運ぶ
のが大変な仕事だったが、現金収入の道はそれしかなかった。山仕事で現金収入を得るの
は本当に大変だった。二人とも健康で達者だったからこそ出来たことだと思う。    

日当たりの良い庭はご主人が作る盆栽で溢れていた。 この地方の人が良く作る「イワマツ(イワヒバ)」の盆栽。

 この八谷(やがい)耕地は昔、33軒の家があった。今は23軒になってしまい、その
うち5軒が連れ合いに先立たれたおばあさんが住んでいるだけの女所帯になっている。 
 若い人は都会に出て行ってしまい、山の畑をやる人もいなくなってしまった。しかし、
隣近所が助け合い、昔ながらの暮らしを今も続けている。その姿は羨ましくもある。  

 今、ハツノさんは腕に自慢の技術を生かして、梅干し作り、しゃくし菜漬け、タクアン
漬け、らっきょう漬け、七味唐辛子作りなどに余念がない。直売所で販売もしているが 
「えら作って、みんなに配っちまうんだいねぇ・・」と屈託なく笑っている。     
 頂戴した、らっきょう漬けも七味唐辛子も本当に美味しかった。飾り気のない人柄がそ
のまま味になっているようで、人気があるのも分かる気がした。