山里の記憶148


十文字小屋の話:山中邦治さん・時子さん



2014. 3. 24



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 三月二十四日、大滝の上中尾に取材に行った。取材したのは山中邦治さん(九十三歳)
と時子さん(八十五歳)のご夫婦。お二人は四十九年間という長い間、十文字峠にある十
文字小屋の管理人をしてきた。小屋番として暮らした山小屋での生活や苦労話を伺った。

 時子さんは栃本の林平(はやしだいら)の生まれだった。十七歳の時に秩父の横川商店
に女中に出た。親にも言わずに決めて、行くときに言ったら「三日で帰ったら承知しねえ
ぞ」って言われた。ここの苦労を経験すればどこでも生きていけるからと、三年間の厳し
い女中生活に耐えた。                              
 そんな時子さんが結婚したのが、栃本の下隣の耕地、上中尾の山中邦治さんだった。時
子さんが二十歳の時だった。結婚した家には一男七女の小姑がいる家だった。「時ちゃん
もなんでこんな古い家に嫁に来たん?」なんて言われた。              
 当時の邦治さんは炭焼きをやっていた。二十三の頃からやっていたのだが、結婚したの
が二十八歳だった。炭焼きも先が見えない仕事だった。二年後には長男が生まれ、生活は
ますます厳しくなった。炭焼きがなくなってしまう事がわかって途方に暮れていた時だっ
た。ある旅館の依頼で東京の学生が山登りをするのでガイドをしてくれないかという話が
あった。荷物運びのような仕事だったが、その時の学生達の言葉が邦治さんのその後の人
生を変えた。「おじさんのような人に山小屋の管理人をやってもらえたらいいね…」  

 昭和二十六年、秩父多摩国立公園制定と同時に山小屋が出来た。邦治さんはその管理人
に申し込み、十文字小屋の管理人に決まった。当時の十文字小屋は峠から一時間も下の位
置にあり、あまり人が立ち寄らないところだった。人気のある甲武信小屋や雁坂小屋と比
べて二十分の一くらいの収入にしかならなかった。                 
 山小屋は夫婦で管理した。時子さんは栃本から白泰山を越えて十四時間から十五時間か
けて山小屋に登った。十六キロの山道を子供連れで登った。食糧は自分の背中で運ばなけ
ればならなかった。長男を家のおばあちゃんに預けて山に行くのがつらかったという。 
「いとうしねぇかったよぉ…、本当にいとうしねぇかったよぉ…」と、その時のことは今
でも鮮明に覚えている。「息子に申し訳なくってさぁ…」家に残した長男を思った。  

ストーブの前で暖まりながら二人の山小屋での話を聞いた。 十文字小屋の全景。アズマシャクナゲの山小屋として有名だ。

 客の少ない十文字小屋だった。邦治さんは客の少ない時期は山を下りて畑仕事をした。
時子さんはそんな時はさみしい思いをしたが、しかたなかったのだと言う。「小姑がいっ
ぱいいる家から山に逃げたんかもしんないしねぇ…」四月から十一月まで夫婦で山小屋の
管理人をやって十五年が過ぎた。                         
 その頃、そんな二人を見ていた登山客からある噂が立った「十文字小屋の管理人が収入
が少ないから辞めるそうだ…」役所の人がそれを聞き、大変だということになった。  
 昭和四十二年、埼玉国体を契機に十文字小屋は今の場所に移転して新しくなった。この
年から急に山小屋に人が来るようになった。                    
 そして、決定的になったのが清水武甲氏が撮ったアズマシャクナゲの写真だった。この
写真が新聞に掲載され、ポスターになって東京の駅に貼られた。これが話題になり「奥秩
父のシャクナゲ」「十文字峠のシャクナゲ」という新しい観光資源が出来た。     
 新聞各紙が競うように取り上げたことがブームとなった。朝日、毎日、読売、産経、ど
の新聞社も日本一のシャクナゲ原生林と称えてくれた。               
 登山客だけでなく、大滝の人たちもシャクナゲを見に来た。昭和五十年ころは人が多す
ぎて困るようだった。中には「山小屋じゃなくってホテルのようだ」なんて言う人も出る
くらいだった。                                 

 邦治さんが言う「最初はえらくけちなところでさぁ、そこを色々変えたんだいね…」 
 近くに雷の影響で野球場ほどの広さに木が枯れた場所があった。そこにシャクナゲが一
面に生えていた。ここを売り物にしようとシャクナゲの手入れを始めた。       
 シャクナゲは毎年花を咲かせるために手入れが欠かせない。花が多く付きすぎるときれ
いな花にならない。ひと枝にひとつの花がもっともきれいに見える。花の季節にはツボミ
の段階で花摘みをする。二人で広いシャクナゲ原生林を手入れした。         
 花が終わるとシャクナゲは実を付ける。これも木の勢いを殺すことにつながるので、花
が終わる前に花摘みをして実を付けさせないようにした。これは本当に大変な作業だが、
毎年シャクナゲが咲かなければ、見に来る人もがっかりする。このシャクナゲの手入れが
一番大変だったと二人は言う。そういう努力の積み重ねがあって、観光資源としてのシャ
クナゲ原生林が維持されてきた。                         

これがアズマシャクナゲ。日本一のシャクナゲ原生林と言われている。 山小屋に来る登山客はリピーターも多く、二人との会話を楽しんだ。

 小屋の周囲にシャクナゲを植えたのも邦治さんだった。シャクナゲに囲まれた山小屋の
写真が新聞に載るようになり、それもまた客を呼んだ。「小屋のめぐりにシャクナゲを植
えたんだいね。きれえにするんと、荒れた木の根っこを隠す目的もあったんだぃね…」 
荒れ地だった山小屋の周辺に草花を植えて、お花畑のように変えた。         
 登山客は、花を見に来るくらいだから女性が多かった。シャクナゲの原生林を「乙女の
森」と名付けて写真を発表するとこれもまた客を呼んだ。              

 邦治さんと時子さんが同時に進めてきたのは、動物を寄せることだった。登山客は山小
屋で動物や野鳥を見るととても喜んでくれた。中でも客を喜ばせたのがリスだった。  
 山小屋の正面にコメツガの大木があって、そこにリスが住んでいた。邦治さんが「出て
来いよ〜」と笛を吹くとリスが下りてきてエサを食う。登山客は大喜びだった。    
 ホシガラスやカケス、コゲラなどが飛んできた。動物はテンやカモシカが出た。人を恐
れず山小屋の近くまで来るように、いろいろ考えて仕掛けをしたものだった。     
 リスの大好物はインスタントラーメンを砕いたものだった。これを撒いて笛を吹くとす
ぐにやってきた。野鳥とリスがエサを競って食べる姿が登山客を楽しませた。     
 こうした工夫のお陰で評判はどんどん広がり、リピーターも増えた。話題に釣られてや
って来て、楽しい時間を過ごす。そして、泊まってみたらそこにいい管理人がいた。こん
な山小屋はないと言われるようになった。「やっぱり管理人の人柄なんだよね…」と邦治
さんがしみじみと言う。四十九年間、管理人をしてきた人の確かな言葉だ。      

 そんな邦治さんに大変だった事は?と水を向けてみた。「六月にさぁ、雨と霧が多い時
でさぁ、まる十五日も誰も来なかった時があったんだぃ。あれはきつかったなぁ…」じっ
と待つことしか出来ない客商売のつらさだ。「忍耐力が付いたいね…」と振り返る。  
 時子さんは食事付きの山小屋という事で、料理の材料を確保するのが大変だったと話し
てくれた。梓山の松倉商店から米や食糧を買った。昭和四十二年の国体の時に林道が出来
て、買い物も楽になった。しかし、運ぶのは自分の背中だ。運べる量にも限界があった。
 梓山でいろいろ買い物をした後、野菜がいっぱいあるのだが、運べなくて断念した。山
小屋の近くに畑を作って野菜を栽培した。野沢菜や時なし大根は客に売るほど出来た。 
 あとは、やはり子供がいたこと。「子供を二人連れて山を登るのが大変だった…」これ
は時子さんにしかわからない大変なことだった。山小屋に住んでいることで、実家の不幸
やいろいろな行事に参加出来なかったことも多かった。その時は仕方ないと思ったが、今
は悪かったなあと思っている。                          

「ここにもいっぱい花を植えてるんだよ」と、庭を指さす時子さん。 玄関先で二人の写真を撮った。どうぞいつまでもお元気で。

 「健康だったからできた事だなぁって思うんよ…」「出来るんだったら、何も持たずに
いっぺん十文字に登ってみたいやねぇ…」「ほかの山登りもどこにも行けなかったんだい
ね。今も百名山のテレビを欠かさず見てるんだよ」「足が達者だったから出来たことなん
だよね…」「ひとりも遭難者を出さなかったんだよ。すごい事だよね…」       
 昭和五十九年からは、甲武信小屋の管理人もやってきた邦治さん。三年間やって息子に
引き継いだ。「小屋を盛り立てるんは小屋番の人柄だからって、息子によく言ったんだ」
人にいろいろ教えながらシャクナゲの手入れもさせている。平成十二年に十文字小屋の管
理人を辞めて、こちらも息子に引き継いだ。                    

 山のようなアルバムを見ながら時子さんが誰に言うともなくつぶやく。「時間はいくら
でもあったから写真はいっぱい撮ったんだい。リスの写真もシャクナゲの写真もいっぱい
撮ったよ。そうそう、秩父市の展覧会で賞を取ったこともあるんだよ…」       
 山のようなアルバムには、時子さんと邦治さんが過ごした山小屋での四十九年間が詰ま
っている。その全てが愛おしく懐かしい。