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山里の記憶178


浦山の山仕事:斉藤高之さん



2016. 2. 02


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 二月二日、秩父に昔の山仕事の取材に行った。取材したのは斉藤高之さん(八十歳)だ
った。体調が悪くて横になったままでの聞き取りだったが、浦山地区で行われていた昔の
山仕事のあれこれを取材することが出来た。                    
 高之さんが生まれて育ったのは浦山の寄国土(ゆすくど)という集落だった。今はダム
湖の湖底に沈んでいる消滅した集落だ。浦山ダムの建設では五十軒の家が移転を余儀なく
され、多くの集落がダムの湖底に沈んだ。寄国土、道明石(みちあかし)、森河原(もり
がわら)、大岩下(おおいわした)、土庄(つちしょう)などが湖底に沈んだ。    
 そして、ダムのせいで過疎になった事もあるのかもしれないが、多くの集落が廃集落に
なってしまった。若御子(わかみこ)、岳(たけ)、茶平(ちゃだいら)、武士平(ぶし
たいら)、大神楽(おかぐら)、山掴(やまつかみ)、栗山(くりやま)、冠岩(かむり
いわ)、細久保(ほそくぼ)などが廃集落になった。それそれ独自の歴史を持つ集落が消
え、更に過疎は進んでいる。現在も人が住んでいるのは大谷(おおがい)、日向(ひなた
)、毛附(けつけ)、川俣(かわまた)くらいになってしまった。          
 都市に近い山里が一番早く過疎が進むと言われている。秩父における浦山がその例なの
かもしれない。また、大きく見れば東京に対する秩父もその例なのかもしれない。   

 高之さんから湖底に沈んだ集落での話をいろいろ聞くことが出来た。大岩下にバス停が
あり、郵便局や農協があった。小学校は日向にあり、遠くから児童が通っていた。一番遠
かったのは栗山で、十キロくらいの道を歩いて通っていた。             
 もともと浦山の名の由来は、武甲山の裏だったので裏山という地名だったのが、浦山に
転じたものだという。江戸時代(文化七年から文政十一年)に調査執筆された「新編武蔵
風土記稿」の中で浦山村を紹介した文章がもっとも古い記録となっている。この中に記載
された内容は浦山村をまるで桃源郷のような村として紹介している。         
 純朴な村人、風光明媚な自然、自然とともに生きる人々。ひとつの理想郷として浦山村
が紹介されていたことは特筆しておきたい。                    

寄国土(ゆすくど)の吊り橋。高之さんはここをバイクで渡った。 猟師としても活動していた。寄国土の吊り橋下で仲間の猟師と休憩。

 そんな浦山の旧家に生まれ、高之さんは子供時代を過ごす。学校を出るとすぐに山仕事
をするようになった。浦山の山仕事はほとんどが県造林の仕事だった。県の森林公社が発
注元で、埼玉県造林組合に仕事が発注され、森林組合の秩父支部から高之さんに仕事が回
ってくる。高之さんが受けるのは造林の仕事がほとんどだった。何人かの人を使って植え
付け、下刈り、間伐、枝打ちなどの仕事をした。「見える山は全部俺がやったんだぃ…」
という言葉に、自分のやってきた仕事に対する自負が伺える。            
 春は伐採後の地ごしらえと植え付け。苗が水を吸い上げる四月までに植え付けは終わら
せた。六月から九月まではつらい下刈りの季節だった。場所によっては二回刈りとかもあ
った。朝早くからの下刈りは大変な作業だった。                  
 十月からは除伐と間伐が仕事になった。十一月以降は枝打ちが仕事になった。本当に広
い範囲を仕事場にしていた。荷物は全部セイタ(背負子)で背負って運んだ。林道が整備
されていない場所が多く、バイクで行けるところまで行って、そこからは自分の足でなに
もかも背負って運んだ。平均三十キロくらいの重量を運んでいたという。コンクリートの
境界柱は一本十キロもあったが、それを三本背負って運んだものだった。苗木は三百本、
三十キロの重さを背負って運んだ。                        
 「荷物運びが大変だったけど、そのおかげで今の山があるんだぃ…」と胸を張る。  
 真夏に高之さんと息子の幸也さんの二人だけで五町歩の下刈りをしたことがある。朝の
三時から歩き出して昼まで働き、午後は帰って寝るという生活を続けた。夕方の仕事は虫
が出るので嫌だった。身内だけだったのでそんな時間に出来たのだが、人を使っている時
は自由にならなかった。実働八時間という決まりがあって、人足を使うときは決められた
時間を働いたものだった。                            

 息子の幸也さんが当時使っていた道具を見せてくれた。片手で枝打ちをするヨキ。両刃
の長柄ナタだ。これを樹上で振って枝打ちをする。ノコギリは使わない。切り口がきれい
で巻き込みが早くなる。良材を作る為に欠かせない道具だ。             
 このヨキは鍛冶屋で重さや鋼の種類、柄の長さ、バランスなどを注文して作ったもの。
今では鍛冶屋もなくなってしまい、これを作ってくれる人はいない。刃を触ると、鋭く研
がれていて切れ味の良さがわかる。素人がこれを使うとヒザを割ることがある。    
 次に見せてくれたのは長柄の万能ナタ。刃が鎌のように長く、先が鋭く曲がり、引っか
けられるようになっている。長柄と先の曲がりが特徴で、使いやすい万能ナタだ。これも
両刃のナタだった。幸也さんはこれが一番使いやすいという。これも鍛冶屋で注文して作
ってもらったナタだった。                            
 草刈り鎌は両刃のものと片刃のものがある。両刃の鎌は左右どちらにも刈れるので便利
だったという。よく使い込まれた柄の黒光りがすばらしい。刃は鋭く研がれていて、いつ
でも使えるようになっている。今は使うことはないのだが、道具の手入れはきちんと出来
ている。軽く振りやすい長さの柄は山奥でもさぞ使いやすかったことだと思う。草刈り鎌
は安い物を使うとすぐに刃こぼれがする。鍛冶屋に注文して刃こぼれしない鋼を使って作
ってもらうのが一番だった。草刈り鎌は鋼の質で選んだ。              
 次に見せてくれたのはセイタ。背負子のことを秩父ではセイタという。このセイタで何
でも運んだ。山仕事には欠かせない道具だ。昔の山の子は誰でも自分用のセイタを持って
いて、山や畑から物を運ぶのに使っていた。                    

幸也さんに見せてもらった山仕事道具の一部。今すぐでも使える状態。 これが苗木を保護するヘキサチューブ。運搬も設置も撤去も大変だ。

 部屋に戻って高之さんの話を聞く。奥山に行くときは山小屋を作ってそこに泊まりがけ
で仕事をした。伐採跡地で働く事が多かったので、伐採されて捨てられた木が使い放題だ
った。トタン板だけ運べば現地で山小屋を簡単に作ることが出来た。         
 山小屋作りで一番大事なのは平らな地面だった。伐採跡地には土場として使っていた平
地が必ずあるので、そこに建てることが多かった。                 
 三畳から四畳半くらいの大きさで、必ず地炉(囲炉裏)を作った。入り口は片開きのド
アをトタンで作った。屋根も壁もトタン張り。窓は切り抜いて跳ね上げ式にした。つっか
い棒で開けておくタイプの窓だった。柱や梁は檜を使い、カスガイで固定した。床は細い
木を丁寧に並べて平らにした。                          
 川の近くに山小屋を作るときはドラム缶を運んで風呂にしたこともあった。川や沢が遠
くても、水は湿った場所を掘ればたいがい湧いてくるので大丈夫だった。       
 山仕事をする人は手慣れたもので、このくらいの山小屋は一日で作ったものだった。山
小屋作りは仕事ではなく無給なので、時間をかける訳にはいかなかった。山小屋は簡単に
作っても長持ちするもので、橋立や久那に作った山小屋は今でも残っている。     

 部屋に狩猟姿の写真が飾ってあったので、狩猟の話を聞いた。高之さんは大物の猟師で
鹿やイノシシ、熊などを獲った。熊は今までに三頭を獲っている。使った犬はビーグル系
の犬で、多い時は四匹飼っていた。猟場はそれぞれテリトリーがあった。高之さんの組は
浦山の山が猟場に決まっていた。獲物を追っていても他の猟場に逃げられたら、それ以上
追わないのがルールだった。                           
 昔はそれほど鹿も多くなかったし、メスを撃ってはいけないという規則が厳しく守られ
ていた。今のようにどこにでも鹿がいるという事ではなかったので、獲物は少なかった。
 最近は鹿が特に増え、林業被害も多くなっている。高之さんの造林分野でも深刻な問題
になっている。鹿は植えた檜や杉の苗を食ってしまうので、ヘキサチューブというプラス
チックの筒を苗木にかぶせて保護する。このヘキサチューブと支柱(鉄製)を背負って運
ぶのが大変な仕事だった。このヘキサチューブは、苗木が生長すると撤去しなければなら
ず、それを撤去して持ち帰るのも大変な仕事だった。鹿が増えたせいで仕事が大変になっ
たと嘆く高之さんだが、「それでも、そんな事までやったから今の山があるんだよ…」と
山を造って来た自負と山を守ってきた自負がその言葉に伺える。           

ダムの建設で浦山から上影森に引っ越した。武甲山が正面にある。 高之さんと一緒に山仕事をしていた息子の幸也さん。

 隣の部屋の鴨居には多くの表彰状が掲げられている。みな長年の林業功績に対して送ら
れた表彰状だ。高之さんのやってきた仕事が誇らしく讃えられている。六十年間山仕事を
続けてきた。山の男の誇りがその表彰状に現れている。               
 昭和六一年、長く住んだ寄国土(ゆすくど)の家を後にして、上影森に越して来た。浦
山ダムが出来、さくら湖の湖底に多くの集落が沈んだ。武甲山の裏から表に越して来た高
之さんだったが、自宅から見える武甲山よりも、その裏の山々が見えているようだった。