山里の記憶152


めし焼きもち:新井秋子さん



2014. 7. 8



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 七月八日、秩父市下吉田に「めし焼きもち」の取材に行った。取材したのは新井秋子さ
ん(八十一歳)で、昔の話を聞きながら、なつかしいめし焼きもちを作っていただいた。
 挨拶をして、お茶を飲みながら居間で昔の話を聞かせてもらった。         
 秋子さんは七月二十五日の生まれだという。七月なのになぜ秋子なのか不思議に思って
聞いてみたら、笑いながらこんな言葉が返ってきた。                
「夏子ってつけるはずだったのが、近所に同じ名前の人がいたんで秋子にしたんだって」
 これにはみんなで笑うしかなかった。大らかな両親だった。            

 秋子さんは上阿久原・浜の谷(はまのかい)の生まれで、十人兄弟の下から二番目だっ
た。子供の頃は戦時中ということもあり、食べることで大変な苦労をした。秋子さんの家
は畑がかなりあったので配給の食料はなかった。しかし、畑で作っている小麦や大麦は全
部供出させられてしまい、自分の家で食べるものがなかった。            
 男手は戦争に取られ、母と姉は大変な苦労をして畑を耕していた。畑を他人に貸してい
る場所もあったが、出来た作物は全部供出されられ、家で食べるものはなかった。   
 小麦やサツマイモまで供出させられた。戦後は陸稲のもち米を少し作っていたが、米が
作れなかったので、食べることにはずっと苦労した。買いに行くお金もなかった。   

 浜の谷の家では何か理由があって鶏が飼えなかった。だから卵を食べることが出来なか
った。秋子さんがその事を強調する。「卵は本当に高かった…。昔でも十三円くらいした
もんだった。今でも値段は変わらないから、当時は本当に高かったんだぃね…」確かに昔
は、卵は病気の時にやっと食べられるというほどの高級食材だった。         
「鶏を絞める仕事をしてる人がいたんだぃね。道の横でやっていて、学校帰りにそれを見
るのがイヤでイヤで。そんなんで、今でも鶏肉が食べられないんだぃね……」小学校時代
からのトラウマだという。                            

 縁があって、二十三歳の時に、杉の峠を越えて石間(いさま)の新井仲蔵(なかぞう)
さんに嫁入りした秋子さん。仲蔵さんはその時二十六歳だった。           
 屋号が「西のそり」という家で始まった結婚生活。この家は斜面の中腹に城のように建
っている家で、家の前に車で行ける道がなかった。道路から細い川を木橋で渡り、斜面を
登って荷物を担いで家に運ばなければならなかった。当初は水道がなく、沢の水を引いて
使っていた。沢の水はきれいで旨かった。後に半納から水道が引かれた時は嬉しかった。
 そして、この家で五十六年間を暮らし、男の子三人を育て上げた。仲蔵さんの仕事は土
建業だった。皆野の八潮建設で定年まで働き、定年後も六十五歳まで頼まれて働いた。 

仲蔵さんと六十五年暮らした家「西のそり」。斜面に建っている。 この橋を渡って、何でも背負って家まで運んだ。

 仲蔵さんの仕事は、石垣取り(石垣を積む仕事)や砂防堰堤作りが仕事だった。家の前
に大きな堰堤があるが、これも仲蔵さんの組が作ったものだった。          
 朝早くから夜遅くまでよく働いた。体が丈夫だったから出来た事だった。秋子さんは日
曜日以外の毎日、朝五時起きでお弁当を作って仲蔵さんを送り出した。おかずは揚げ物や
肉じゃが、漬け物だったが、仲蔵さんは何でも食べてくれた。毎日の食事も、何も言わず
何でも食べてくれる人だった。                          
 仲蔵さんはあまりお酒を飲まない人だった。おじいさんは酒飲みだったが、仲蔵さんは
ビールは半分、酒は五勺くらい飲めば充分という人だったので、酔っ払って困るような事
はなかった。                                  

 昔から石間には田んぼがなく米を作ることが出来なかった。結婚当初、帳面のようなも
のがあって、米を売りに来る店の人がいた。お米が配給だった当時、まずお店に米が来て
、それを売りに来てくれたものだった。                      
 米が少ないので大麦を押し麦にしたものと一緒に炊いた。長男が学校にお弁当を持って
行くようになった時に、押し麦ばかりじゃ体裁が悪いからと、ひとつの釜で押し麦とお米
を同時に炊き分ける方法を考えた。                        
 釜の底にお米を入れて、それを茶碗で被い、その上に押し麦を入れて炊くとお米だけ取
り出すことが出来た。長男のお弁当はそんな工夫で毎朝作られていた。卵焼きは卵に小麦
粉を混ぜて増量するのが普通だった。                       

 畑では大麦や小麦、サツマイモ、ジャガイモなどを作っていた。小麦は製粉し、毎晩う
どんを作った。手回しの製麺機がどの家にもあって、どの家でもうどんぶちをしていた。
 うどんは、冬はおっきりこみで、夏はボッチでザルに盛り、汁で食べたものだった。 
 つつっこや砂糖まんじゅう、酢まんじゅう、もろこしまんじゅうなどをよく作った。栃
の実を拾ってきて、正月には栃餅を作った。                    
 囲炉裏端で料理をすることも多かった。鋳物製のホーロクは万能調理器で、いろんなも
のを囲炉裏で作った。もろこしまんじゅうは囲炉裏の灰で焼いたし、たらし焼きの固いも
のを桑の葉で包んで囲炉裏の灰で蒸し焼きにするのも旨いものだった。田楽も囲炉裏で焼
いたし、たまには魚も囲炉裏で焼いた。                      

居間でファイルを見ながら、昔の話を聞かせてもらった。 床で力をこめて具をこねる秋子さん。めし焼きもち作りの始まり。

 話はいつしか囲炉裏談義になっていた。延々と話は続いていたのだが、今日の取材はめ
し焼きもち作りなので、話はそのくらいにして、めし焼きもち作りに入ってもらった。 
 秋子さんが準備したのは三合くらいの冷めたご飯、ネギを一本小口切りにしたもの、青
紫蘇ひとつかみをみじん切りにしたもの、味噌、小麦粉だった。           
 まずボールにご飯、味噌、ネギ、青紫蘇、小麦粉を入れて床で体重をかけてこねる。柔
らかいようだったら、小麦粉を加えながら、ひたすらこねる。こねていると味噌と紫蘇の
香りが立ってくる。おいしそうな香りだ。他に何か入れる事はないか聞いたら、一度クル
ミを入れて作ったが旨くなかったとのこと。それ以来、いつもネギと紫蘇で作っている。
 夕食の時に、ご飯がいいか、焼きもちがいいかをみんなに聞いて作ったものだった。 
焼きもちは囲炉裏のホーロクで焼いた。仲蔵さんも子供達もみんな好きだった。昔は味噌
も自分で作っていたから、全部自家製の食べ物ということになる。          

 固くこねた生地をハンバーグのような大きさと形にまとめ、すぐに油を引いたフライパ
ンに乗せる。火は中火だ。味噌が入っているので、強火で焼くと焦げてしまう。    
 弱火でフタをして蒸し焼きにすると焦げないのだが、時間がかかる。焼いていると、ま
た味噌と紫蘇の香りが立ってくる。いかにもおいしい香りだ。            
 秋子さんは頻繁に裏表をひっくり返す。驚いたことに素手で油の付いた焼きもちをひっ
くり返すのだ。熱くはないと言うが、そんなはずはない。昔からこうしてきたからと平然
としているのだからすごい。                           
 箸を刺してみて、中が白いとまだ焼けていない。透明の汁が出たら焼けた証拠になる。
どのくらい焼いただろうか、秋子さんはかなり時間をかけてじっくりと焼いていた。  

 「出来たかね…」と言いながらひとつ持ち上げて、皿の上で二つに割った秋子さん。中
味が半透明で、きれいに火が通っていることを確認し、全部を皿に上げた。      
 自分で漬けたナスとキュウリ、大根をそれぞれ皿に盛ってテーブルに運ぶ。ナスもキュ
ウリも旨そうだ。ちょうど昼時になったので、めし焼きもちでお昼にすることになった。
 さっそく食べさせてもらった。外側がカリッと固いが、中は柔らかい。口に入れて噛む
と、味噌と紫蘇の香りが広がるもっちりした食感で、噛む毎に渾然一体となる。    
「いつもはもっと固くて厚いんだけどね。今日は柔らかめに作ったんだよ…」と秋子さん
が言う。「いや、これ旨いですよ」確かに、昔食べた自分の家の焼きもちより数段旨い。
「孫が好きでねぇ、三個くらい食べちゃうんだぃね。ネギや紫蘇を入れないで、たっぷり
の油で天ぷらのようにするんもおいしいんだぃね…」と嬉しそう。          

フライパンで焼く。味噌と紫蘇の香りが立ってくる。 自分で漬けたキュウリやナスを添えて、めし焼きもちを頂く。

 昨年の二月、五十六年連れ添った仲蔵さんが亡くなった。秋子さんは今、住み慣れた家
ではなく息子さんの家で暮らしている。山奥の急斜面に建つ家でのひとり暮らしは難しい
ので、仕方ない事なのだが、秋子さんからは、ふと家の話が出る。          
 桃が真っ赤になっていた。春は桃の花がきれいで、絵を描く人や写真を撮る人がよく来
たものだった。石垣の上には芝桜の花が咲いてきれいだった。今はイノシシが荒らして芝
桜の花もなくなってしまった。植木もいっぱいあった。ずいぶん運んだが、全部は運びき
れない。「本当にきれいなところでねぇ……」秋子さんの目の前には、仲蔵さんと過ごし
た家の風景が広がっているようだった。