山里の記憶149


粒餡ぼたもち:高橋ヨシ子さん



2014. 4. 21



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 四月二十一日、小鹿野町の河原沢に粒餡ぼたもちの取材に行った。取材したのは高橋ヨ
シ子さん(九十歳)で、お彼岸やお盆に毎年作るという粒餡ぼたもちの作り方を見せても
らった。近所の南さんと黒田さんも来てくれて、炬燵で昔話を聞かせてもらった。   

 ヨシ子さんはこの集落の生まれで、二十三歳の時、この家に嫁に来た。昭和十八年、二
十歳の時、十二月にこの家の千鶴男(ちづお)さんと「とっくり酒」(結納のこと)を交
わしたのだが、一月に召集令状が来て、千鶴男さんは満州に出征してしまった。ヨシ子さ
んは、結納したまま未来の夫が戦地から帰るのを待つ身になってしまった。      
 戦地の千鶴男さんから「写真を送ってくれ」と連絡が来たのだが、送れる写真がなく、
秩父まで写真を撮りに行って、それを送った。                   
 幸い千鶴男さんは二年半後の昭和二十一年六月、無事帰って来た。そして二人はその年
の十二月に祝言を挙げた。ヨシ子さん二十三歳の時だった。             

典型的な養蚕農家だったヨシ子さんの家。七十歳まで養蚕をしていた。 炬燵でたくさんの昔話をしてくれたヨシ子さん。

 嫁いできた家は大百姓で、ヨシ子さんはよく働いた。千鶴男さんは長男で、弟一人と妹
四人がいた。小姑が四人いる家だったが、みんなよく働いた。            
 養蚕が主な仕事で、家には馬が一頭、山羊やひつじがいた。馬がいなくなった後には牛
を飼った。家畜のエサにする草刈りが大変だった。特に牛は大量のエサが必要で、二子山
(ふたごやま)の下にある草刈り場からたくさんの草を刈って家に運んだ。草刈りは毎日
の朝っぱかにやった。朝起きて、芋を一個食って山に行く。それが毎日の日課だった。 
 毎日の乳しぼりも大変だった。せっかくしぼった牛乳のバケツを牛に蹴られてこぼして
しまったことも何度かあった。そんな時は本当に情けない思いがしたものだった。   
 牛の糞片付けも大変だった。二十日に一回、二十往復して桶で畑に運んだ。     

 近くに沢のないこの地区では、水の確保が大変だった。ヨシ子さんの家には井戸があっ
たが、つるべで風呂や台所に必要な水を汲み上げるのが重労働だった。昭和二十七年まで
つるべで水汲みをしていたが、その後はポンプで汲めるようになったので楽になった。 
 養蚕は春蚕(はるご)夏蚕(なつご)初秋蚕(しょしゅうさん)晩秋蚕(ばんしゅうさ
ん)晩々秋蚕(ばんばんしゅうさん)までやった。終わるのは九月末だった。ヨシ子さん
が七十歳になるまで続いた。                           
 冬は椎茸やしめじ作り。炭焼きもやったが、これは二年しかやらなかった。もっとお金
になるという話だったのだが、一冬やって三万円にしかならなかったからだ。     
 機織りで自分たちの着るものを自分で作った。布団も寝間着も自分で織った。繭を引い
て糸にすると、いい小遣いになった。                       
 紙漉きもやった。お蚕を飼う蚕飼紙(こげえがみ)や障子の紙を自分で漉いた。   

 河原沢には田んぼがないのでワラは貴重品だった。田んぼのある家から買って来て、縄
をなうのが夜なべ仕事だった。ある時、小姑の姉が十二束の縄をなったと言った。ヨシ子
さんは八束の縄しかなえなかったので、嘘だろうと思い、そっとその束を数えてみたら本
当だった。小姑が四人いたが、みんなよく働く人ばかりだった。           
 二十代のころは、そんな貴重なワラで編んだぞうりを履いて山仕事をしていた。一日履
いているとかかとがなくなってしまった。背負子の縄の間に替えのぞうりを入れておき、
かかとがなくなったら履き替えていた。今から考えると嘘のような生活だった。    

 まだ竈(かまど)がなく、全部が囲炉裏の生活だった。料理も加工も囲炉裏の火でやっ
た。味噌も醤油も自分で作った。大豆は山の桑畑に作った。山で干して、乾いたらムシロ
でくるんで家まで運んで脱穀した。大豆はいろいろなものになった。         
 豆腐は正月前に大量に作り、お彼岸まで食べた。寒い場所なので、毎日水を替えてやれ
ば持つものだった。まあ、多少酸っぱくなったが、普通に食っていた。        
 昭和三十年くらいまで近くに水車があって、そこで脱穀や製粉をしていた。麦、粟、稗
、キビなどを脱穀したり製粉したりした。小麦も水車で粉にした。水車を使う日と時間が
決められていて、その時間内しか使えなかった。夜の番に当たると、寝ずに水車の様子を
見なければならなかったので大変だった。                     
 モロコシも挽いた。モロコシのお粥は重曹を入れるとのめっこくなって食べられたが、
入れないとこそっぽくって食べられたものではなかった。              
 たまに山でウサギが捕れた。肉はこういう時にしか食えなかったので、肉飯にして食っ
たが、旨いもんだった。おじいさんが石でウサギの骨を細かく砕いて団子にしたものを煮
て食った。これも旨かった。ヤマドリが杉の根元に卵を産むので、それを獲って食ったこ
ともある。                                   

結婚前のヨシ子さん。当時としては貴重な写真。 養蚕が中心の生活だった。繭の出来具合を確認する千鶴男さん。

 山仕事の弁当は千鶴男さんが詰めた。メンパに麦飯でおかずは味噌だった。たまに鮭の
粕漬けが付いた。おばあさんが一月二十五日がくるまで漬け大根を食っちゃいけないと厳
しかったので、千鶴男さんは時々樽から盗んで山で食った。この時、ナタで刻んで食った
漬け大根は本当に旨かった。                           
 こんにゃく作りもやった。粗粉にして売るため、スライスしたものをスズタケに刺して
干した。冬場のことで、これが凍らないように出し入れするのが大変だった。コンニャク
の粗粉は群馬から買いに来た。不思議な事に買いに来るときは相場が下がり、売った後に
相場が上がった。何だか損をしたように思うことが多かった。            
 ある時、明日一万円になるという情報が入り、山仕事を止めてみんなでコンニャクを出
したことがあった。良い時は一俵二万円になったこともあった。コンニャクはお金にはな
ったが、相場に左右された。あるお盆の台風でコンニャクが全滅したことがあった。その
機会にコンニャクを止めた。                           

 昔話が長くなり、今日の目的を忘れそうになっていた。今日は粒餡のぼたもち作りを見
に来たのだ。ヨシ子さんが台所に立つ。鍋には柔らかく煮た小豆が大量に入っている。 
 バケツの上に金網のボウルを置き、大きな布巾がかけてある。このボウルに鍋の小豆を
ドバドバと注ぐヨシ子さん。腰が曲がっているが、動きはスムーズだ。        
 隣の黒田さんと交代しながらポテトマッシャーで小豆をつぶす。八割方小豆をつぶし、
粒餡の元を作る。そして、頃合いとみるや布巾を絞って水分を下のバケツに落とす。力い
っぱい絞る二人。年齢を感じさせない力強さだ。                  

 鍋に入れた水分を絞った小豆に砂糖を一キロ加える。ヨシ子さんはキビ砂糖を使ってい
た。さらに塩を小さじ一杯加えて、全体を混ぜる。これも力のいる作業なので、私が替わ
ってやる。混ぜて砂糖が溶けてくると全体がユルユルになってくる。         
「これを硬くなるまでせじる(煮詰める)んが大変なんだい…」とヨシ子さん。    
 ガス台の前にはヨシ子さんが座って作業出来るように専用のイスが置かれている。それ
に座って木杓子で鍋の小豆液をかき回す。ガスの火は強火だ。すぐに液が沸騰してくる。
「休むと跳ねるから休まずせじる(煮詰める)んだいね…」と言いながら鍋をかき回すヨ
シ子さん。疲れたとみるや黒田さんが交代して煮詰める。三十分ほど忙しく台所で二人が
動いていた。「もう固くなったからいいかね…」という声でガスの火が止められた。  

隣のキクエさんと二人でぼたもちを作るヨシ子さん。 ぼたもち作りを終えて、炬燵で満面笑顔のヨシ子さん。

 居間に置かれた炊飯器では餅米が炊き上がっていた。炊飯器と出来たての鍋の餡を並べ
、ヨシ子さんがビニールの手袋をする。そしてうちわで両方を冷ますように風を送る。 
 すぐに餅米を手に取り、クルクルと丸めて餡の上にポンポンと置く。黒田さんと二人で
その餅米玉に小豆餡をかぶせて丸くまとめると粒餡ぼたもちが出来がった。みるみるうち
にぼた餅がテーブルに並ぶ。                           
 小豆八合、砂糖一キロ、塩小さじ一杯の小豆餡。柔らかく炊いた餅米八合、全部で三十
六個のぼた餅が出来上がった。大量に余った小豆餡は小分けにして冷凍する。お汁粉やお
まんじゅうの餡としていつでも使える。                      

 出来たてのぼたもちを食べた。ほんのり温かい餅米に爽やかな甘さの餡がからみ、絶妙
の味が口に広がる。甘過ぎないからすぐに二つ目に手が伸びる。           
 ヨシ子さんが言う「昔からやってるから出来るんだい。若い連中はよせよせって言うん
だけんど、隠れ隠れやってるんだい。こせえればみんな食うんだから…」       
「みんな来てくれるからさみしくなんかないよ。おらぁ本当に幸せだいね…」