山里の記憶164


剥製作り:高橋 章さん



2015. 4. 11



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   四月十一日、小鹿野町田の頭(たのかしら)の高橋章さん(六十四歳)を訪ねた。章さ
んは三代続いた剥製屋さんで、今日は剥製の作り方を取材に来た。章さんは「あまり人に
見せた事はないんだけど…」と言いながら作業場の中を案内してくれ、お茶を飲みながら
昔話を聞かせてくれた。                             

 おじいさんの松次さんが剥製作りを始めて、四十年間やった。剥製を作る前は下駄屋さ
んだったという。下駄を作る技術を利用して、お土産物の彫刻作りを始めた。おじいさん
が得意だったのは、松の瘤を利用して彫る鶴の彫刻だった。鶴の彫刻はそれは見事なもの
で、土産物屋で飛ぶように売れた。おじいさんは彫刻家として「松鶴斎」という号を持つ
ほどだった。当時の観光地の長瀞や大輪で飛ぶように売れた。            
 しかし、彫刻は時間がかかる。また時代もバードカービングの時代へと変わってきて、
昔の松の瘤で作る鶴は売れなくなってきた。そこでおじいさんは剥製作りを始めた。  
 根っからの職人気質だったおじいさんは秩父の高橋さんに教わってめきめきと腕を上げ
た。亜ヒ酸を使って皮をなめす方法や、石灰やワラ灰を混ぜて薬を作ったりして独自のな
めし方を試したりしたものだった。                        
 目玉は大豆にニスやエナメルを塗って作った。大輪の紅屋さんで展示していたヤマドリ
の目から大豆の芽が出てきて「おい、ヤマドリの目から芽がでたぞい…」と言われたこと
があった。目玉はボタンを使って作ったこともある。                
 経済が好調になり、世の中に剥製ブームがやってきた。作るそばから飛ぶように剥製が
売れた。旅館や民宿・名士の家などの玄関には様々な剥製が飾られた。おじいさん子だっ
た章さんは、おじいさんの手から作り出される剥製を飽きずに見ていたものだった。  

なめし終わって剥製になるのを待つ毛皮がズラリと並んでいる。 片隅に小熊の剥製が置かれていた。

 父の好孝(よしたか)さんは最初は剥製作りをしていなかった。山仕事や勤めをしてい
た。戦争当時は九州の鉄道隊に勤務していたことをよく自慢した。いろいろな仕事をした
が、世の剥製ブームに乗って剥製作りをするようになった。             
 時代はバブルの絶頂期だった。乱立する民宿や普通の家でも剥製を飾るようになってい
た。長瀞の土産物屋ではほとんどの店が剥製を売ってくれた。当時は剥製を作る家が一軒
だけだったので、全ての注文が好孝さんに入った。                 
 この頃から急に「うまい商売だ…」とばかりに見よう見まねで剥製を作る人が増え、そ
の数はあっという間に二十二軒にもなった。剥製業は県の林務課が管理することになり、
西秩父郡市剥製組合が設立された。今から五十五年前の話だ。            

 当時下刈り一日二千五百円から三千円くらいの日当だったが、ヤマドリを三千円で買っ
て剥製にすると九千円で売れた。猟師は競って持って来たし、来たものは全部買った。ま
だ熊や鹿はなくて鳥ばかりだった。ヤマドリやキジが主流の剥製作りだった。     
 そのうちに毛皮の値段が上がった。イタチ・テン・タヌキ・キツネ・ウサギなどの毛皮
が売れるようになった。特にイタチの毛皮に良い値がついた。            
 山仕事の日当が五千円の時、タヌキ一頭の毛皮が一万円で売れた。キツネも一万円だっ
た。甲種免許を持っている猟師は競って罠をかけた。毛皮が傷まない罠猟が増えて、一日
に十頭獲った人もいたほどだった。当時、野ウサギなどはいくらでも獲れたものだった。
剥製屋も増えていて、買う方も競争で買うから値が上がり、山里の経済を潤した。   

 好孝さんが剥製作りを始めて十年目のことだった。目新しい剥製を求められ、次第に禁
鳥の剥製作りをするようになった。カケスやキツツキ・フクロウなどの剥製だ。これは店
の奥にしまっておいて、そういう客が来ると「お客さん、変わったものがありますよ」な
どと言って売るものだった。猟師も承知の上でそういう鳥を罠で捕って持って来た。  
 長瀞の土産物屋を紹介するテレビ放送があった。あろうことか商店主が禁鳥の剥製を一
番前に出して、これみよがしにテレビに映った。禁鳥を剥製にしたという事で好孝さんは
捕まって裁判になってしまった。当時のお金で七十万円の罰金。倉庫にあった剥製も全部
没収された。おばあさんがそのショックと心労で亡くなってしまった。        
 法律の怖さを思い知った好孝さんだった。章さんが小学四年の時の事だった。貧しかっ
たので仕方ないことだったが、好孝さんはお金になる仕事を優先してやった。ブームに乗
って売れてきた矢先の裁判沙汰だった。                      

 章さん自身の話を聞いた。章さんは剥製作りが嫌だった。罠に掛かった動物を生きたま
ま持ってくる猟師さんもいた。それを剥製にするために殺すのが嫌だった。逃がしたり、
親に隠れて飼ったりしたこともあった。                      
 章さんはニワトリが好きだった。ある日死んだ雛を処分できなくてずっと見ていた。そ
のうちに雛が動き出した。生き返ったかと思ったのだが、それは中で繁殖した蛆虫が動い
たものだった。ふと、剥製にすれば生きた姿のまま復元できるんだ…という思いが浮かん
だ。「そういう風に剥製を考えたのはあれが最初だったいね…」と昔をふり返る。   
 剥製作りをするようになってからも忘れられないことがある。あるペットの剥製を依頼
された時のことだった。剥製を納めたところ家族がとても喜んでくれた。生前の姿を復元
することの意味を考えさせられた。また、タクシーに乗っていて跳ねたタヌキを見た人の
話も聞いた。頭がつぶれたタヌキを持って来て「これを剥製にしてください。死んだ姿を
見たままだと脳裏から離れないので、供養しますんで…」という依頼だった。この時も生
きている姿を復元することの意味を考えさせられた。                

これはヤマドリの型を使った剥製の芯。手足がグラグラする。 なめし終わって一輪挿しになる鹿足の材料。右がメスで左がオス。

 今日は、秩父野鹿(ちちぶのじか)の足を使った一輪挿し作りを見させてもらった。獣
害駆除で鹿の毛皮や角を使ったもの作りが進められている。四本ある足を使って何か出来
ないかを試行錯誤して一輪挿し作りに至ったもの。                 
 章さんが手にしたのは塩ビのビニールパイプ。サンダーで切り口を磨き、ステンレスの
板で底を接着し、ビニールを巻いて糸でグルグル巻きに止めて接着し、水入れにする。 
 普通の剥製は針金で芯を作って、そこに木毛(もくもう)で肉付けする。その上に石膏
で肉付けし、筋肉を本物のように作りその上から皮をかぶせて固定する。他に型を使う方
法もあるが、型は発泡スチロールなので、後で足や手がグラグラするようになるので、章
さんは使わない。目玉は既製品を使う。ガラスの目玉は割れることがあるのだが、今は樹
脂製で割れないようになっている。                        

 材料の鹿の足は事前に十日間かけてなめし、腐らないように加工してある。その鹿の足
内側に石膏粘土を塗り込む。塩ビパイプにも石膏粘土を薄く貼り付ける。鹿の足皮にパイ
プを射し込んで形を整え、切れないケプラー糸で縫う。               
 石膏粘土は三日間くらいで完全に固まる。固まると軽くてとても硬い石になる。この粘
土は、硬くなったあと削ることも出来る。造形や彫刻にするにはうってつけの素材だ。い
いものを作るにはいい材料が必要になる。それは今も昔も変わらない。        
 縫う針も特殊なものだ。先端は三角形に鋭くとがっている。丸い先端だと皮の穴が広が
らず針が入って行かない。三角形に研ぐことで切りながら針が進むという訳だ。丸い針だ
と皮に刺さらず、指に刺さることもある。鹿の皮は柔らかいのだが丈夫で強靱だ。皮を利
用した小物作りや子供靴作りが小鹿野でも行われている。              
 足の後ろ側を縫い目が見えない特殊な縫い方で縫って毛並みを整える。石膏粘土が乾く
前に鹿足の筋肉の形を整える。三日間かけて乾燥させ、焼き杉の台に固定する。固定する
のは錆びないようにステンレスの釘で固定する。                  
 焼き杉の台は上面が斜めにカットされている。これは鹿足の剥製が足を無理に曲げずに
固定できる角度なのだという。無理に水平に固定すると足首に変なシワが寄って美しくな
くなるからだとのこと。長年培った剥製作りの技が生かされている。         

仕上げにケプラー糸で縫い目が見えないように後ろ側を縫う。 鹿足の剥製が出来た。これから乾燥させ仕上げの作業が待つ。

 最後の仕上げや色つけまで入れると皮作りから始まって半月かかる一輪挿し作り。手間
代などを考えると割りには合わないが「秩父野鹿」の製品事業としてボランティアのよう
な形で参加している。                              
 章さんは今、生態剥製としてやっていこうと考えている。今は四軒だけになってしまっ
た剥製屋さんだが、新しく「生態剥製技術会」という会を作り、生態系に立脚した剥製作
りの技術を磨いて行こうとしている。自然に学び、自然と共にある剥製作りを目指す。 
「三代続いたって事は財産だと思うんだ…」と今後の制作に向かう意気込みを語った。