山里の記憶165


山菜天ぷら:林 道代さん



2015. 4. 24



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 四月二十四日、秩父市荒川の林道代さん(七十一歳)を訪ねた。山々はまさに「山笑う
季節」であり、今の時期に楽しめる山菜を採って天ぷらにしようという計画だった。  
 場所は安谷川沿いの茗荷差(みょうがさす)というところにある家。持主の原島さち子
さんと一緒に三人で周辺の山菜採りから取材が始まった。              
 家の周囲で山菜を採る、と簡単に言っても問題がある。基本的に奥山でないかぎり、土
地には持主がいて、どこで山菜を採ってもいいという訳ではない。どこのタラの芽は誰が
採るとか決まっている事も多いので注意が必要だ。                 
 道代さんが笑いながら言う「ここの周辺のタラの芽はのぼるさんというおじいさんが採
ることになっているんで手を出さないの…」どうやらそういう掟らしい。       

 今回は、原島さんの畑と家の周囲や川の斜面などが山菜採集の場所になった。畑にはわ
らびがいっぱい出ていて、一時間ほどでカゴに入りきらないほど採れた。畑にあったタラ
の芽も収穫して、一旦家に帰る。すごいワラビの量だが原島さんは「このまま採らなかっ
たら無駄になるからどんどん採っていいの。持って帰って」と笑う。         
 家の周辺を散策しながらセリ、ワサビの花芽、ミツバを収穫する。そして近くの川へ向
かう。川の斜面にヤツバやモミジガサ、イワタバコが出ていた。一本だけシオデが出てい
たのが嬉しかった。カタクリはもう終わっていた。                 

タラの芽を採る道代さんと原島さん。伸びた葉も天ぷらに出来る。 畑に生えていたワラビを採る。カゴ一杯になってしまった。

 畑に戻ってミツバやウド、行者ニンニクを収穫しながら道代さんに話を聞く。道代さん
は影森の生まれで、正面に武甲山を見ながら育った。その頃の武甲山は石灰石の採掘が始
まっておらず、まだ削られていない武甲山だった。                 
 小さいうち(小学前)に丸山に登るのが決まりだった。小学に上がると武甲山に登る事
ができた。頂上から見た景色が忘れられないという。                
 山菜もよく採りに行った。四月のお節句前には山に行ってセリやヨモギを大量に採り、
ふろしきに包んで担いで帰って来たものだった。これはお節句の草もちになるヨモギだっ
た。山の木を伐って杉を植えた場所にはよくワラビが出た。これも競って採った。   
 おばあちゃんが山の事をいろいろ教えてくれた。両親は忙しくて子供をかまう暇はなか
った。おばあちゃん子だった道代さんは、おばあちゃんから山の事や山菜のことをたくさ
ん教わった。小学二年の時にそのおばあちゃんが亡くなった。でも、その間に教えてもら
ったことが本当に多かったという。                        
 「山が好きなのはおばあちゃんの影響なんだよね…」と言い、「子供の時に覚えたこと
は忘れないよね。不思議だよね…」と昔を懐かしむ。                

セリを摘む二人。家の周囲には様々な山菜が生えている。 川の斜面でモミジガサを採集する。これはお浸しが旨い。

 道代さんは十五歳まで影森の家で育ち、その後川越に出た。准看護婦になるための学校
に通うためだった。十五歳までは本当によく働いた。冬は山から薪を拾って束にして家ま
で背負って運んだ。自分用の背負子があってせっせと運んだ。薪は椎茸のほだ木を採った
後の枝で、生で重かった。                            
 春から秋まではお蚕の世話が忙しかった。桑の葉を摘む仕事は器用さで重宝された。自
分の背負子で桑の枝を運んだ。いよいよお蚕上げになると部屋は保温のため新聞紙で隙間
を目張りして入れなくなった。人間が片隅で寝るような暮らしだった。川越に行く前日ま
で麦のサク引きをやっていた。昔の子供は本当によく働いたものだった。       
 道代さんは「あの十五年間の濃さがすごかった…」と言う。「これはどういう事なんだ
ろうかねえ…、あんなに東京で長く働いていたのに、働いたという事しか残ってないのに
ねえ…、本当に不思議だよね」                          

 山菜の採集を終えて家に戻る。原島さんがすぐに蕎麦を打ち始めた。それを見ながら道
代さんにその後の話を聞く。                           
 道代さんは川越で看護学校に通って勉強しながら、夜は浦和の定時制高校に通って勉強
した。定時制高校は浦和一女で、三クラスあり、それぞれ五十人ほどが勉強していた。当
時は働きながら定時制高校に通う人が多かった。                  
 二十七歳の時に川越から東京に出た。看護師の資格を取り、勤めた病院が恩賜財団・愛
育病院だった。道代さんはここで六十三歳まで働いた。必死に働いて三十歳の時に家のロ
ーンを組んだ。ローンの返済にアルバイトを掛け持ちしたりとか、若かったから出来たこ
とだと言う。                                  
 ある日、渋谷の駅前であまりの人の多さに圧倒され、この中に誰一人として知る人がい
ないことを実感した。孤独感を感じ、さみしかったとふり返る。           
 いつかは秩父に帰りたいと思っていた道代さん。昭和五十年に荒川日野に家を買った。
昭和五十二年からは週末に秩父で過ごし、ウイークデーは東京のマンションで暮らすとい
う生活になった。そして定年になった平成十九年に秩父に越してきた。今はご主人との二
人暮らしで、おばあちゃんが別の家に住んでいる。仕事はせずに山に登ったり、絵を描い
たり、おばあちゃんの面倒を見たりという生活を送っている。            

 原島さんの蕎麦打ちが終わり、道代さんが自分の蕎麦包丁で蕎麦を切る。コトンコトン
という音が静かな家に響き、細い麺が出来て行く。切り終わって、もうひとつの蕎麦を今
度は道代さんが打ち始めた。ここ荒川は蕎麦の町とも呼ばれていて、蕎麦道場などの手打
ち蕎麦教室も多い。講習会も多く、道代さんもこちらに来てから蕎麦打ちを勉強したのだ
という。今では家でもたびたび蕎麦打ちをする。年越し蕎麦などは近所にも配るほどで、
みんなに喜ばれているそうだ。                          
 手際よく麺棒を使って蕎麦が打たれ、またコトンコトンとそば切りの音が響く。原島さ
んが鍋の湯を沸かすために台所に向かう。                     

 台所では大鍋に湯が沸き、蕎麦を茹でる準備が整った。二人の息の合った共同作業でみ
るみる蕎麦が茹でられる。冷たい水道の水で洗われた蕎麦が、三つのザルに山盛りになっ
た。これ、三人では食べきれないねえ…などとみんなで笑う。            
 さて、やっと天ぷらを揚げる場面になった。採ってきた山菜の中から天ぷらにするもの
を選ぶ。少し伸びたタラの芽、ウド、そしてこれは私の希望でイワタバコを選んだ。  
 道代さんは天ぷら粉を水で溶く。「少し粉っぽいくらいでいいんだよね…」と言いなが
らボールの天ぷら粉をかき回す。深いフライパンにサラダ油を全部入れ強火で温める。 
 油がチリチリいってきた。「そろそろいいかね…」と言いながら衣を一滴落とす。衣が
すぐに浮き上がれば適温だ。                           

 手際よく天ぷらが揚がる。どんどん揚がる。イワタバコは両面に衣をつけてカリッと揚
げた。小さいのを一つ揚げたてで食べさせてもらった。食べた後口に残る苦みがすごくい
い感じだ。初めて食べたがこれはいける。ウドやタラの芽はもう味も香りもわかるので、
お腹がすいてきた。天ぷらを揚げている音がいい。ジュワジュワという幸せな音だ。  
 天ぷらを揚げ終わり、テーブルに蕎麦と天ぷらを運ぶ。天ぷらも蕎麦も手製の笹ザルに
盛られている。「さあさあ、いただきましょうかね…」原島さんの声が響く。     

タラの芽とウド・イワタバコを天ぷらに揚げる。 手打ち蕎麦と山菜天ぷらで昼食。満面笑顔の道代さん。

 天つゆの入ったお椀に蕎麦を入れてすする。天ぷらをつまんで食べる。ウドの香りが口
いっぱいに広がった。「これは旨い!」道代さんと原島さんがニッコリ笑う。「こうやっ
てみんなで食べるんが旨いやねえ…」原島さんが嬉しそうだ。            
 原島さんが作ってくれた青菜のマシを加えて、蕎麦をツルツルと食べる。秩父の蕎麦は
うどん粉が六割入っていて、蕎麦粉は四割しか入っていない。だからのどごしがいい。 
 食べて食べてと言われるのだが、山盛りの蕎麦と天ぷらはとても食べきれず、すぐにお
腹いっぱいになってしまった。                          

 蕎麦を食べ終わり、濃いそば湯を飲みながら道代さんと話す。山の好きなおばあちゃん
の話になった。栗の木につくカミキリ虫の幼虫を捕まえて炒って食べた話。わら草履に自
分の好きな色の布をつけて編んでもらった話。タカキビの穂でホウキを作ってもらった話
などなど、思い出話が次々に出て来る。七歳までしか一緒にいなかったのに、なんでこん
なにいろいろ覚えているのか不思議だと道代さんが言う。              
 三つ子の魂百までとはよく言ったもので、精神の大きな部分が幼少期の記憶に委ねられ
ているのだという気がする。「だから故郷に帰りたいのよね…」その言葉は、道代さんの
人生そのものだった。