yamazato-166.html
山里の記憶166


大滝おなめ:千島 進さん



2015. 6. 03



絵をクリックすると大きく表示されます。ブラウザの【戻る】で戻ってください。


 六月三日、大滝の大久保に大滝おなめの取材に行った。取材したのは千島進さん(七十
三歳)で、大滝おなめを唯一製造販売している人だ。                
 大滝おなめは一般的に秩父で売られているおなめとはまったく違う。醤油麹を使い、醤
油のもろみを作るような作り方をする。ちょうど味噌と醤油の中間のような調味料で、様
々な料理に使える。一度この作り方のおなめを食べた事があり、その味に驚かされたこと
を思い出す。どんな作り方をするのか、とても楽しみにしていた取材だった。     
 小雨の降る涼しい日だった。進さんに挨拶すると、すぐに作業場に案内してくれた。作
業場は納屋前の大きなカマド。すでに火が熾されていて上には巨大な鋳物製のホウロクが
掛けられている。進さんはおもむろに傍らの押し麦袋を持ち上げて、五キロの押し麦をホ
ウロクにザーッと注ぐ。押し麦は山梨のはくばくを使っている。本来なら秩父の押し麦が
いいのだが、秩父で押し麦を作っているところがなくなってしまったので仕方なく山梨産
の押し麦を使っている。                             
 おじいさんが作ったという専用のかくはん棒で押し麦をかくはんしている進さんにいろ
いろ話を聞く。このホウロクは昔からこの為だけに使われてきたもの。最近穴が空いてし
まったのだが、弟さんがステンレスで穴を補修してくれ、また使えるようになった。  
 ホウロクの押し麦が徐々にさらさらになってくる。麦を焙煎する香りが高くなる。どの
くらいが煎る目安なのかと聞いたら、自分の勘だという。具体的に人には言えない、自分
の直感が教えてくれるとのこと。その日の気温や湿度で変わってくる。        
 カマドが熱く、煙が目に痛い。こんな状態でまる二日間押し麦を煎る。進さんが笑いな
がら「こんなだから涼しい日でねぇとねぇ…」と言う。今日は涼しいからいいが、暑い日
では熱中症になってしまうかもしれない。大変な作業だ。              
 煎り始めて約四十分、ホウロクの押し麦が煎り上がった。ちり取りで集めて桶に押し麦
を入れる。これはこのまま冷ましておく。進さんはすぐに次の袋を持ち上げてホウロクに
注ぐ。ホウロクを冷やすと良くないので、なるべく火を絶やさないようにする。この二日
間はこの作業に没頭する。五キロの押し麦の袋はまだ三十五袋以上残っている。    

押し麦二百キロを二日間かけてホウロクで煎る。熱くて煙い作業。 秩父の大豆を五時間かけて蒸かす。煮るよりも大豆の味が逃げない。

 作業を続けながらの昼食は、奥さんが簡単なものをと言って作業場に運んでくれた。か
くはん作業を奥さんと交代して進さんと食事を摂る。奥さんの敬子さんがとち餅を焼き、
お雑煮を作ってくれたので食べる。漬物も煮物も全部自分の畑で採れたもの。中でも新玉
ねぎをスライスしておなめと和えたサラダが旨かった。「うちのおなめなのよ。美味しい
でしょ」と敬子さん。食べながらもいろいろな話を聞く。              
 昔はおじいさんが主におなめ作りをやっていた。進さんがおなめを作るようになって十
五年経つ。元々は滝の沢地区で作っていたおなめだったが、ダムの移転で家々がなくなり
、このおなめ作りも消えてしまった。木の樽を使って漬け込むのはもうここだけになって
しまった。                                   
 たしかに普通の家には大きなカマドやホウロクや木の樽はない。こういう家でこういう
場所だから出来るおなめ作りなのだとわかった。「俺たちがやらなくなったら、もう終い
だよね…」と進さんも言う。                           

 こうして二日間煎った押し麦は納屋の二階にある製粉機で八分の荒粉に製粉する。その
製粉作業にも丸二日かかる。なんだかんだで一ヶ月間、おなめの仕込みにかかる。雨が多
い時期なので、ムシロを乾かしたりする都合からどんどん予定が流れる。気温も湿度も大
きく変わるので管理が難しい。「思い通りにはいかないよね…」と笑う。       
 料理上手な奥さんの手料理をいただきながら、おなめの話を聞く。聞けば聞くほど大変
な作業だという事がよくわかる。今日はこの作業をくり返すだけという事で、二階の製粉
機を見て取材は終わることにした。作業を続ける二人に挨拶して帰路に着いた。雨上がり
の景色が素晴らしかった。                            

 六月九日、二回目の取材。今回は大豆を蒸かしてムシロで作った寝床に広げ、押し麦の
荒粉をまぶし、麹をまぶして伏せ込むところまでを取材する。            
 大豆は一回で二十キロを蒸かす。朝七時から五時間、四段のセイロで蒸かす。これを午
前と午後の二回行う。蒸かした大豆は納屋の二階に作った寝床に広げる。寝床は三枚のム
シロに厚紙を敷いたフカフカのもの。セイロ四段分の大豆を大きなバケツに入れて何回も
二階に運び、寝床に並べる。                           
 前回巨大なホーロクで煎った押し麦は、製粉器で八分の荒粉に製粉してあった。その押
し麦荒粉二十五キロを大豆の上に撒き、大きなしゃもじで全体を混ぜる。押し麦荒粉を大
豆に均一にまぶすようにする。しゃがんで丁寧に行う重労働だ。そして平らに伸ばし、四
本のスジを作って放置する。全体が四十度くらいになるまで冷めるのを待つ。この後、麹
菌をまぶすのだが大豆の温度が四十度以上だと菌が死んでしまうためだ。       
 次に行うのは麹作り。麹菌は丸福MF-2号菌(これは醤油専用の菌でこれがおなめの味
のポイントになる)を十グラム、五合ほどの押し麦荒粉に振りかけてまぶす。これを先ほ
どの大豆の上に振りかけて均一に混ぜる。これも手早く行う体力作業だ。進さんの長年の
勘と手先の感覚が全てだ。素人の私は横で見ているだけ。              

納屋二階に作られた寝床に大豆を運ぶ。 押し麦荒粉と大豆をよく混ぜる。四十度に冷ましてから麹菌を混ぜる。

 次は伏せ込み。均一に混ざった麹の種(大豆と押し麦)を山型にまとめ、紙で包む。そ
の上を四枚のムシロで覆い、四方を重い角材で押える。ここは奥さんとの共同作業だ。 
 紙とムシロで通気を確保しながら保温する麹の寝床だ。今日取材した作業はここまでだ
が、麹作りはここからが勝負になる。                       
 明日の朝には種が高温になり固くなる。それを手でほぐしながら全体に四センチくらい
の厚さになるように広げる。温度が下がり過ぎると麹菌の活動が低下するので、紙やムシ
ロをかけて保温する。温度が高すぎると麹が死んで黒くなってしまう。ここで手を抜くと
おなめにならない。進さんはまだ一度も失敗した事がない。             
 おなめ作りは本当に手間がかかる。特に進さんの作業は販売用のおなめ作りなので、妥
協が許されない。「こんな作り方してるのはうちだけだい…俺がやらなくなったら終いだ
ぃね…」と笑う姿がすがすがしい。                        

 六月十七日、おなめの取材三回目。今日の取材はかき込み。かき込みとは、寝かせて麹
状態になった押し麦荒粉と大豆の種を、木の樽に塩と水で漬け込む作業のこと。    
 九時半に伺うと進さんはすぐに納屋二階の寝床に案内してくれた。布団代わりの紙を剥
がすと種が現れる。種は両手で触るとサラサラしていた。押し麦荒粉と大豆に糀菌が良く
回っていて、全体が黄色みがかっている。鼻を近づけるとプン…っと麹の香りがする。 
「いい出来上がりだいね。こういう風に黄色くなるんがいいんだぃね…」と進さんも嬉し
そうだ。早速専用の器にまとめて入れ、二階の寝床から一階の仕込み部屋に運ぶ。寝床一
列の種は約四十七キロ、これを一つの樽にかき込む。                
 まず樽の底が白くなるくらいに塩を振る。そこに種を入れてバケツの水を注ぐ。専用の
櫂(かい)でかき回す。このひと樽に麹の種四十七キロ、塩十キロ、バケツの水三杯をか
き込む。何度も二階を往復し、種を運び、塩と水と混ぜてかき込む。         
 水は水道の水。塩は赤穂の甘塩を使っている。樽半分にもなる量をかき回すのも体力仕
事だ。進さんの額から汗が流れる。                        

三日間熱を出して発酵し、大豆と押し麦粉は全体が麹になった。 木の樽に麹の種四十七キロ、塩十キロ、バケツの水三杯をかき込む。

 作業が一段落したので、お茶を飲みながらいろいろ話を聞く。           
 今日は二つの樽をかき込み、あとは毎日中身をかき回す作業が始まる。今日はまだ水分
がたっぷりなので柔らかいが、麹が水分を吸収してどんどん固くなる。一週間くらいは固
くてかき回すのが大変だそうだ。今年は七つの樽をかき込んだ。これから毎日全部の樽を
かき回す。九月半ばまでずっとその作業が続く。本当に大変な作業だ。        
 かき回すことで菌の発酵を促す。菌が発酵してくると徐々に柔らかくなってくる。  
「そうさなあ、十月終わり頃には出荷できるかねぇ…」とのこと。          
 発酵食品が未熟なうちにパック詰めすると容器ごと膨らんでしまうので、完熟してから
パックに詰めて販売するようにしている。進さんの「大滝おなめ」はそれほど手間がかか
る作り方をしている。                              
 ラベルには「まぼろしの味・大滝おなめ」とある。昔は普通に作られて家庭ごとに食べ
られてきた大滝おなめ。今、作っているのはほんの数軒になってしまった。「この味がな
くなるのはさみしいよね…」と進さんが言うと、奥さんが大きくうなずいた。