山里の記憶145


芋がらの巻き寿司:山中ミヤ子さん



2014. 1. 30



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 一月三十日、秩父市大滝の栃本に熊汁の取材に行ったのだが、取材先の山中ミヤ子さん
(六十九歳)から「熊汁の取材は友人にお願いして、今日は昔作った巻き寿司を今日作る
から、それを取材しない?」と提案された。                    
 昔作った巻き寿司とは何かと聞いたら、芋がらを使って作る巻き寿司だという。芋がら
を使う巻き寿司というのは聞いた事がなかったので、是非それを取材させて欲しいという
事になった。思わぬ展開で始まった取材だった。                  

「お茶でも飲んでからやるかね」とミヤ子さん。 芋がらの乾燥したもの。これをお湯で戻して料理に使う。

 昔は芋がらをよく食べたものだが、今ではほとんど食べなくなった。芋がらというのは
ヤツガシラやトウノイモの茎の皮をむいて干したもの。よく農家の軒先にぶら下がってい
たものだった。里芋の茎はスジが強いのであまり旨くない。ヤツガシラの茎が旨い。  
 カラカラに干した芋がらはぬるま湯に浸して戻す。戻すときに黒い色が出るので、何度
か湯を替えると良い。普通の料理では刻んでから戻すのだが、今回は長いまま使うので、
長いまま戻した。これを小鍋で煮る。柔らかくなるまで煮て、柔らかくなったら砂糖、み
りん、醤油で味付けをする。巻き寿司の芯にする場合は甘めにするといい。      

 酢飯は普通に作る。海苔は炙ってから使う。簀の上に焼いた海苔を置き、酢飯を均等に
敷く。中央か手前側に、煮て甘くなった芋がらを三本か四本重なるように置き、海苔巻き
にする。最後は簀で形を整える。芋がらを芯にした太巻きだ。芋がらの煮汁は絞らずに使
った方が味がご飯に浸みておいしくなる。                     

 ミヤ子さんは巻き寿司を二本作ってから、残った酢飯を俵型に握り始めた。三個の細長
いおにぎりが出来た。これに絞った芋がらを長いまま巻き付ける。グルグル巻きにして、
それを固めるように握る。                            
「昔はこういう握り寿司も作ったんだよ」と両手を忙しく動かしながら話してくれた。こ
れは何と言ったらいいのか、長いままの芋がらが巻いたお握りだ。ちょっと食べにくいん
じゃないかと想像する。                             
「本当ならかんぴょうでやるんだろうけど、かんぴょうがなかったんだいね。だから代用
品で芋がらだったんだと思うよ。桃の節句に作ったんだいね。いなり寿司なんかもちゃん
と作ったよ。でも、なんかこれを思い出してね…」懐かしい子供時代のお寿司だという。
 巻き寿司を切ってくれたのでひとつ頂く。芋がらのシャキシャキした食感が美味しい。
かんぴょうの柔らかさもいいが、このシャキシャキ感もいい。「ミヤ子さん、これ旨いで
すよ」と言うと「そうかい、そりゃ良かった」とニッコリ笑う。           

芋がらを柔らかく煮て、甘辛く味付けしたもの。これを寿司に巻く。 テーブルに巻き寿司の道具と材料が並ぶ。

 ミヤ子さんが生まれたのは秩父市の尾田蒔(おだまき)という地区だった。昔は尾田蒔
村だった。兄弟は五人。父親の兄弟も一緒に住んでいたので大人数の家だった。田んぼが
二反歩くらいあり、米を作っていた。米の裏作に小麦を同じ田んぼに作っていた。   
 人数の多い家だったので母が苦労したことを覚えている。田んぼや畑が多かったので、
食べるものは豊富にあった。お弁当なども白米で作ったからいい方だったんだと思う。 
 ミヤ子さんは学校を出てキャノン電子に勤めた。初任給は高卒で九千円、中卒で五千円
だった。二十七歳の時に縁があって、栃本の隆平さんに嫁いだ。           

 尾田蒔という広い場所から栃本に嫁に来た時の気持ちを聞いてみたら、畑が急で降りる
のが怖いようだったという。尾田蒔には栃本のように急な畑はない。栃本は秩父でも一番
急斜面に畑が作られている。関所があった関係で、石垣を築けなかったことが栃本の畑を
急斜面ににした。よその土地から嫁に来ると、その事が印象に残るようだ。      

巻き寿司作り。この後、芋がらを巻く握り寿司も作ってくれた。 出来上がった芋がら巻き寿司。四月三日の桃の節句(月遅れ)に作った。

 巻き寿司を食べながら、子供時代の話を聞いた。主に小学校時代のことを聞かせてもら
った。思い出話はお正月から始まる。                       
 お正月は母方の家に泊まりに行くのが楽しみだった。妹と母と三人で皆野の戦場(せん
ば)の実家まで一時間半歩いて行った。お年玉をもらうような習慣はなかったが、みんな
が良くしてくれるので、行くのが楽しかった。                   
 小正月の行事としては「どうろくじん焼き」をした。竹で三角に柱を組み、そこに正月
飾りや松飾りを積み上げ、ムイカラ(麦ワラ)なんかを積み上げて燃す。その火で餅や繭
玉を焼いて食べるのが楽しみだった。「どうろくじん焼き」は子供が全部やる子供のお祭
りだった。「今から思うと、よく子供だけでやってたいね…」とミヤ子さん。     

 二月には節分の豆まきが楽しみだった。イワシの頭と尻尾を焼いて、大豆の豆ガラに刺
して玄関の両側に飾った。豆まきもした。豆まきの豆は焼いてあって、歳の数だけ食うの
が習わしだった。                                
 三月下旬には「卒業おひまち」というのがあった。子供の卒業を祝って、いなり寿司を
作って天神様に上げた。親たちも楽しみにしているおひまちだった。お米を各家から五合
ずつ集めていなり寿司を作った。宿は交代で各家を巡回した。大量のいなり寿司を作り、
家に持ち帰って食べたものだった。                        

 四月三日が桃の節句でひな祭りだった。尾田蒔は月遅れの四月節句だった。白とキビと
草餅の三色の伸しもちをついた。菱形に切って三色に重ねて雛飾りにお供えした。この時
に芋がらの巻き寿司を作った。人が大勢来るので、いなり寿司なども作った。     
 ひな飾りは五段分くらいあって座敷に飾った。子供がそれぞれに持っているおひな様を
飾ったものだった。子供心にきれいなおひな様を見ているのは幸せだった。      

 五月から七月まではお蚕の桑取りが忙しかった。毎日学校に行く前に桑を取ってきて蚕
に食わせた。おこあげの時は学校を休んで手伝った。ほかの生徒もみんなそうだった。 
 五月の田植えから始まる田んぼの草取りも子供の仕事だった。夏休みはずっと田の草取
りをしていた。ミヤ子さんは自分の家の手伝いだったから駄賃はなかった。他の家に手伝
いに行った人は農休みにカンタン服(今で言うワンピース)を買ってもらう人もいて、う
らやましかったという。                             
 学校行事は春の遠足、秋の遠足があった。二十三番札所や影森の観音様まで歩いて行っ
たものだった。荒川にかかる巴橋がまだ吊り橋だったころの話だ。          
 運動会は十月にやった。おむすびを弁当に作ってもらって学校に行った。      

 稲刈りは家の大きな行事だった。子供もみんな手伝った。当時は稲の裏作に小麦を作っ
たので、稲を刈り取ってハデ(ハザ)にかけて、すぐに小麦を蒔いた。ひとサクおきに高
畝を引いた。水はけを良くするためと、小麦を冬の風から守る風よけだった。田んぼの肥
料は人糞や牛糞の堆肥だった。年に一度くらい化学肥料をやったように記憶している。 
 ハデにかけた稲はひと月くらい干して脱穀機で脱穀した。足踏み式ではなくモーター式
の脱穀機だった。精米機もあって、自宅で精米した。小麦は精米所で粉にした。大麦は精
米所で押し麦にした。                              
 豆腐屋さんが定期的に回ってきて、大豆と交換に豆腐や油揚げを置いて行った。豆腐屋
さんとは物々交換だった。                            

 十一月には「とおかんや」をした。旧暦の十月十日の夜にやるモグラよけのおまじない
で、子供だけでやる行事だった。藁鉄砲を作って蒔田(まいた)の赤田という集落の中を
回った。「とおかんや とおかんや とおかの晩はいい晩だ 朝ぼた餅に昼だんご よお
蕎麦食ったら ひっぱたけ」と歌いながら藁鉄砲で地面を打ちたたいて集落の家を回る。
 各家ではお菓子や駄賃を子供に渡す習わしだった。お菓子や小遣いがもらえるので楽し
みな行事だった。                                
 十二月三日は秩父の夜祭りに行った。歩いて行って、明るいうちに歩いて帰ってきた。
 年末の餅つきは白餅とキビ餅をついて伸し餅にした。小豆があったのであんこ餅も作っ
た。お正月はお雑煮ではなくてお汁粉だった。                   

 ミヤ子さんに子供時代の料理を再現してもらって、子供時代の話を聞いた。あの頃の子
供は朝から晩まで一年中忙しかった。家の手伝いも遊びも忙しかった。そして一年のなん
と長く充実していたことか。自分の子供時代を重ねて、懐かしく思い出した。