山里の記憶151


金鉱の話:原田政雄さん



2014. 5. 17



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 五月十七日、秩父市大滝の川又に原田政雄さん(八十三歳)を訪ねた。昔見たことがあ
るという金鉱の話を聞くためだった。政雄さんは、東大演習林で造林の仕事をするかたわ
ら、岩魚釣りを趣味として、奥秩父山中を広範囲に歩き回っていた。         
 当時、甲武信小屋の管理人だった千島兼一さんと同級で、一緒に山を登ったり、山小屋
に荷物を運ぶ手伝いなどもしていたという。千丈の滝上にイワナを放流して上流に魚を増
やしたりしていた。政雄さんが見た鉱山の中でも、金山沢の妙法鉱山と入川上流股の沢の
股の沢金山の話を中心に聞いた。                         

昔見たという鉱山の話を、思い出しながら話してくれた政雄さん。 帰るのを見送ってくれた。庭のミツバツツジがきれいだった。

 政雄さんが子供時代に見たという妙法鉱山。入川上流の右岸に流れ込む金山沢に入り、
大荒川谷、小荒川谷の分岐を小荒川の方に入ったところにあったという。昔あった荒川小
屋の上で、小屋から十五分から二十分くらい登ったところに坑道があった。      
 荒川鉱山という名前も使われていたようだが、そこに同級生の父親が働いていて、遊び
に行ったことがある。尋常小学の高等科二年の夏休みだった。            
 妙法鉱山は、東京品川の橘(たちばな)旅館が鉱山権を持っていた。その頃は試掘をす
るのが仕事で、五本から六本の坑道が掘られていた。正雄さんは友達と一週間くらい坑道
作りの資材運びの仕事を手伝った。                        
 坑道の坑木を運ぶ仕事だった。坑道は四尺幅で高さが六尺。木枠を組みながら掘ってい
た。タガネと金槌で掘る手掘りだった。質のいい金と鉄が採れるという話を聞いた。  

 ここは金や銅、磁鉄鉱が出るということで、かなり有望な鉱山らしかった。戦時中の事
で、軍から資金が出ているという事だった。大荒川谷から孫四郎峠を越えて山梨に抜ける
道があった。ここを山梨県側から女の人が資材や生活用品を背負って運んでいた。   
 多くの資材は山梨県の方から運んでいたのだが、雁坂峠の下まで牛で引いて来て、そこ
から峠を越えて背負った運んでいるということだった。               
 昭和十九年ころの話だ。山梨県側から軍が配給する物資を運んでいた。鉱山では毎日米
の飯が食えたという。昭和の初期からやっていた鉱山だった。            

 当時、索道を張って三富まで鉱石を運ぶ計画があり、尾根を越える索道ルートの木が切
り倒され、索道の支柱になる角材(山の中で木挽きが引いたもの)が雁坂峠周辺のあちこ
ちに山積みされていたのを正雄さんは見ている。戦争が長く続いていれば、索道が出来て
鉱山になったのではないかと正雄さんは言う。                   
 ここには飯場や作業場があり、七人ほどの人が働いていた。鉱夫は一人で、他に木挽き
や雑役夫がいた。手伝いを終えて、山を下りる時に、お札を一枚と橘旅館という文字が入
った鉛筆を五・六本もらった。お札はいくらのお札だったか覚えていない。      
 そんな妙法鉱山だったが、政雄さんが遊びに行った何年か後、大嵐で何もかも流されて
しまい、そのまま閉山になったようだ。まだ索道は出来ていなかった。戦争も終わったし
、鉄の需要がなくなったためかもしれない。                    
 入川沿いに丸共(まるきょう:関東木材)の製材所があり、その入口に妙法鉱山の連絡
事務所があったのを覚えている。昭和十年代から二十年にかけての話だ。       

 その後、行く事もなかったのだが、思いもしない事で妙法鉱山を再訪することになる。
昭和二十七年の事だった。川又の発電所の隧道を掘るダイナマイトが爆薬庫から数箱消え
たという事件があった。帳簿と現物の数が合わなかったのだ。当時、共産党の「山林工作
隊」というのがあって、その連中が盗んだのでは? と警察が大がかりに捜索をする事態
になった。鉱山の坑道に隠した可能性があるということになり、たまたま妙法鉱山の話を
した政雄さんに「案内せい」という事になってしまった。              
 警察の言う事だからと、しぶしぶ金山沢まで登った政雄さん。いくつか坑道を見たのだ
がダイナマイトなど影も形もない。「もう、そんなもんありゃしねえから、見たことにし
て帰えるべぇ…」と警官に言って帰って来たという。もちろん、建物などは何もないし、
坑道も崩れてはいなかったにしても、入れる状態ではなかったという。        
「帳簿の方が間違ってたんだんべぇ。あんなとこに運ぶ奴なんかいるもんけぇ」と笑う。

 次は、昔から金山として掘られていた股の沢鉱山の話。ここでは知り合いが昭和四十年
の初めまで金を採っていたという。場所は十文字峠登山道のほど近く、十文字小屋まであ
と四十分くらいのところ。股の沢支流が登山道と交わる場所にあった。そこには昔使って
いた水車や精錬所跡がまだ残っていた。坑道は登山道の上の方にあった。       
 最後の金掘り職人だったのは川又の佐藤善蔵さんという人だった。佐藤善蔵さんは両神
でマンガン掘りをやっていた人で、その技術と知識を生かして金の採掘に応用していた。
 清川さんという人が鉱山の権利を持っていて、その清川さんの許可を得て、採掘をして
いた。夏の間、一ヶ月間くらいテントに泊まり込んでやっていた。          

 政雄さんはその頃、赤沢出合いにあった造林小屋に泊まり込んで造林の仕事をしたり、
学生達を案内したりして、よく奥に行った。もちろん魚釣りでも行った。股の沢で釣りを
した時は、支流を上がると登山道に出られるので、よく水車のある所を通った。    
 ここは武田信玄の時代から金を掘っていた金山跡で、往時には武田千軒屋敷と呼ばれる
くらいの繁盛ぶりだった。栃本の千軒地蔵は、この千軒屋敷跡にあったのを遷座したもの
で、扁額の『千軒地蔵尊由来』にはこう書いてある。                
『戦国時代、甲斐武田の家臣が荒川上流股の沢に金鉱を発見。鉱山の発展と従事者の  
 安全、周辺住民の繁栄を祈願し、千軒地蔵尊と御命名。同地の普門寺傍に安置した  
 といわれる。山の閉山後故あって御尊体はこの地に遷座された。        』 

栃本集落の外れ、杉林の中に静かに祀られている千軒地蔵尊の祠。 その昔、股の沢金山に祀られていたというお地蔵様。

 登山道沿いに水車や製錬所の跡があるが、明治以降のもののようだ。政雄さんは石臼を
見たこともある。鉱石を砕くために使っていたものだそうだ。            
 金掘り職人だった善蔵さんは『ねこ流し』という方法で金を採っていた。幅三十センチ
、深さ二十センチくらいの木の樋で、長さは二メートルくらいのもの。これを何台もつな
いで、全長三十メートルくらいの樋にした。ここに沢から引いた水を流し、採掘した鉱石
を粉に砕いて一緒に流す。一般的なねこ流しは樋の中に布やムシロを敷くのだが、善蔵さ
んは何も敷いていなかった。                           
 樋の出口に鹿の腹皮を揉んで作ったもみ皮をつり下げておく。金は比重が重いので、流
れ落ちる時に水と一緒に流れずに、この鹿皮に付着する。どんどん鉱石を粉にして流して
、金だけを捕獲する方法だ。もちろん大量の金が採れるはずはなく、大きなカマス一袋(
七十キロから八十キロ)の鉱石を砕いて粉にして流し、やっと耳かき一杯の金が採れるか
採れないかというくらいだったという。なかりの重労働だ。             

 往時の股の沢金山では、金だけではなく、鉄も採掘していたと言われ、その多くが十文
字峠を越えて、長野に運ばれたという。政雄さんは他にも鉱山の話を聞いている。   
「曲沢の方にも鉱石が出たっちゅう話も聞いたっけが、そこは大仕掛けにゃあならなかっ
たようだいねぇ…」                               
「水晶谷にゃあ、山梨から来た人がよく水晶を掘ったってぇ話を聞いたいねぇ。話による
と、ずいぶん水晶を掘ったらしいで。雁坂トンネルの工事現場でも水晶が採れたってぇ話
だぃねぇ…。あんまりいい水晶じゃなかったらしかったが…」            
「山登りや釣りをしてなけりゃ、こんな事は知らなかったぃねぇ。こんな事を知ってる人
間も俺で最後くらいじゃねぇんかさぁ。知ってる人もいなくなっちゃったぃねぇ…」  
「昔は魚さんぞいくらでもいて、いくらでも釣れたもんだった。沢の虫をエサにして釣り
放題だったいねぇ。全部岩魚だったよ」                      

 この川又は製材や炭焼きなど、よそから来た人が多い集落だ。政雄さんのおじいさんが
群馬から炭焼きでここに入ったのが原田家の最初だった。              
 昭和十六年の戦争で炭の値が上がり、丸共が活況を呈した。上中尾の小学校には寄宿舎
があって、丸共の子供達が入っていた。政雄さんも尋常小学二年から三年にかけて寄宿舎
に入っていた。丸共の景気が良かったから金もずいぶん使ったようだった。      
 昭和二十年の終戦後、演習林の仕事をする人が多かった。入川沿いに手押しのトロッコ
がまだ動いていた。昭和三十年ころから機関車が入り、トロッコを引くようになった。 
 演習林では、定年まで造林の仕事を中心にやっていた。赤沢出合いの造林小屋には十五
人くらいの作業員が泊まり込んで働いていた。両神や小鹿野から働きに来ている人が多か
った。山の中で、釣りくらいしか楽しみはなかったと山の暮らしを振り返る。     

 昔の川又は製材所があったり、木挽きがいたり、木地師がいたりしてにぎやかだった。
丸共の発荷なんか、ミカンを蒔いたりした。丸共のお祭りはぼんぼりを点したりして、そ
れは豪勢でにぎやかなものだった。今は本当に人が少なくなった。          
「人が住んでる家が、今は四軒だけになっちゃったぃねぇ…」政雄さんの声は静かだ。