山里の記憶17


羊の毛刈り:大塚 栄さん



2008. 1. 14



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 友人の吉瀬さんから連絡があり、急遽「羊の毛刈り」の話を聞けることになった。羊毛
の糸紡ぎを調べているうちに、昔羊の毛刈りをしていた人を紹介してもらい、話を聞きに
行くのだという。一も二もなく同行をお願いして、一緒に行かせてもらうことになった。
 小学生の頃、私の家でも1〜2頭の羊を飼っていて、毎年4月に毛を刈りに来てもらっ
ていた。職人さんの鮮やかなバリカンさばきで羊の毛が刈られ、あっという間に山羊のよ
うになってしまうのを、魔法を見るかのように目を丸くして見ていた。羊の真っ白な毛の
温かさや、ちょっと湿った脂っぽい触感などが懐かしく思い出される。        

 1月29日(火)小鹿野町松坂、大塚栄(さかえ)さん(74)の家は山岸にあった。
約束の時間に伺うと、栄さんは我々を炬燵に招き入れてくれた。今にも雪が降りそうな寒
さだったので、遠慮無く炬燵に入らせてもらった。奥さんのつや子さんが「掘り炬燵だか
ら、足を出しておくんない」と声をかけてくれる。掘り炬燵の暖かさが有り難かった。 

大塚 栄さんの家は小鹿野町・松坂の山際に建っていた。 暖かい掘り炬燵に入って話を伺った。

 挨拶を交わし、昔話をしているうちに、栄さんが私の家の毛刈りをしていたことが分か
った。何ということだろうか、私が小学生の頃見ていた職人さんは栄さんだったのだ。 
「三田川一帯が俺の担当だったからねえ、他にはやる人はいなかったんだから、間違いな
く俺が行ってらいねえ」あの時見た鮮やかな手並みは栄さんの技だったのだ。昔を思い出
しながら一気に話の花が咲いた。                         

 栄さんは高校を出てすぐに羊の毛刈りを始めた。毛刈りはカネボウの請負で、親方は日
の沢の木暮さんだった。昭和29年から始めて、昭和41年までの12年間がこの地方で
栄さんが毛刈りをした期間だった。私が1歳から13歳までの子供時代と重なる。   
 栄さんが刈った羊の毛はカネボウが買い上げた。栄さんは家々を巡回してサービスで羊
の毛を刈り、毛の重さ分で決められたウール地や毛糸と交換をするのが仕事だった。この
時代はまだまだ衣服は粗末なもので、栄さんが持っているウール生地見本帳は家々の女性
達には垂涎の的だった。4月から5月にかけての年に一度の栄さんとの交渉が家々の大き
な楽しみでもあった。「今年はおねえちゃんの服だから、あんたの服は来年だよ」という
ような会話があちこちの家で交わされていた。                   

 交換の他に純粋な買い上げもあったようだ。私の家などは貧乏だったので、たぶん現金
に換えていたのではないかと思う。しかし、我が家にもウール地のサンプル帳があったの
を覚えている。綺麗なチェック柄の5センチ四方の生地見本帳はまるで宝石のような輝き
を放っていた。姉が大事にしまっておいたのを夏休みの工作に使ったのがばれて、大目玉
をくらったことを思い出す。あのウール地の鮮やかなチェック柄としなやかな触感は別世
界への誘惑にも似ていた。                            

 つや子さんの話では、ウール地や毛糸だけでなく「みやこ」という毛糸の腰巻きと交換
する人が多かったそうだ。羊一頭で約4キロの羊毛が取れる。カネボウはそれを150円
で買い上げた。当時、山仕事のボサまるきが1日やって250円くらいにしかならなかっ
たからすごい副業だったことになる。タバコが一箱40円の時代だった。カネボウとの請
負は独占で、誰でも出来るものではなかった。栄さんの実直な人柄が認められて、この地
区の代理店になれたのだと、つや子さんは誇らしげに言う。             

 栄さんは当時の4Hクラブ(Hand、Head、Heart、Healthの頭文字を取って名付けら
れた農村青年クラブ)の会長をやるなど、今で言う若手オピニオンリーダーでもあり、演
説なども上手かった。まだみんなが自転車に乗っている時、栄さんは自転車オートバイに
乗って軽やかなエンジン音を野山に響かせていた。たいそう格好良かったそうだ。   

 自転車オートバイに乗る前は自転車で山奥まで行っていた。三田川の最奥、坂本地区ま
で行くと帰りはもう真っ暗になった。当時は舗装もされていないデコボコ道だったので、
夜の自転車はたいそう難儀だったそうだ。オートバイに乗るようになってずいぶん楽にな
ったと栄さんは言う。それでも中津川の奥まで毛刈りに行くのは大変だったそうだ。朝早
く出かけても、帰りは夜中になってしまった。                   

 羊の毛刈りは4月から5月にかけてやらなければならなかった。作業服に手っ甲を付け
て長靴を履き、自転車オートバイで家々を回った。1日に10軒から15軒くらいしか回
れなかった。アルマイトの弁当箱に米の飯とおかずを詰め、昼はあうんの呼吸でお茶など
を出してくれる家で食べた。たまに温かいみそ汁などをごっつおになることもあった。栄
さんに言わせると、歩いていれば休ませてくれる家は自然と分かるのだそうだ。顔なじみ
だし、待っている家も多かったし、楽しい副業でもあった。             

昔を思い出しながらいろいろな話をしてくれた栄さん。 奥さんのつや子さんがにぎやかな合いの手を入れてくれた。

 羊の毛は多くはムシロの上で刈った。私の家では戸板で囲いを作ってその中で刈ってい
たように記憶している。まず、羊を座らせるようにして胸の毛から刈り始める。羊も心得
たもので暴れることはなかった。胸を刈って腕、足、腰、背中と刈る。素人と違い、栄さ
んが刈った毛は、まるで羊がセーターを脱いだかのようにひとかたまりになっていた。こ
の毛を丸めて重さを計る。重さによって交換の内容が変わるから、この時だけは双方真剣
になる。「何貫目だから何にする?」と交渉が始まる。年に一度の交渉は時間がかかる。
決まると、内容を3枚複写の伝票に書き込む。栄さんと客とカネボウが同じ伝票を保管す
ることになる。多い時で200軒の家と契約を結んだという。それだけ羊がいたのだ。 

 刈った羊毛は南京袋に詰めて懇意の家に預かってもらった。「これ、後で持ちに来るか
ら取っといてくんない」と頼むのが常だった。毛刈りが終わってから、その南京袋を集荷
して自宅の二階に運んだ。羊の毛は汚れたままなので、大量に集めると、その匂いが凄か
った。日の沢の代理店からオート三輪が来て運んで行くまで、その匂いは家にまとわりつ
いた。つや子さんによると、仕事柄とはいえ結構きつかったらしい。         

 当時はほとんどの家が羊や山羊や牛や豚や兎や鶏を飼っていた。その餌の確保はだいた
い子供達の仕事だった。毎朝4時頃に起きて、カゴを背負って山に入り、草刈りをしてく
る。早く起きないと近場の草がなくなり、遠くまで歩く羽目になる。だから自然と早起き
になる。その当時は田や畑の畦などはきれいなものだった。山道も裸足で歩けるほどきれ
いだった。羊は羊毛を、牛や山羊は乳を、鶏は玉子を、兎は毛皮を、豚は肉を与えてくれ
た。それぞれの糞は堆肥となって畑を豊かにした。何もかもが循環していた。     

 結婚のいきさつについて聞いてみた。栄さんは毛刈りの仕事を始めてから3年後につや
子さんと結婚した。つや子さんによると、栄さんはずいぶん積極的で強引だったらしい。
 自転車に乗っていたつや子さんを見初め、追いかけてきたのだそうだ。羊など飼ってい
ないのに、家に来て、縁側でお茶を飲んでいることも多かったそうだ。つや子さんには当
時好きな人がいた。その人は遠く千葉の自衛隊に入隊していた。その彼氏がいない隙に 
「誰かさんにやっつけられたんさあ」とつや子さんは笑う。「そんなことまで言うこたあ
なかんべや・・」栄さんも一緒に大笑いする。                   
 親の反対など押し切っての結婚だったらしい。当時としては珍しい事例だ。見合い結婚
が普通で、恋愛結婚という概念はまだ一般に浸透してなかったと思う。栄さんの進取の気
質が分かろうというものだ。                           

毛刈りをしていた頃、庭で弟さんとくつろいでいる栄さん(右) 外は今にも雪が降りそうな天気だった。

 昭和38年、カネボウは防府ナイロン工場を稼働させた。時代が大きく変わろうとして
いた。薪炭は石油やガスに変わり、竹ザルはプラスチックに変わり、絹やウールの天然繊
維はナイロンやテトロンの合成繊維に変わっていった。また、外国産の安い羊毛が大量に
輸入されるようになった。高度経済成長という大きなうねりが日本中を包み込んでいった
。全ての価値は「いくらになるか」で判断されるようになり、新三種の神器が脅迫のよう
に宣伝され、人々の物欲をかきたてた。子供達は金の卵ともてはやされ、都会の工場へと
送り出されて行った。                              

そして昭和41年、カネボウの羊毛買い上げが終了となり、羊の毛刈りの仕事が終わった
。残された羊の毛を刈ってくれと頼まれることも多かったが、契約終了と同時にバリカン
も返納してしまったので、栄さんにはどうすることも出来なかった。そして山里から羊の
姿が消えていった。何もかもが変わり始める前兆のように。