山里の記憶153


昔の山仕事:千島 章さん



2014. 7. 18



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 七月十八日、秩父の久那に千島章さん(七十九歳)を訪ねた。章さんは二十歳の時から
秩父営林署で働いていた人で、昔の山仕事について聞かせていただいた。       
 章さんは学校を出て近所でいろいろ働いていたが、仕事がなくなり募集があったので、
最初は栃本の方に仕事を見に行った。気は乗らなかったのだが、他に仕事がなかった。七
月の下刈りが最初の仕事で、きつい仕事だった。圧倒的に人手が足りなかった。最初は臨
時雇いだったのだが、すぐに営林署に採用になった。家は塩沢だったので、その後の仕事
は大滑沢の現場になった。                            

 昭和三十二年ころ、大滑沢に造林小屋が出来た。当時は立木を入札で決まった民間業者
に払い下げ、天然林を皆伐又は択伐する形で木材生産を行った。その後に章さん達営林署
の職員が造林するという形で林業が回転していた。                 
 従って、木馬(きんま)やトロッコで木出しをするのは民間業者の仕事で、営林署の人
間は造林が主な仕事だった。中津川方面は入川方面と比べ、川沿いの道が悪く、大規模な
木出しが出来なかった。多くは細く険しい木馬道で木出しをしなければならなかった。 
 深沢や広河原などは奥が深かったので、猿市までのトロッコが作られたが、大滑沢はト
ロッコも作れなかった。一年に十五町歩ずつ払い下げ、現場は徐々に奥に入っていった。
 大滑沢ではよろづやと埼玉工業が伐採と木出しをしていた。沢沿いの木馬道を黙々と運
んでいたものだった。木馬道で運ばれた材木は、土場からトラックで運ばれた。    

自宅の居間でいろいろ話を聞かせてくれた章さん。 結婚当初、熱海に新婚旅行代わりに出かけた章さんと皆子さん。

 大滑沢周辺の国有林はすべて天然林で、広葉樹ではシオジ、カツラ、サワグルミ、ミヅ
メ、ブナ、セン、ケヤキ、カンバ等、針葉樹では天然ヒノキ、サワラ、コメツガ、ウラジ
ロモミ、トウヒ、シラベなどが主で、大径木が多かった。伐倒は大ノコギリとヨキで行っ
たが急峻な地形で足場が悪く、作業は困難を極めた。昭和三十三年からはチェーンソーが
導入され、作業は楽になったが、白蝋病などが問題になるなど、厳しい作業環境は変わら
なかった。                                   

 章さんは二十歳になる前から大滑沢に通っておじさんの仕事を手伝っていた。おじさん
は沢の入り口に他の人と一緒に小屋を作って住んでいた。集落があった訳ではないが、そ
こには山で働く人がたくさん小屋掛けしていた。夫婦で炭焼きをする人も多かったので、
子供もいっぱいいた。そこから学校に通う子も多かった。集落ではなかったが、五十人か
ら六十人くらいの人が住んでいた。                        
 伐採が進むと同時に造林の仕事が忙しくなる。苗の植え付けと下刈りが仕事だった。 
 昭和三十二年ころに大滑沢に造林小屋が出来、章さんはそこで泊まり込んで働くように
なった。そのころ、塩沢集落から造林小屋にまかないの仕事でやってきた女性達がいた。
その中の一人が奥さんになる皆子さんだった。章さんはまかないの仕事でやってきた皆子
さんに目を奪われ、二人は結婚することになった。                 
 皆子さんは、最初は広河原の飯場でまかないの仕事をしていたのだが、大滑沢の造林小
屋に回ったことで、章さんと知り合った。二人の出会いが大滑沢の造林小屋だった。  

 大滑沢の造林小屋はしっかりした建物だった。当時、造林小屋を専門に作る大工がいた
ほどだった。深沢にも広河原にも大きな造林小屋があった。             
 石垣の上に建てられた横に長い建物で、玄関も作られていた。二十畳くらいの畳の部屋
があり、檜のお風呂があった。六畳の役人専用の部屋があった。炊事場は三畳で、皆子さ
んのようなまかないの人はここで寝泊まりした。水は沢から引いて使っていた。    
 当時の大滑沢造林小屋は出合いの道路から三キロくらい奥にあった。三キロの木馬道を
歩いて通った。伐採が奥に進み、造林小屋も奥に建て直した。新しく五キロも奥のオッペ
沢に作られた造林小屋。荷物を運ぶのも半日かかるような距離だったが、ここは日当たり
が良くて、いい造林小屋だった。周囲には山仕事をする人の小屋が何軒も建っていた。 

仕事で雲取山に登ることもあった。立木の払い下げに同行した。 猟期以外では鹿も友達。山頂付近で鹿にエサをやる。

 章さんは、営林署に臨時で入って後に本採用になったが、まだ季節採用だった。当時は
冬の仕事はなく、冬の間三ヶ月間は失業保険をもらって生活していた。そんな生活が三年
程続いた。その後は冬にも仕事が出来るようになり、生活も安定した。冬の仕事は土木の
仕事が主だった。山腹の石垣積みや法面工事などを営林署の仕事としてやっていた。  
 女の人も五・六人いて、塩沢や中双里から通っていた。造林小屋に泊まり込むのは単身
者が多かった。静岡から応援に来た組の人は全員が造林小屋に泊まり込んで働いていた。
 また、泊まりは県有林の飯場で、食事だけ食べに来るという人たちもいた。     
 大滑沢の現場も下の方で伐採作業をしていた時は、木馬道を使って木出しをしていたの
だが、奥に入るに従って、木馬道での木出しが不可能になり、架線を使って木出しをする
ようになった。作業場所が奥になるに従って架線の距離も伸びていった。技術が進んで最
後は一気に土場まで架線で運べるようになった。当時は伐倒集材班と索道運材班とがあっ
た。索道盤台までは集材機で集材し、本線で一気に土場に落とした。         

 章さんの仕事は造林だった。大滑沢の現場は笹の多いところだった。笹を切り払わなけ
れば植林は出来ない。大鎌を使って、太い笹との格闘だった。昭和三十八年に刈り払い機
が導入され、笹刈りは楽になった。しかし、背中にディーゼルエンジンを背負う重いもの
で、白蝋病になる人が多く、昭和四十九年には使用を止めた。また、この刈り払い機はす
ぐ壊れるので、作業員にも評判は悪かった。                    
 当時の営林署はすごい黒字だった。木がどんどん売れた時代だった。どんどん木が売れ
て、どんどん植林した。今はその木が五十年経って伐期になっている。しかし、今その木
を伐って売っても利益は出ない。                         
 営林署の仕事は給料が安かった。皆子さんは子供を育てながら、土木工事の仕事をして
家計を助けた。皆子さんはその後、電子部品の会社で働き続けることになる。     

同僚は山に登る仕事を「疲れる」と言って、やりたがらなかった。 仕留めた鹿を家に運んで。雄鹿の剥製は良い値段で売れた。

 仕事の話から趣味の話に変わった。章さんの趣味は狩猟だった。山で働き、山で遊ぶと
いう合理的な趣味だった。十八歳の時におじいさんから村田銃をもらった章さん。十八歳
ではまだ免許が取れず、火薬も買えなかった。                   
 当時は申請すれば許可が下りて、誰でも猟師になれた時代だった。猟銃の所持も特にう
るさく言われたりしなかった。塩沢では少なかったが、中双里には猟師が多かった。よく
中双里の猟師と鹿撃ちに行ったものだった。章さんの犬は雑種の犬だった。      
 ある時、深沢の造林地を見廻っていた時のことだった。造林地には太いナラを何本も残
してあり、その中には大きなウロのある木もあった。その中に熊が冬眠しているのを見つ
けた。翌朝二人で朝早く出かけ、熊撃ちをした。初めて獲った熊は八十キロもある大物だ
った。丸ごと買ってくれる人がいたので、解体もせずそのまま売った。八十キロの熊が二
十万円になった。二人で十万円ずつ山分けした。昭和四十七年の事だった。      

 いつもは塩沢周辺で、一人で猟をしていた。狙うのはヤマドリだった。ヤマドリは剥製
にして売ると六千円で売れた。三山の高橋さんという剥製屋さんに三千円で作ってもらっ
た。少しでも生活の足しになればと頑張った。一週間分くらいをまとめて、四・五羽をま
とめて剥製に作ってもらった事もあった。                     
 猟期には、造林小屋に鉄砲を持ち込んでいた。親方で一人猟をする人がいて、その人と
よく猟に出かけて、鹿を狙ったものだった。角の付いた雄鹿も剥製にすると良い値段で売
れたのだが、そうそう獲れるものではなかった。                  
 道のない場所を、獲物を追いかけて行くのは本当に面白かった。二十歳から始めて、最
後は七十七歳まで猟をしていた。熊は全部で五頭獲った。最後の熊は百三十キロもある大
物だった。イノシシも百三十キロの大物を獲ったことがある。            

 章さんの家は塩沢にあった。塩沢は突然滝沢ダムの水没地区として反対運動に翻弄され
る耕地となった。反対運動は二十四年間続いた。集落を崩壊させたダム反対運動について
章さんは多くを語らない。様々な思いが今なお交錯しているようだ。         
 縁があって、塩沢からここ久那の地に居を構え、ここから大滑沢の仕事場にジープで毎
日通った。退職の日まで毎日通った。毎日が山での暮らしだった。          

 山は仕事の場であり、伴侶や生活の糧、趣味の場を与えてくれた。